第2話 アウトブレイク(後)
白装束たちがゴルフクラブの男に向かって猛然と走り出した。
「助けてくれぇ!」
同時に、男は京平たちに向かって駆け出すが、両者の間には十人弱の白装束が存在していた。さらに、数人の白装束が後ろから男を猛追している。挟み撃ちに合う形になった男は十メートルと進めず、前後から襲い掛かってきた白装束たちに引き摺り倒された。
「クソッ、離せ! 頼む、助け――痛てええ! やめろぉ!」
男の絶叫が大通りに響き渡る。男はアスファルトに押さえつけられた状態で、手足をがむしゃらに振り回して抵抗するが、覆い被さってくる十人以上の白装束を振り解くことは叶わなかった。
助けを求める声は、すぐに断末魔の絶叫に変わった。その絶叫がさらに他の白装束の注意を惹き、男から十メートルと離れていないところに立ち竦む京平たちも、当然彼らの視界に収まっていた。
より新鮮な「生きた肉」を見つけた白装束たちは、さっきまで噛り付いていた死体を放して立ち上がった。奇妙な沈黙が京平たちと彼らとの間に流れる。
睨み合いの時間は長くは続かなかった。白装束たちは、本能的な恐怖を抱かせる形容し難い絶叫とともに、新たな獲物――京平たち目掛けて一斉に走り出した。直前にゴルフクラブの男を殺した連中まで、男の死体を放り出して向かって来る。住民たちは口々に悲鳴を上げ、回れ右して逃げ出した。
京平は周りの住民たちより一足早く動いていた。他の者たちが走り出すより若干早く、差していた傘を捨て、全速力で細い市道を引き返す。
つい先ほどまで真横で立ち尽くしていた三軒隣のおじさんの絶叫が背後から聞こえてきたが振り向きもせず、「待って京平くん!」と自分を呼ぶ星野さんの声も無視し、京平はかつてないほどの速さで自分の両足を動かした。
あの白装束の連中は何なのか。島民には見えなかったが、どこから来たのか。奴らはなぜ人を襲い、そして喰っていたのか。京平には何が起きているのか全く分からなかったが、とにかく奴らに捕まったらヤバいということだけは分かった。
京平は自宅までの道のりを数秒で駆け抜け、半開きになっていた自宅の門に身体を滑り込ませる。そして、今まさに玄関から出てこようとしていた夏海を走る勢いのまま玄関に押し戻し、即座に玄関の引き戸を閉めて鍵を掛けた。
「何すんのよ! 痛いじゃな――」
尻餅をついた夏海が抗議の声を上げるが、引き戸を激しく叩く音がそれを遮った。ただならぬ気配に、夏海が黙る。
京平は肩で息をしながらも、咄嗟に手に取った木製の靴ベラを武器代わりに夏海の前に立ち、曇りガラスの向こうで引き戸を叩く人影を睨みつけた。
叩かれるたび、年季の入った引き戸がガタガタと激しい音を立てる。
「助けて、入れて!」
引き戸の向こうから声が聞こえてきた。その声は、向かいの星野さんのものだった。
京平は星野さんを中に入れるべく、鍵に手を伸ばした。だが、その後ろに白い影が現れるのを見て思わず手を止める。白い影は急速に大きくなり、ぼやけていた姿はすぐに人の形になった。
