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カルトアイランドZ  作者: 冷凍野菜
第1章
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第7話 望まぬ再会(後)

「見ないほうがいい」


 先生が諦めたかのように呟いた。京平は猛烈に嫌な予感がして、エックス線室の鉄扉を凝視する。夏海も京平と同じ考えが浮かんだらしく、「母さん!」と叫ぶや、放射線防護用の鉄扉に走り出した。

「よせ!」と先生が声を上げ、京平と未来が急いで夏海を追いかける。

 夏海はそれら一切を無視し、鉄扉のドアレバーを押し下げ、重たい扉を自身の体重を乗せて引っ張り開けようとする。

 扉がゆっくり開いてゆき、次の瞬間、開いた扉の隙間から二本の腕が飛び出してきた。


「きゃあああ!」


 驚いた夏海が金切り声を上げて尻もちをつく。夏海の手を離れて床に落下した懐中電灯の光が、うつ伏せに倒れたまま首だけを上げて、こちらに手を伸ばしてくるナース服の女を照らし出した。


「そんな、嘘だろ……」


 京平の手から特殊警棒が滑り落ち、床で金属音を立てた。

 歯を剥き出しにして血の混じった涎を垂らすナース服の女性は、母だった。

 高校に進学してからは長期休みのときしか会わなくなったが、それでも母を見間違うはずがなかった。


 白濁した目で自分の子供たちを捉えた母は、腕をじたばたと動かして、京平たちに近づこうと藻掻いている。母は、カナリア聖教の白装束たちや駐在の奥さんと同じように、自分が育ててきた京平と夏海のことを獲物か何かとしか見ていないようだった。

 目の前で呆然としている息子と娘に喰らいつくべく、滅茶苦茶に腕を振り回して動こうとする母だったが、しかし両手の爪が虚しくリノリウムを引っ掻くだけで、京平たちに一センチたりとも近づくことはなかった。

 下半身が、横倒しになったレントゲン機材の下敷きになっているのだ。


「お母さん、お母さん!」と泣き喚きながら母に駆け寄ろうとする夏海の肩を、未来が抱いて必死に引き留める。

 京平は母の腕が届かないぎりぎりの場所に立ち尽くし、変わり果てた母を見下ろした。もはや理性の欠片も見えない、人の形をしているだけの獣と化した母が白濁した目で見返してくる。


「噛まれると感染するようだ」


 先生がぽつりと呟いた。小さい声だったが、母の唸り声に掻き消されることなくはっきりと聞こえたその声に、京平は振り向いた。泣き続ける夏海と、宥める未来も先生のほうを向く。


「突然押しかけてきたカナリア信者たちに診察中の患者が噛み殺され、私たちはエックス線室に逃げ込んだ。だが、長谷川さんも噛まれていた。恐らく、噛まれたことで狂犬病のようなウイルスか細菌に感染したのだろう。長谷川さんはすぐに意識を失い、しばらくして目覚めると、あいつらと同じように私に襲いかかってきた。私は長谷川さんを機材の下敷きにして逃げるしかなかった」


 先生はそう語った後、「本当にすまない」と言って顔を伏せた。


 京平は、狂った白装束たちは洗脳か薬物投与か何かを受けていたのだろうと、なんとなく考えていた。だから、カナリア聖教とは一切接点のない母親がこうなる可能性など全く考えなかったし、そもそも思いつきすらしなかった。

 京平にとって、母親の無事は前提条件であり、そこを疑ったりはしなかったのだ。


「……これが感染症だって、なぜ分かるんです?」


 受け入れがたい現実を前に、京平は絞り出すように先生に聞いた。先生は顔を上げ、京平を憐れむように見やった。


「噛みつくことで症状が伝染するとなると、ウイルスか細菌による感染症の他にない。ヒトヒト感染での例は知らないが、これと症状が似ている狂犬病は、犬に噛まれることで感染する。感染から発症までの時間の短さは驚異的だが、これは感染症とみて間違いないと思う」


 先生が滔々(とうとう)と話す。

 京平にも、白装束たちが洗脳の結果狂ったのではなく、狂犬病ウイルスに感染して狂ったのだという先生の話は理解できる。むしろ洗脳なんかより、ウイルスのほうがよほど本当っぽくはあった。

 しかし、母も奴らと同様に感染者と化したというのは認めたくなかった。今朝までは普通に言葉を交わしていた母が、理性を失ってゾンビのようになってしまったなどと誰が認められようか。

