第5話 RUN! HIDE! FIGHT! (下)
何時間にも感じられる数分の後、三人は緩いカーブを抜け、診療所に到着した。
しかし、診療所もまた、他の家屋同様に破壊の痕が残されていた。平屋建ての診療所の玄関扉は内側に倒れ込んでおり、まるで外壁にぽっかりと四角く穴が開いているかのようだった。
「お母さん……!」
夏海が扉のなくなった玄関に向かって走り出そうとし、京平は慌てて夏海の腕を掴んだ。
夏海はさっきまでの元気のなさが嘘だったかのように、腕を掴まれてなお、振り解こうとして身体を捻る。
「早く行かないと! この中にお母さんが!」
「いるとは限らないだろ! 母さんは避難してるかもしれないし、代わりに白装束がいるかもしれない! それに、ライトもなしに中に入っても何も見えないぞ」
パニック状態の夏海を押さえながらも、京平はどうしようか悩んでいた。腕時計を見ると時刻は十八時半を回っており、そろそろ日没の時間だ。
晴れていれば夕日でまだまだ明るい時間だが、分厚い雨雲のせいで辺りはだいぶ暗くなってきており、屋外ならまだしも屋内に入ってしまえば明かりがなければ何も見えないだろう。道路沿いの街灯も消えている今、懐中電灯もなしに診療所に入り、視界ゼロの中で白装束と遭遇でもすれば一巻の終わりだ。
「ねえ、駐在所の棚の上にある灰色のあれ、懐中電灯じゃない?」
京平は未来が指さす先、診療所のすぐ隣の駐在所に目を向ける。駐在所のガラス戸の奥に見えるスチール棚の上に、確かに灰色の大きな懐中電灯が鎮座しているのが見えた。
「よし、あれを借りよう」
京平は診療所の前に、駐在所に行くことに決めた。診療所と駐在所は駐車場を隔てて隣り合っている。歩いて十秒の距離だ。
駐在所の入口のガラス戸は半開きになっていて、吹き込んできた雨水で床がびしょ濡れになっていたが、荒らされた様子などはなかった。
駐在がいつも座っているデスクの上には「ただいまパトロール中です。ご用の方は、この電話をご利用下さい」と書かれたプレートと、電話機が置かれている。一縷の希望をかけて受話器を持ち上げてみたが、やはり電話が繋がることはなかった。
受話器を元に戻し、デスクの横を通って、ファイルが並ぶスチール棚の上に置かれた懐中電灯を手に取る。
単一電池が六本か八本入っていそうな懐中電灯は、投光器のような大きさだった。くすんだ灰色のプラスチックボディが年季を感じさせる。点くか不安だったが、スイッチを押すと懐中電灯とは思えないほどの明るい光を放った。
「ねえ、これ使えそうじゃない?」
振り返ると、未来が全長二メートルはある刺又を手にしていた。二股に別れた先端が天井に擦れそうだ。
「室内だとあちこちにぶつけそうだな。こっちの棒のほうがまだ使いやすそうだ」
京平は、壁際にカラーコーンなどと一緒に置かれていた、警棒と思われる長さ六十センチほどの木の棒を手に取ると、デスクの上に置いた。
未来は刺又を天井の直管蛍光灯に引っ掛けそうにしながら元の場所に戻し、警棒を手に取る。ナイフや日本刀といった攻撃力の高い武器があれば良かったのだが、駐在所にそんなものは置いてないだろう。拳銃ならあるだろうが、それは今どこにいるか分からない駐在が持っているはずだ。
当初の目的であった懐中電灯が手に入り、未来の護身用の警棒も手に入ったので駐在所を出ようとしたその時、三人はガタンという音を聞いてその場で凍りついた。そして三人同時に、恐る恐るといった様子で後ろを振り返る。
「……なんだ?」
「誰かいるの?」
デスクの後ろの扉を凝視しながら、京平は鎌を、未来は警棒を握り締める。音は扉の向こうから聞こえてきた。扉は駐在所の家屋部分と繋がっており、扉の向こう側は駐在の自宅になっている。
「夏海、懐中電灯持ってて」
片手が埋まっていると何かあったときに困るので、京平は懐中電灯を手ぶらの夏海に渡し、再び駐在所内に戻る。未来と夏海も、それに続いた。
