第8話 北集落脱出(前)
パン! という乾いた銃声が狭い処置室に轟く。想像していたより軽い反動が京平の手を揺らしたものの、三十八口径の弾丸は違わず母の頭を貫いた。母の身体は二、三回痙攣し、そして動かなくなった。リノリウムの床に、赤い血が広がってゆく。
「お母さん!」
絶叫とともに夏海は母に駆け寄り、既に息絶えた母に抱き着いた。
京平は立ち尽くし、わんわんと泣く夏海を見つめることしかできない。油断すると感情が溢れそうになるが、今はそれどころではないと必死に抑える。銃声と夏海の泣き声を聞きつけて、感染者が押し寄せてこないとも限らないのだ。
「さあ、行こう」
京平は声を震えさせながら、夏海の肩を掴んで起こそうとする。しかし、その手は夏海に乱暴に払い除けられた。
「銃声を聞いた感染者が来るかもしれない。もう行かないと」
京平は諭すように言いながら、なおも夏海を立ち上がらせようと肩を掴む。夏海は母の亡骸から手を離そうとせず、再度京平の手を払い除けようとするが、今度は京平も放すつもりはなかった。
京平はさらに引っ張る力を強め、ついに夏海を母から引き剥がした。無理やり母から引き離された夏海は素早く立ち上がると、振り向きざまに京平の頬を強かに叩いた。バシッという強烈な音がして、頬が電撃でも食らったかのように痺れる。
「触んな! 放せよ、人殺し!」
そう叫んで、夏海は京平を憎悪の眼差しで睨みつけた。夏海の放った「人殺し」という言葉は、平手打ちなんかよりよほど、京平をふらつかせる威力を持っていた。京平はよろよろと後退り、未来が二人の間に割って入る。
「夏海ちゃん、お兄ちゃんに向かってそんな――」
「人殺しに人殺しって言って、何が悪いの!? あいつ、お母さんを殺したんだよ!」
涙を流しながら京平を糾弾する夏海の目を見て、京平はさらに強い衝撃を受けた。夏海の目に浮かぶのは憎悪と怒りだけで、そこにはさっきまでは確かにあった家族へ向ける信頼など、一片もなかった。
「……京ちゃんは、せめてお母さんが苦しまないように、楽にしてあげたんだよ。先生が『楽にしてあげて』って言ってたの、聞いてたでしょ?」
「なんで未来ちゃんまで、あんな人殺しの肩を持つのよ!」
未来は諦めず夏海を説得しようとしてくれていたが、夏海は聞く耳を持たない。
京平は、ごちゃ混ぜになった感情の奔流が頬の痛みで化学変化を起こし、腹の中で怒りに変ってゆくのを感じた。
先生に放っておいてもじきに死ぬと宣告され、爪が剥がれるのもお構いなしに床の上でもがいていた狂ってしまった母を、京平は先生の言う通りに苦痛から「解放」したのだ。もし京平が撃っていなければ、母はより長い時間に渡って苦しみながら死んでいくことになっただろう。
京平は、自分に出来る精一杯のことをしたつもりだ。なのに、何もしないでただ泣いていただけの夏海に人殺しなどと罵られるのは、いくらなんでも違うだろう。
さらに京平を糾弾しようと口を開いた夏海に、ついに怒りが頂点に達した京平は怒鳴っていた。
「俺だって、殺したくて母さんを殺したわけじゃねえんだよ! それともお前なら、もっと他にやりようがあったってのか!?」
感情の奔流を吐き出すかのようにひとしきり喚いた京平を、夏海が黙って睨みつける。
処置室を、殺気立った沈黙が包む。未来は二人の間で、おろおろと視線を両者に交互に向けながら、何かを言おうと口を開いては閉じることを繰り返すことしかできない。
処置室の中で生じた凄まじい破壊音が沈黙を破った。未来と夏海が悲鳴を上げ、京平も驚きの声を上げて反射的に首を竦める。
すぐに音のした背後を振り向くと、引き違い窓の左側のガラスが砕け散り、びしょ濡れの白装束の女が窓から処置室に侵入しようとしていた。京平は咄嗟に拳銃を構えるが、動く相手と緊張が相俟って上手く狙いが定められない。
白装束はまだガラス片の残るサッシを両手で掴み、ボサボサの長い髪の間から白濁した目で京平たちを睨みつけながら、上半身を持ち上げた。
次の瞬間、京平が引鉄を引いた。乾いた銃声が未来と夏海の悲鳴を掻き消し、放たれた銃弾が白装束の肩を貫く。白装束は肩を強かに殴りつけられたかのように仰け反り、手がサッシから離れた。
白装束が視界から消え、直後に背中からコンクリートの地面に落下するドサッという音が聞こえてきた。
ひとまず脅威は排除したと思ったが、しかし、まだ危機は去っていなかった。窓の外から、獰猛な野生動物のような咆哮がさらに聞こえてくる。咆哮はかなり近く、他にも感染者が診療所に接近してきているようだった。
「裏口に行け。逃げるぞ」
京平はいつ感染者が来ても撃てるように拳銃を構えながら、未来と夏海の前に立って処置室を出た。
隣の物置部屋には裏口があり、駐車場へ出られる。懐中電灯を置いてきてしまったので物置部屋は真っ暗だったが、駐車場に出ると、集落のあちこちで発生している火災の赤い光のお陰で辛うじて一台の車の影を捉えることができた。