 だが、濁った目で京平を睨みつけながら腕を伸ばしてくる母は、白装束の衣装を着ていないこと以外は奴らと同じだと認めざるを得なかった。


「まあ、でも、狂犬病ならワクチンとか抗生物質とかあるんですよね? それでおばさんは元通りに――」


 常に楽観的な未来が希望的観測を口にする。しかし、先生はそれをにべもなく否定した。


「症状に狂犬病に似ているところがあるというだけで、これは狂犬病などではない。こんな症状の病気を、私は見たことも聞いたこともない。ワクチンも存在しないだろう。それに、もし治療法があったとしても、長谷川さんはもう…………」


 言葉を濁す先生に、京平はさらに嫌な予感を覚えながらも、「もう、何ですか?」と問い詰める。先生は諦めたように、素直に話し始めた。


「重いレントゲン機材に長時間押しつぶされた足は血が回らず、閉じ込められた血が固まり始めているはずだ。もし機材を除ければ、大量の血栓が上半身に流れ込んできて、長谷川さんは悶え苦しみながらショック死するだろう。この島の医療設備では、それを防ぐ手立てはない。長谷川さんは、もう助からない」


 京平は目の前が真っ暗になるのを感じた。よろよろと数歩下がり、壁に寄り掛かって、気を抜けば崩れそうになる身体をなんとか支える。夏海が一際大きな泣き声を上げ、未来が夏海を力いっぱいに抱きしめた。


「……先生にも、どうにもできないんですか?」


 壁にもたれ掛かってこちらを見る先生に、京平は聞いた。先生はもう目を逸らすことなく、京平の目を真っ直ぐに見返した。


「すまない。この診療所の設備では、どうにもならないんだ」


 京平は沈痛な面持ちの先生から目を離し、母を見る。母は先生から自分の死を宣告されたというのに、相変わらず唸り声を上げながら京平を掴もうと腕を伸ばしてくる。

 もはや言葉も分からないのだろう。京平は医学的な知識など持ち合わせていないが、それでも母が完全に狂ってしまっているのは分かった。

 だが、だからといって「あ、そうですか。分かりました」と母を諦められるわけがない。先生にとっては所詮他人だろうが、京平と夏海にとっては唯一の母親なのだ。

 

「先生はさっきからずっとそこを動かず、母さんの様子をきちんと確かめてもいないじゃないですか。助からないなんて、本当に分かって言ってるんですか?」


 京平が先生を非難するように言う。


「誓って嘘は言っていない。この状況だと、もうどうにもならない」


「でも、もしかしたら……まだ意識だってあるのに、諦めて何もしないで、死ぬのを待つなんて。……せめて、ダメもとでもいいから、助けようとしてくださいよ。お願いです」


 京平が先生の前で膝を着いて深々と頭を下げ、未来の腕の中で泣きじゃくっていた夏海も「お願い、お母さんを助けて」と涙ながらに訴える。先生は壁にもたれ掛けた上体を身じろがせ、二人から目を逸らすように顔を伏せた。


「すまない。力にはなれない。……私も噛まれたんだ」


 先生は白衣の袖を捲って見せた。先生の前腕には、歯型の青い内出血の跡がくっきりと残っていた。京平は無意識に二、三歩後退(あとずさ)る。


「最初は大丈夫かと思ったが、噛まれたところから少しだが血が滲んでいた。そこから感染したらしい。さっきからとにかく気分が悪いし、身体が言うことを聞かない。私も遅かれ早かれ正気を失って、カナリア信者たちや長谷川さんと同じようになるだろう」


 絶句する京平たちを余所に、先生は「だが」と続ける。


「私は、理性を失い見境なく他人を襲うゾンビにはなりたくない。……京平くん、その棚の上から三段目にナイフが入っている。渡してくれないか」


 先生は諦めを感じさせる声音で言った。京平は「ナイフなんか何に使うんだ」と一瞬考え、そして、すぐに先生が何をしようとしているのか察した。


「そんな、自殺なんてダメですよ! 今は無理でも、いずれ治るかもしれないじゃないですか!」


 京平と同様に、先生が何をしようとしているのかに気づいた未来が訴えるが、先生は「それまで檻にでも入れておくか?」と力なく笑った。


「一度発症してしまえば、もう治らないだろう。もし仮に治ったとしても、正気を失っている間に誰かを殺すようなことがあれば、私は耐えられない」


 先生は京平を見つめて、ただ一言「頼む」と言った。

 先生の目に、諦念だけでなく覚悟が宿っているのを見た京平は、ズボンのポケットの中のずっしりと重い感触を思い出した。京平はポケットからリボルバー拳銃を取り出し、先生に差し出した。背後から未来が絶句する気配が伝わってくる。