家屋部分に通じる扉の前に立ち、京平は右手の鎌をいつでも振り下ろせる体勢を取りながら、左手でドアノブを回した。
外開きの扉がゆっくり開いてゆく。
よくニスの塗られた板張りの廊下が懐中電灯の光に照らされ、ぬらりと反射光を放つ。廊下の先の水色の暖簾とその奥の畳敷きの和室が、懐中電灯の黄色味を帯びた光の中に浮かび上がる。座卓の上に置かれた湯呑みが、ついさっきまで人がいたことを伺わせる。
突然、和室で強い光が生じた。先頭の京平は何かと身構えたが、姿見に懐中電灯の光が反射しただけだった。姿見には反転した壁掛け時計と座卓、そして――
「駐在さん、いますか!」
隣に立つ未来が唐突に大きい声を発した。京平は驚きのあまり腰を抜かしかけ、ぎょっとした様子で未来を見る。
「おい何考えてんだよ……!」
「だって、ここ駐在さんの家なんだから、誰かいるとしたら駐在さんでしょ?」
「白装束のヤバい奴がいたらどうすんだよ」
「駐在所内は荒らされてなかったんだから、きっと大丈――」
――夫、と未来が言い終える寸前、バタバタという騒々しい足音が聞こえてきた。
誰かが、家の中を走ってこちらに向かって来る。
嫌な予感しかしないが、三人とも凍りついたかのように身じろぎ一つせず、廊下の先をじっと凝視して何者かが現れるのを待つことしかできない。
懐中電灯の照らす廊下の先、暖簾の奥から初老の女性が現れた。白髪の混じる長髪をボサボサに乱れさせ、あろうことか上半身裸で現れたその女性は、駐在の奥さんであった。
充血した眼を見開き、口から血の混じった涎を垂らして唸る彼女は、明らかに正気ではない。ここ一時間で何回も見た、気の触れた白装束たちと全く同じ様子だった。
睨み合いは一瞬で終了し、思わず耳を塞ぎそうになるほどの絶叫とともに奥さんは走り出した。口を大きく開き、真っ赤に染まった歯を剥き出しにした半裸の初老女が迫って来る。
後ろの未来と夏海がパニックを起こし、悲鳴を上げて逃げ出す。京平もそうしたかったが、もう距離を詰められており逃げる余裕はなかった。
覚悟も何もなく、京平は迫り来る奥さんに対して本能的に右手の鎌を振る。鎌の先端が吸い込まれるように奥さんの側頭部を直撃するのが、京平の目にスローモーションで映った。
グシャッという嫌な感触が右手に伝わってくると同時に、鎌が手を離れた。京平は鎌を振った勢いで身を捻る。奥さんは走る勢いのまま、回避した京平の目の前を吹っ飛んでいき、そして事務机の引き出しに頭から激突した。
凄まじい衝撃音が鳴り響き、薄いブリキ板の引き出し前面が大きく凹む。
顔を上げると、駐在所の出入口から少し出たところで、警棒を構えて夏海を守るように立っている未来と目が合った。未来の目には驚愕と恐怖の色が浮かんでいる。自分の乱れた息と、外から聞こえてくる雨音が、京平にはやけに大きく感じられた。
京平はゆっくりと数歩歩き、うつ伏せに倒れる駐在の奥さんを見下ろす位置に立った。鎌の鋭い先端は彼女の頭蓋骨を貫通したらしく、刃渡りの半分ほどがこめかみに埋まっている。流れ出る血の量は少ないが、鎌が脳まで到達して生きているとは思えない。
倒れ伏す彼女の背中が呼吸で上下することはなく、死んだように全く動かない。――否、正真正銘死んでいるのだろう。
京平は、自分の右手を見た。擁壁を登ったり雑木林を抜けたりしたときに汚れた手は、微かに震えていた。鎌が頭蓋骨を貫く感触が、まだ京平の手には鮮明に残っている。取り返しのつかないことをしてしまったのだという実感がようやく湧いてきて、京平の頭は真っ白になった。
突然、京平の手を青白くて小さな手が包んだ。
「……正当防衛だよ。お兄ちゃんがやってなければ、私たち死んでた」