白い人影は、引き戸を叩く星野さんを後ろから引き摺り倒した。星野さんの絶叫とともに曇りガラスに赤い液体が飛び散り、夏海が短く悲鳴を上げる。悲鳴は引き戸の向こうにも届いたらしく、人影がこちらに視線を向けるのが曇りガラス越しでも分かった。
人影が、ノックというにはあまりに激しく引き戸を殴りつけてきた。一撃で曇りガラスにひびが入り、さらに二人掛かりで引き戸が乱打される。アルミ製の細い格子が歪み、枠が軋む。
さらに人影がもう一体ガラスの向こうに現れ、そいつが一緒になって戸を叩きだすと、格子の一部がひしゃげて枠から外れ、曇りガラスの一部が脱落した。
ガラス片で手を切ったのか、赤い手形が曇りガラスの外側を汚すが、白装束二人はそれを全く気にすることなく引き戸を殴り続ける。
連中は正気ではない。とてもではないが頑丈そうには見えない引き戸が破壊されるのは、もはや時間の問題と思われた。
「二階に逃げるぞ」
京平は、靴を脱ごうとする夏海を急かして土足のまま家に上がった。そして音を立てないように家の中を小走りで移動し、階段を上って二階の京平の部屋に入る。部屋のドアの鍵を掛けると同時に、階下から破壊音が聞こえてきた。
玄関が破られたらしい。荒々しい足音が階下から聞こえてくる。家具が倒され、重量物――おそらく電子レンジか何か――が床に落下する振動が木造二階建ての古い家を揺らす。皿やコップなどが一気に割れる壮絶な音が家中に響き渡り、夏海が震える手で京平の右腕を掴んだ。
京平は夏海を落ち着かせるため、「大丈夫」と繰り返す。だが、それを自分でも信じていなかった。まるで映画に出てくるゾンビのような連中に家に侵入されて、大丈夫なはずがなかった。
奴らは京平たちを探しているのだろう。そして奴らに見つかれば、ゴルフクラブの男や星野さんのような末路を辿るだろうことは想像に難くない。奴らが一階だけ荒らし回って諦めてくれれば良いが、今すぐに二階に上がってきても何ら不思議はない。
そうなったとき、玄関の引き戸を素手でぶち破った連中を相手に、角材の枠に薄いベニヤ板の面材を張っただけの貧相な室内用ドアが、そう長く耐えられるとは思えなかった。
京平は、ドア横の自分の身長と同じくらいの高さの本棚を掴むと、思い切り引っ張った。漫画本や小説がぎっしり詰まった本棚は重かったが、さっきからずっと火事場の馬鹿力を発揮している京平は、固定されていなかった本棚を易々と五十センチほどスライドさせ、ドアの前に移動させることに成功した。
「いったい何が起きてるの!?」
泣きそうな顔の夏海が京平に詰め寄る。夏海は下の階まで届かないように声を抑えることは忘れていなかったが、その声は混乱と恐怖で震え、上ずっていた。
京平は「俺にも分かんねえよ」と返しながら、さらにベッドを動かすべく枠を掴んだ。京平がバリケードを作ろうとしていることに気づいた夏海もベッドを掴む。
夏海の手伝いもあり、五十キロはあるベッドは予想外の速さで動き出し、そして本棚に激突した。存外に大きな音がして、さらに本棚の上から古いラジカセが落下した。スローモーションのようにラジカセが落ちていく様子が京平の目に映った。
――ドン!
