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一 「ずない道」って何だ。

 街中の排水溝から湯気が立つのを湯ノ沢 琴吹(ゆのさわ ことぶき)はおどろいて凝視した。

 地元の人にしてみれば見慣れた風景なのか、驚いた琴吹(ことぶき)の顔を、目を丸くして眺めて行く。

 傍らの空き店舗のガラスの方を向き、髪を直している振りをして何となく誤魔化した。

 背は標準程度、逞しくもない細身、フツメンの中の中くらいの面白くもない自身の姿が映る。

 手にしたビニール製の買い物袋には、洗面器とタオルと石鹸を入れて来たが、持ち物はこんなものでいいのだろうか。


 F市E坂温泉街。


 倭建命(やまとたける)伝説にも登場するとかいう温泉街だ。

 第六志望くらいだった大学に入学が決まったのは、春の始めの頃。

 他の志望校は地元から近県ばかりだったため、すっかり実家から通うつもりでいた。まさか馴染みの無い東北に住むことになるとは思わず、独り暮らしのアパートは慌てて探した。

 家賃の相場は安価で助かったが、それでも良さげなアパートは既に新大学生で埋まり、残っていたのは今どき風呂なしトイレ共同のアパートだけだった。

 温泉街に近く、共同浴場も街中にいくつかあるので、風呂はそこで入ればいいと地元の市役所の人が電話で教えてくれたが。

 銭湯みたいなもんかと認識した。

 そういった所には行ったことはないが、全て温泉とは豪華だなと思う。

 ネットで調べて、アパートから一番近い「霧湯」という所に行こうとしたが。

 

 迷った。


 琴吹は辺りを見回した。

 ともかく細い道が入り組んでいて分かりにくい。

 しかも街が全体的に平地ではないのだ。途中から高台になった界隈があったり、逆に低地に通じるらしい階段があったり。

 先程は適当に見当を付けて石の階段を降りて行ったら、街の入り口から流れる大きな河の岸辺に出た。

 慌ててスマホでググったら「明治大正の頃は屋形船で賑わい」とかいう要らん情報が出てきたので余計に焦った。

 途中で人に聞こうにも年寄りしか歩いておらず、地元言葉で話されるのでますます分からない。

 「ずない道」って何だ。

 「そこを落ちたら」と言われたが、なぜ落下する必要が。

 とある小さな商店では、つい店の入口を塞いでしまい「ぬさ、かせ」と爺さんに言われたが、ぬさって何だ。何を貸すんだ。

 寂れた元旅館らしき建物。

 そこに沿うように降りて行く、この街で何度目か見た石段を前に、琴吹は座り込んだ。

 何か、ここでやっていける気がしない。

「ちょっと、かしてくれる?」

 若い女の子の声がする。

 顔を上げると、ロングの髪をハーフアップにした女の子が屈んでこちらを覗き込んでいた。

 逆光になっていたが、丸顔とぱっちりとした大きな目が印象的だ。

「かして。邪魔」

 女の子は地面を指差した。

「……あの、何を貸すんでしょうか」

「はああ?!」

 女の子は声を上げると、琴吹の腕を掴み強引に立たせた。

 ふらふらと中腰になったところを、更に勢い付けてグッと直立させる。

 デニムの上着の合わせから覗いたカットソー越しの胸の膨らみが、派手にぽよんと上下する。

 で、でかい。琴吹はつい凝視した。

「喧嘩売ってる訳?!」

「い、いえ。売ってないです」

 琴吹はおろおろと後退った。

「かしてって言ってんじゃない」

「だから何を貸せば……」

「喧嘩売ってんのかああ!」

 可愛い顔の歯を剥き出しにして、女の子が睨む。

 特に柄の悪い感じはない見た目だが、余程こちらが不味(まず)いことでもしたのか。

 田舎の仕来(しき)たりにでも反したのか。市役所職員さん、その辺もちゃんと教えて欲しい。

(いずみ)ちゃん、余所(よそ)がら来だ人でねえが? “退()けて” って言わなきゃ分がんねぞ」

 八十代ほどのお婆さんが、横をのっそりと通りすぎながら言う。ゆっくりとした足取りで、急な石の階段を降りて行った。

 泉と呼ばれた女の子が琴吹の顔をまじまじと見る。

「余所から来た人?」

「そ、そうです」

 ジリジリと後退りつつ琴吹は答えた。

「どこから」

「か、関東から」

 泉は、ますます琴吹の顔をじっと見た。

「もしかしてF大の新入生?」

「そ、そうです」

「んじゃここの土地の言葉分かりませんって、ちゃんと言えば?」

 言う暇もなかったんですけどと琴吹は内心で反論した。

「あの……」

「なに」

 石段を降りかけた泉を呼び止める。

「霧湯ってどこでしょうか……」

「ここだけど」

 言いながら泉は、石段の途中にある小さな建物の扉を開けた。

 石段側に向いた小窓から中が覗き見える。中は、三畳一間ほどの炬燵(こたつ)を置いた畳部屋らしい。

「浴場はここ降りてった先ね」

 泉が地下の方を指差す。暗い階段の先を琴吹は眺めた。

「本当は霧湯の湯守(ゆもり)はうちのお婆ちゃんなんだけど、よく代わりにやるの」

「湯守」

「浴場の管理人っていうか」

 銭湯でいう番台みたいなやつかと琴吹は思った。

 階段の途中に待機してるのか。男湯と女湯の間に座ってるのをイメージしていた。

山姥(やまんば)のおばんちゃんにも、お礼言いなよ。壁越しでいいから」

 小さな畳部屋に入りながら泉が言う。

「おばんちゃん?」

「お婆ちゃんってこと」

 それ以前に山姥ってどういうことだ。渾名(あだな)だろうか。

 降りればいいのかと石段の下方を見た琴吹に、小窓から顔を覗かせた泉が手を差し出す。

「えと」

湯札(ゆふだ)。出して」





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