三人は小走りで車に駆け寄り、未来と夏海は後部座席に、京平は運転席に乗り込んだ。車泥棒などあり得ない離島なので、当然のようにドアの鍵は掛かっていなかった。
「そう言えば、あんたって運転できるの?」
後部座席の未来が、京平に尋ねた。京平はドアを開けたときに自動点灯したルームランプを頼りに鍵穴を探しながら、「まあ少しは」と答える。
父が家の軽自動車を出す時には、たしかキーをハンドルの下あたりに挿していた。そう思い、ハンドルの辺りに視線を向けると、ハンドルの根元の脇に鍵穴を見つけた。先生から渡されたキーを鍵穴に挿し込み、右に捻る。
セルモータの回る甲高い音が予想外に大きく鳴り響き、ヘッドライトが点灯する。映画のようになかなか掛からないといったこともなく、エンジンは一発で始動した。車体が身震いを始める。
エンジンが掛かると同時にヘッドライトが一段と明るくなり、駐車場前の道路に立つ赤い服の女を照らし出した。女は眩しそうに手の平を顔の前で広げて、こちらを見た。
「マジかよ、あれ星野さんじゃねえか」
京平の呟きの通り、女は京平たちのご近所の星野さんだった。一瞬、無事だったのかと考えたが、鼻と上唇がごっそり消失し、右腕の肘から先が無い姿で無事のはずがない。
服の赤は斑模様で、自分が流した大量の血で赤く染まったようだった。少し前まで星野さんだった感染者は、まるで「お前が玄関を開けてくれなかったからこうなったんだ」と責めるかのように京平を睨みつけながら、土砂降りの雨さえ降っていなければ島中に届くであろう大声で咆哮した。
「行って、行って!」
未来に急かされるまでもなく、京平はアクセルを踏み込んだ。エンジンが振動とともに力強い排気音を轟かせ、タコメータの針が跳ね上がる。
だが、車は一切動かない。
「ちょっと、何してんの!? 早く行ってよ!」
「分かってる! なぜか進まないんだよ!」
京平はアクセルを踏み続けるが、車体はエンジンの唸り声を無視するかのように一ミリも進まない。表面を流れる雨水で歪むフロントガラス越しの視界の中で、ヘッドライトに照らされる星野さんがこちらに走り出すのが見えた。
「そうか、これか!」
京平はアクセルペダルを踏みっぱなしにしたまま必死に記憶を漁り、父がエンジンを掛けてその次に何をしていたかを思い出した。
運転席と助手席の間にあるシフトレバーを握り、手前に引く。ガチャリという感触が腕に伝わってくるのと同時に、メータパネルに表示されていた「N」の表示が「D」に変わった。
直後、唸り声を上げていたエンジンの動力が一気にドライブシャフトに繋がり、キーッという甲高いスキール音とともにリアタイヤを空転させながら、車は急発進した。
後部座席で未来と夏海が金切り声を上げ、京平は声もなく歯を食いしばる。星野さんだった感染者が急速に迫り、回避する暇もなく撥ね飛ばした。助手席側のフロントガラスが蜘蛛の巣状に割れ、星野さんは縦に回転しながら吹っ飛ぶ。
車は駐車場を飛び出す。京平はハンドルにしがみつき、がむしゃらにハンドルを右に回す。フロントガラスに映る景色が左に流れてゆき、進むべき大通りを通り過ぎて目前に塀が迫る。
まずいと思い、ブレーキを力いっぱい踏み込みながらハンドルを戻そうとするが、遅かった。
ただでさえ雨で滑りやすいのに、空転しているリアタイヤはグリップを失っており、車がスピンしたのだ。強烈な遠心力が京平たちを不可視の手で掴み、力いっぱいに引っ張ってくる。
少なくとも一回転はしそうだった車の回転運動が、激しい衝撃と金属のひしゃげる音とともに急に止まった。シートベルトをしていなかった京平は慣性で助手席に投げ出され、後部座席からは呻き声が聞こえてくる。
「クソ……大丈夫か?」
「ええ、一応……夏海ちゃんは大丈夫?」
「…………多分」
京平は後部座席の二人の無事を確かめてから、身体を起こして運転席に戻った。ルームミラーには砕け散ったリヤガラスと、電柱に食い込んだトランクが映っている。
スピンしながらトランクの左側面を電柱に衝突させたらしい。トランクの外板が捲れ、見た目では大破といっても過言ではない損傷だった。
「あんた本当に運転したことあるの?」
再びルームミラーを見ると、眉に皺を寄せる未来と目が合った。京平は「もちろん。プレステでだけど」と答え、右足をブレーキから離してアクセルに踏み替える。
動くか不安だったが、電柱と車体を派手に擦らせる断末魔のような音を奏でながら、車がゆっくりと動き出した。ひとまず車が動いたことに安堵する京平と対照的に、未来は「冗談でしょ」と顔を青ざめさせる。
後方から、先ほどと同じような感染者の咆哮が聞こえてきた。銃声にエンジン音に事故まで起こせば、いくら土砂降りの雨が降っていようと、音は北集落の端まで届いたはずだ。咆哮の発信源はそこまで近くはなさそうだったが、じき感染者が大挙して押し寄せてくるだろう。その前に、ここを離れなければならない。
「シートベルトしてろよ」
京平はそう言って、さらにアクセルを踏んだ。キーキーと金属の擦れるような音を立てながら、車は加速してゆく。