落下したラジカセが床を揺らした。振動は床と壁を伝わり、落下音を家中に響かせる。京平と夏海はベッドを掴んだままの姿勢で、まるで凍りついたかのように動きを止めた。二人とも「気づかないでくれ」と願ったが、その願いは叶わなかった。
階下から聞こえてきていた足音や破壊音がぴたりと止み、その直後、明らかに先ほどよりも増えた足音が迷いなく階段を上ってきた。
ドアに体当たりを食らわせる激しい音が、振動を伴って間近から聞こえてくる。奴らは二階のドアを片っ端からぶち破る気らしい。夏海の部屋と向かいの物置部屋のドアが体当たりを食らい、軋む気配が伝わってくる。
白装束の猛攻を受けたドアは、三十秒と耐えられなかったようだった。バリバリという木材の割れる音が聞こえた後、薄い石膏ボードの壁越しに、部屋に突入した連中の不気味な唸り声と荒い息遣いが聞こえてきた。奴らはしばらく夏海の部屋の中を荒らし回っていたようだったが、一分もせずに部屋を出て行くのが音と気配で分かった。
服の擦れる音すら出さないように、京平と夏海はベッドを掴んだ状態で動きを止めていた。流れてくる汗が目に入るが、京平はそれを拭おうともせず、瞬きすらも忘れてドアに押し付けた本棚を凝視する。
膝が震え、ぬめついた手汗が湧き水のように溢れてくる。この部屋にいることを奴らに気づかれれば、命はない。京平は、まだこの状況が夢なのではないかと半分疑っていたが、恐怖感は紛れもなく本物だった。息を殺し、どうか気づかれないようにと誰ともなしに祈りながら、奴らがどこかに行ってくれるのをじっと待つ。
ドン。
衝撃とともに本棚の漫画本が数冊、ベッドの上に落下した。ドアに押し付けた本棚が不気味に揺れる。ドアの向こうから複数の荒い息遣いが聞こえてくる。三、四人はいるだろうか。
「ベッドを押さえろ」
外に聞こえないように、京平は口の動きだけで夏海に伝えた。
「言われなくてもやってる」
夏海も、声は出さずに口だけ動かして言う。京平と夏海はベッドの枠に手を押し当て、渾身の力を込めた。
ドンドンと外からドアを叩く衝撃が連続し、本棚が揺れる。ドアを叩く数と力は段々と強くなり、すぐに京平と夏海の二人掛かりでも押し返されそうになるほどになった。
この部屋に京平たちがいることに気づいたのか、あるいは他のドアと違ってなかなか開かないドアに痺れを切らしているのか、奴らはドアを滅茶苦茶に叩き、体当たりを食らわせてくる。そのたびにドアに押し付けたベッドが後退し、二人が必死に押し戻す。
度重なる凄まじい撃力に耐え切れなかった蝶番が外れ、ミシッという不吉な音がドアから聞こえてくる。逃げ場はなく、京平たちはとにかく足を踏ん張り、ベッドを押す腕に力を込めるしかなかった。
本棚から、残っていた漫画本が一気に落下した。そして、ドアの面材を貫通した腕が、本棚の背板すら貫通して飛び出してきた。驚いた夏海が悲鳴を上げ、京平もこれには肝を潰し、思わず「うわっ」と叫んでいた。
引き裂かれたベニヤ板に引っ掛けて血塗れになった腕が、獲物を求めるかのように激しく振り回され、ドアに加えられる衝撃がさらに激しくなる。ドアは既に限界であり、本棚が無ければ室内に倒れてきそうな有様だ。少しでも力を緩めたらたちまちドアは本棚とベッドごと吹っ飛び、奴らがこの部屋に雪崩れ込んでくるだろう。
「お兄ちゃん、もうドアが持ちそうにないよ!」
「クソ! こうなったら窓から逃げるしか――」
ドアへの壮絶な体当たりの衝撃と、苛立ちを表すかのような激しい唸り声に掻き消されないよう、京平と夏海は必死にベッドを本棚に押し付けながら大声で会話を交わす。二人の存在は完全に気づかれており、もう小声で話す必要はなくなっていた。
ドアが破られるのは時間の問題であり、あの狂った連中が部屋に入って来る前に逃げなければならない。二階程度の高さなら飛び降りても大丈夫だろうが、問題は外にも奴らがいる可能性が高いことだ。もともと、京平は奴らに追いかけられて家に逃げ帰ってきたのだ。
だが、つべこべ言っていられる状況でもない。この部屋にいても、遅かれ早かれ突入してくるだろう奴らに喰い殺されることになる。だったら、一か八かで窓から脱出を試みたほうがマシだろう。だが、生きるか死ぬかをそんな一か八かに任せるなんて――。
京平の思考は間近に迫る白装束への恐怖とパニックで攪乱され、まともに考えることなど到底できなくなっていた。焼け付きを起こした頭に、焦燥だけが募ってゆく。