 先生はリボルバーを受け取り、しげしげと眺めながら、「駐在さんのか?」と聞いてきた。


「多分。駐在所に落ちてたので」


 駐在が感染した奥さんに噛み殺されたことまでわざわざ言うつもりは、京平にはなかった。


「少し見せてと頼んでみたことがあるが、彼は絶対に拳銃だけは触らせてくれなかったが……これからどうする気だね?」


 リボルバーに目を落としていた先生は、思い出したかのように顔を上げて聞いてきた。京平は少し考える素振りを見せてから答える。


「とりあえず山向こうに行きます。山向こうが安全かは分からないけど、ずっとここにいても仕方ないので」


 母も先生も頼れない今、京平が今後の方針を決めなければならない。未来と夏海をさらに不安にさせないために、成り行きとはいえリーダーのようなポジションになってしまった京平は、その役目を果たす必要があった。


 蛇原山の向こうには小規模な集落が存在し、京平たちこちら側の集落の住民は「山向こう」と呼んでいる。

 こちらから山向こうに行くには、「昭野島一周道路」の名前通り、昭野島をぐるりと一周する島唯一の県道を通って蛇原山を迂回しなければならず、徒歩だと一時間ほどかかる。そのため、山向こうは感染した白装束たちの襲撃をまだ受けていない可能性がある。

 もちろん、こっちと同様に白装束が暴れ回っている可能性もあるが、どちらにせよこちらにいても危険であることに変わりはない。ならば、山向こうに賭けてみるしかないだろう。

 

「山向こうまで歩くのはしんどいだろ」


 そう言って、先生は左手で白衣のポケットから何かを取り出して京平に差し出した。京平は受け取ろうと手を伸ばすが、伸ばした手は空を掴んだ。力が抜けたかのように、先生の腕がふっと下がったのだ。

 先生の渡そうとした何かが軽い金属音を立てて床に落下し、京平は屈んでそれを拾った。それは何かの鍵だった。


「裏口の前に停めてあるクラウンだ。使うといい」


 先生がくれたのは、どうやら車のキーらしい。京平はまだ高校二年生なので、当然、自動車免許は持っていない。もちろん運転など出来ないので返そうかと考えたが、突然先生が呻き声を上げて苦しみだし、それどころではなくなった。


「大丈夫ですか!?」


 京平が先生に手を伸ばすが、先生は「離れろ!」と怒鳴って京平を突き飛ばした。


「……この苦しみは、想像を絶する……自分の身体が自分のものではなくなっていくのが分かる。……医者の私が言うべきことではないだろうが…………お母さんを楽にしてやってくれ。悶え苦しみながら死んでいくくらいなら、いっそ――」


 息も絶え絶えに言った先生は、次の瞬間、リボルバーの銃口を自らの右胸に当て、引鉄を引いた。運動会のピストルのような乾いた破裂音が処置室の中で反響し、京平たちの耳を襲う。

 キーンという耳鳴りが銃声の残渣のように耳に残り、遅れて漂ってきた硝煙の臭いが鼻腔を刺激する。


 咄嗟に目を閉じていた京平は、恐る恐る目を開けた。先生はさっきまでと同じように壁にもたれ掛かっていたが、胸に開いた穴から溢れ出す血が、先生が死んだことを示していた。

 京平は、半開きになっていた先生の瞼を閉じてやった。そして、右手に握りしめられていたリボルバー拳銃を取り、振り返る。

 五メートルと離れていないエックス線室の床の上では、変わり果てた母が相変わらず床を引っ掻いている。爪が剥がれ、血が滲んでいるのにも気づいていないようだ。


 京平は立ち上がり、母のほうへと歩き出す。座り込む未来と夏海の横を通る際、「耳を塞いでろ」と言うと、未来が顔を向けてきたが、京平はそれを無視して歩みを進めた。

 京平は母から手の届かないぎりぎりの距離で立ち止まり、両手で拳銃を構える。

 

「夏海は必ず守り抜きます。…………今までありがとう、母さん」


 手を伸ばしてくる母の額に照門と照星を合わせ、京平は引鉄を引き絞った。

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