いつの間にか目の前まで来ていた夏海が、真っ直ぐに京平の目を見上げていた。夏海が京平に向ける目に恐れや不信感はなく、以前と何ら変わらぬ家族に向けるそれのままであった。それだけで、気が狂いそうになっていた京平は少し落ち着きを取り戻すことができた。
「ありがとう」
京平は感謝とともに、そっと夏海の手を離した。人を殺したということを認識してフリーズしていた頭が、再起動する。まだ手の震えは続いていたが、ひとまず大丈夫だ。
「ごめん。わたしが大声出してなければこんなことには……」
夏海の後ろで、未来が申し訳なさそうに言う。京平は「ほんとだよ」と返しながらも、未来に怒りをぶつけようとは思わなかった。
突然のことで動揺してしまったが、思えば鎌を手にした時点で、二人と自分の命を守るために、誰かを殺すことになる可能性があることは分かっていたはずなのだ。その「誰か」が白装束を身に纏ったカナリア聖教信者ではなく、知り合いである駐在の奥さんだったのは予想外だったが。
今は殺人を犯したという衝撃に狼狽えている場合ではない。「あれは正当防衛だった」と京平は無理矢理に気持ちを切り替え、「そういえば何か忘れている気がする」と背後の扉を振り返った。
逃げるときに夏海がデスクの上に放り出した懐中電灯を手に取り、スイッチを入れる。ハロゲン球の放つ強力な光が廊下と奥の和室を照らし出した。
和室に置かれた姿見は光を反射し、反転した壁掛け時計と座卓、そして紺色のズボンの裾と黒い靴下に包まれた足を映し出す。
「あのズボン、駐在さんだよな」
戸口から廊下の奥を見ながら、京平は未来と夏海に聞いた。未来と夏海も姿見に映る足に気づいたらしい。未来が「あの色は駐在さんの制服だよね」と言い、夏海も頷いた。
鏡の中の足は全く動かない。まさかこの状況で寝ているとは考えられないので、恐らく死んでいる。奥さんに喰い殺されたのだろう。その奥さんも、今しがた京平が殺した。
しかし、また家の奥から誰かが飛び出てきて襲い掛かってくる可能性は捨てきれない。鎌を奥さんの頭から抜いて使う気にはなれなかったので、懐中電灯を再び夏海に渡した京平は先ほど未来が見つけた刺又を構えて、土足で駐在宅に上がり込んだ。
廊下を進み、和室に入ると、駐在が部屋の隅に倒れていた。
京平の後から和室に入って来た夏海が懐中電灯で駐在を照らす。駐在の紺色の制服は赤黒く湿り、周囲の畳は血の海と化していた。
駐在の首筋には噛み千切られたような深い傷がある。仰向きに倒れている駐在は瞬きもせずに天井を見つめていたが、その瞳には何も映っていなかった。
京平は駐在の腰ベルトに手を伸ばし、金具でベルトにぶら下がっていた特殊警棒を取る。長すぎて屋内で使うには向かない刺又をその場に捨て、伸ばした特殊警棒を右手に握った。
ふと、駐在の右腰の黒いホルスターが目に付いた。
京平はホルスターのスナップを外し、恐る恐る黒いリボルバー拳銃を取り出した。手の平から少しはみ出す程度の大きさしかないリボルバー拳銃はまるでオモチャのように見えるが、その重さと金属の冷たさが、無言で本物であることを主張していた。
銃が登場するような映画はよく見るが、実物を触るのは初めてだ。銃が素人に扱えるのかは分からないが、使えれば警棒や刃物などより遥かに強力な武器になる。置いて行く理由はない。
京平は、拳銃から紛失防止用と思われるコイル状のランヤードを外し、ポケットに捻じ込んだ。
「駐在さん、奥さんに殺されたのかな。あんなに仲良しだったのに、なんで……」
震える声で夏海が呟く。
まるで狂気が伝染しているかのように、カナリア聖教信者の白装束たちだけでなく、島民にまで気が触れた者が現れている。今のところは駐在の奥さんと、ドアをぶつけた近所のおじさんの二人だけしか見ていないが、他にもいるかもしれない。
白装束を着ていなかったとしても、人を見かけたら警戒する必要があるだろう。例えそれが、見知った島民であったとしても。