「ねえ、窓!」
激しさを増す衝撃と、死への本能的な恐怖に必死に耐えながら、回らない頭で脱出策を考えていた京平は、夏海の言葉で窓に目をやった。窓を見れば、隣家の二階の窓から高校生くらいの女の子が身を乗り出し、棒を伸ばしてこの部屋の窓を叩いていた。
「未来お姉ちゃん!」
夏海が叫ぶ。窓を叩いていたのは、隣の家に住む一条未来だった。未来は京平と夏海が自分に気づいたことを確認すると、身振り手振りで窓を開けるよう伝えてきた。
「夏海、窓を開けろ!」
「でも、今手を離したらドアがもたないよ!」
「ドアは俺が押さえるから早く行け!」
二人掛かりでどうにか耐えていた、鉄球でも食らっているかのような衝撃に京平一人で耐えるのは厳しいが、やるしかない。京平はドアに当てたベッドを背中全体で押さえた。
「行け!」
夏海がベッドから手を離して窓に駆け寄る。それと同時に、ベッドと本棚がズズッと後退し、僅かに開いたドアの間から手が挿し込まれた。京平は反対側の壁に着けた足を踏ん張って必死にベッドを押し返そうとするが、挟まれた指に邪魔されてドアが閉まり切らない。
ガラガラという音とともにアルミサッシの窓が開かれ、部屋に土砂降りの雨が吹き込んできた。
「未来お姉ちゃん、私たち変な奴らに襲われて――!」
「説明はいいから! 今そっちにテーブルを渡すから、受け取って!」
夏海と未来のやり取りに、京平は「テーブルって、バリケードの補強でもしろってのか?」と疑問に思ったが、直後に木製の長テーブルの短辺が部屋に飛び込んできて窓枠に引っ掛けられるのを見て、未来の意図を把握した。未来は長テーブルを二軒の間に架け、簡易的な橋を作り、脱出路を作ろうとしているのだ。
「夏海、行け!」
京平が叫んだ。夏海は京平を振り返って逡巡する素振りを見せたが、京平が「俺もすぐ行くからさっさと行け!」と怒鳴ると、夏海は腰ほどの高さの窓枠に架けられたテーブルに乗り移った。そして、夏海は這うようにして未来の家へと渡ってゆく。
フルパワーでの連続運転を強いられていた京平の筋肉が悲鳴を上げ始める。ドアに押し付けていたベッドと本棚がフローリングの上を滑り、ドアがゆっくりと、だが確実に開いてゆく。ドアと枠との間に生じた隙間が広がり、奴らの腕が何本も入って来てジタバタと振り回される。
もう少しドアが開けば、身体を捻じ込める程度の隙間が生じるだろう。そうなる前にこの部屋から逃げないと不味い。しかし脱出しようにも、京平がベッドを押さえるのを止めれば、たちまち連中が部屋に雪崩れ込んでくるだろう。そうなれば、脱出する前に捕まって、恐らく死ぬことになる。
「お兄ちゃん、早くこっちに来て!」
未来の家に辿り着いた夏海が、京平に叫ぶ。京平は踏ん張った自分の足が徐々に滑ってゆく感覚に恐怖しながら、「行けたらとっくに行ってるよ」と八つ当たりぎみに呟いた。
今すぐ立ち上がって窓に駆け寄りたい欲求をぐっと抑え、何か使えそうなものはないかと四畳半の自室を見回す。
学習机とその隣の中学の頃の教科書が詰まった本棚はいかにも重そうで、バリケードには最適だろう。だが、それらは京平の手の届かないところにあり、一人でドアを押さえながら引っ張って来るのは不可能だった。
埃を被った電気ストーブやプラスチック製の衣類ケースは手を伸ばせば取れる位置にあるが、それらでは重しにもならなそうだ。その隣の扇風機も同様である。
視線を彷徨わせる京平の目に、木目調のキャスタ付きキャビネットが映った。そのキャビネットは京平が小学校に入学した時に買って貰った学習机に付属してきたもので、天板の上には父親のお古である十四型ブラウン管テレビが鎮座している。
京平はベッドを押さえながらキャビネットに片手を伸ばし、天板を掴んで思い切り引っ張った。動かないようにロックされていたキャスタがフローリングの上を滑り、電源コードの伸び切ったブラウン管テレビが天板から転げ落ちる。重量感のある落下音とともに、テレビの筐体を構成していたプラスチックの破片が辺りに飛び散る。
キャビネットを自分の横まで引き寄せた京平は、勢いのままキャビネットを引き倒した。派手な音とともに倒れたキャビネットの引き出しが全て開き、京平が小中学生の頃に使用していた文房具やおもちゃが飛び出してフローリングの上に散乱する。
キャビネットはベッドと壁との間に挟まるような状態になり、京平は背中をベッドに押し当てる力を抜いた。
――ガタン!
ドアが勢いよく開こうとし、しかしすぐに派手な音を立てて止まった。キャビネットがつっかえ棒のような役割を果たしたことで、それ以上開くのを阻まれたのだ。思惑通りになったことに、京平はひとまず安堵した。
しかし、ドアは既にボロボロだった。ドアを直接支える本棚も、棚板がいくつか脱落している。いつドアが本棚ごと真っ二つにへし折られてもおかしくない状態だ。
ふと床に目をやると、キャビネットから飛び出したシャーペンや古い匂い付き消しゴムといったガラクタに混じって、肥後守とよばれる折り畳み式の小型ナイフが転がっているのが見えた。
数年前に紛失し、何回探しても見つからなかったのだが、まさかこんなときに見つかるとは。
京平は肥後守を素早く拾ってポケットに突っ込んだ。刃渡りは五センチ前後と短く、魚を捌くのにも苦労しそうな代物だが、一応は刃物だ。ないよりはマシだろう。
ドアの隙間やドアそのものに開いた穴から突っ込まれる腕が、京平が部屋から脱出しようとしていることに気づいているのか、どうにか京平を掴もうと激しく振り回される。
本棚とベッドの向こうの京平に手が届くはずはないが、それでも、何本もの血だらけの腕が、ボロボロになったドアから突き出される光景には肝が冷えた。
「じゃあな、化け物どもめ」
意識してのことではないが、軽口を叩いて恐怖を紛らす。京平はあと数十秒は耐えてくれそうなドアから目を離し、窓枠を掴んで身体を持ち上げ、長テーブルに体重を乗せた。テーブルが京平の重さを受けてたわみ、ミシミシと不吉な音を立てる。
今にも割れてしまいそうな、この頼りないテーブルに命を預けるのは不安でしかないが、四の五の言っていられる状況ではない。京平は四つん這いになり、テーブルの上を出来る限りの速さで這って移動した。
京平が未来の家に転がり込むのと同時に、木材のへし折れるバリバリという音が背後で鳴り響いた。振り返った京平が見たのは、ついに限界を迎えたドアが真っ二つに割れ、本棚が分解する瞬間だった。
バリケードをぶち破り、四、五人の白装束たちが数秒前まで京平がいた部屋へ突入してくる。白装束たちは獲物を探すように辺りを見回し、窓の向こうの隣家に京平たちの姿を見つけると、顎が外れるのではないかと心配になるほど大きく口を開き、辺り一帯に響く大音量で人間離れした絶叫を発した。そして、血の混じった涎を撒き散らしながら窓に殺到する。
腕を振り回し、周りの仲間を押し退けて我先に進もうとする彼らの動きから、人間の知性を感じることはできなかった。
少し離れたことで多少の余裕を取り戻した京平は、人間の形をしているのに人間ではない彼らのあまりの不気味さに、全身に鳥肌が立つのを感じた。もし逃げ遅れていたら、今頃あいつらに寄ってたかって襲われていたと考えると、恐怖で頭がおかしくなりそうになる。
助かった気でいた京平だったが、しかし、まだ白装束たちは諦めていなかった。
真っ先に窓に辿り着いた長髪の女が窓枠に手を掛ける。女は濡れた髪を振り乱し、窓枠を乗り越えると、先ほど京平と夏海がしたようにテーブルに飛び乗った。
「うわ、こっち来るよ!」
「これヤバいんじゃない!? どうすんの!」
「二人とも落ち着け!」
後ろで騒ぐ夏海と未来のおかげで、ほんの少しだけ冷静さを取り戻した京平が咄嗟にテーブルを掴み、勢いよく押し出す。天板の端の十数センチを引っ掛けていただけのテーブルは窓枠から脱落し、重力に従って上に乗せた女ごと落下した。
テーブルから投げ出された女は、ゴッという音とともに敷地を隔てるブロック塀に顔面から激突し、その衝撃で縦に一回転して地面に墜落し泥水を跳ね上げた。さらに、その上から追い打ちを掛けるようにテーブルが降ってきて、女は下敷きになって見えなくなった。
橋は無くなったが、残る白装束たちはそれでも諦めなかった。女が落下した次の瞬間には、白装束の一人が腰ほどの高さの窓枠を勢いよく乗り越え、両足で枠を蹴って跳躍していた。
白装束の男は二メートル以上の距離を易々と飛び越え、窓際に立つ京平目掛けて一直線に飛び掛かってきた。夏海と未来が「危ない!」と叫ぶ。
迫り来る白装束が、見開かれた京平の目にスローモーションのように映る。白装束は赤く染まった歯を凶暴なサルのように剥き出しにし、京平を掴もうと腕を伸ばしてくる。
白装束の手は京平の鼻先から数センチのところを掠め、しかし跳躍力が僅かに足りず、届かなかった。
そのまま落下するかに思われた白装束だったが、驚異的な握力で右手の指先を窓枠に引っ掛けることに成功し、辛うじて転落を免れた。白装束は唸り声を上げながら、這い上がって来ようと藻掻く。
「落ちろ!」
京平はサッシを掴み、思い切り窓を閉めた。年代物の鉄サッシがガラガラとやかましい音を立ててスライドし、レールの上にあった白装束の指を両断する。
白装束は断末魔の絶叫をあげながら視界から消え、小さい何かがぽとぽとと京平の足元の畳に落ちた。見れば、指の第二関節から先の部分が四本、畳の上に転がっていた。
「うわ、グロ……」
潰れた切断面から赤黒い血を溢れさせる指は、僅かに痙攣している。京平の脳裏に、小学生の頃のトカゲ捕りの記憶が浮かんだ。
尻尾を掴まれたトカゲは尻尾を切り捨てて逃げ去り、のた打ち回る尻尾だけが手の中に残されるのだ。あれは何回見ても薄気味悪く、真夏でも鳥肌が立った。未来なんかは面白がってのたうつ尻尾で遊んでいたが、京平はそれを「信じられない」という面持ちで遠巻きに見ていた。
「お兄ちゃん、前!」
思考停止状態に陥り呆然と立ち尽くしていた京平は、夏海の声によって現実に引き戻された。目を前に向ければ、三人目の白装束が京平の部屋の窓枠を蹴って跳躍するところだった。視界の中で、白装束の姿が急速に大きくなってゆく。
ガシャン! という窓ガラスが割れる音が鳴り響く。白装束は窓を頭で突き破って上半身だけ室内に捻じ込み、鋭く尖ったガラス片の残るサッシに腹を引っ掛けて止まった。
切り裂かれた白装束の腹から流れ出す血が、窓の下段の割れていないガラス表面を赤黒く染めてゆく。
だが、白装束は痛みを感じている様子をまるで見せずに、じたばたと暴れながら京平のほうへと腕を伸ばしてくる。
「逃げろ!」
三人は、白装束が窓枠に引っ掛かって藻掻いている間に、慌てて部屋から逃げ出した。