第26話 故郷
京平たち三人は、昭野島一周道路と北集落の大通りが交わる丁字路から北集落を見下ろしていた。
半日ぶりに戻ってきた北集落は、昨日や一昨日の朝から何も変わっていないように見えた。
薄明に浮かび上がる北集落の家々は静まり返り、銃声も感染者の咆哮も聞こえない。
目を覚ました鳥たちの平和そのものの囀りが、薄く霞みがかった北集落に朝の到来を告げている。
もしかしたら、今まで悪い夢でも見ていたのではないか。
家に帰れば両親が寝ていて、朝七時になれば目覚まし時計が鳴って、いつも通りの日常が始まるのではないか。
京平は、半ば本気でそう思った。
しかし、少し目を凝らせば見えてくる北集落の惨状が、京平の荒唐無稽な望みを即座に絶ち切った。
斜面に張り付くように点在する北集落の家々は、そのほとんどが窓や玄関ドアを破壊され、火災により焼け落ちている家屋すらある。
さらに四肢の一部、或いは全部が欠損した死体があちこちに転がっているさまを見て、京平は現実に引き戻された。
「……用意はいいか」
京平はAK―47自動小銃の槓桿を引いて初弾を装填し、未来と夏海に目をやった。
「もう覚悟はできてるわ」
未来がガチャリという音をさせて、全スチール製の武骨なUZI短機関銃の槓桿を引く。
夏海も、小柄な身体と小さい手には大きすぎる自動拳銃のスライドを引き、初弾を装填した。
「行くぞ」
京平を先頭に、三人は再び北集落に足を踏み入れる。
京平たち三人は、来るかどうかも分からない救助に期待はせず、自分たちの力だけで、地獄と化したこの島から脱出する決意を固めていた。
最後まで及び腰だった夏海も、京平と未来がやる気なのを見て覚悟を決めたようだった。
三人が目指すのは港だ。
さっきの戦闘員が言っていたことが事実なら、港には戦闘員らが脱出するための船があるはず。
京平たちはその船を勝手に拝借し、昭野島を脱出するつもりだった。
もちろん、カナリア聖教の連中が大事な船を放っておくとも思えないので、戦闘は避けられないだろう。
だが、百人以上の感染者がうろつくこの島に留まり、いつまで生き残れるかで賭けをするよりかは、港を襲撃して船を奪って脱出できるほうに賭けるほうがまだマシだと京平と未来は考えていた。
京平たち三人は油断なく銃を構えて、北集落のど真ん中を貫く大通りを港に向けて下って行く。
感染者たちは崖登集落に向かったのか、北集落内は数メートルおきに視界に入ってくる夥しい数の死体を残し、もぬけの殻と化していた。
「誰もいないみたい……」
「油断するな。敵は必ずいる」
だが、敵は感染者だけではない。
港のすぐ横にある漁協の建物の窓に一瞬だけ光が瞬いたのを、京平は見逃さなかった。
恐らく懐中電灯の光だろう。
これで、港に教団の戦闘員がいることがほぼ確定した。
もちろん、だからといって諦めるつもりはない。
港の敵に気づかれないよう、三人は慎重な足取りで、電柱や塀の影を縫うようにして大通りを進んで行く。
波の音が聞こえてきた。
すぐ先の緩いカーブを抜ければ、目の前は海のはずだ。
「止まれ」
カーブを抜ける寸前、京平が立ち止まった。
後ろの未来と夏海も足を止める。
京平たちは塀の影から頭だけ出し、五、六十メートル先の港の様子を窺う。
船着き場には二艘の小型船が見えた。
もっと多くの漁船が停泊していたはずだが、湾に浮かぶ無数の小さな破片や残骸を見るに、連中は自分たちが島から脱出するのに使用する船以外は全て沈めたようだった。
船着き場のすぐ横にある漁協の建物の前では、黒い戦闘服の男が二人、自動小銃を手にたむろしている。
一軒家に毛が生えた程度の漁協の建物に目を移せば、二階の窓が一ヶ所だけ開いており、同じく戦闘服を着た男が機関銃の二脚を窓枠に引っ掛け、銃口と視線を周囲に巡らせて警戒している様子が見える。
「突撃でもする?」
夏海が諦めの表情で、茶化すように言う。
夏海は冗談のつもりだったようだが、しかし、京平はそうは捉えなかった。
京平は、二階の機関銃さえ不意打ちで真っ先に潰してしまえば、あとは下の二人だけを相手にすれば良いのだから、勝ち目は十分にあると思った。
さらにいえば、機関銃手を狙撃するのと同時に、建物の前の戦闘員二人も始末できれば、一切撃ち返されることなく船を奪取できる。
だが、それは「敵が三人だけだった場合は」という仮定の上での話だ。
姿が見えないだけで、漁協の建物の中に他の戦闘員がいる可能性は否定できない。
テクニカルやバンが港に見当たらないので、恐らく教団の本隊はここにはいないだろうが、確認できた三人の他に戦闘員が潜んでいる可能性は十分に考えられる。
敵を全滅させたと思って意気揚々と港に向かったら、隠れていた戦闘員に撃ち殺されたのでは話にならない。
そもそも、昨日まで本物の銃を見たことすらなかった京平たちが、狙撃なんて芸当をこなせるとも思えない。
京平は再び塀の影から港とその周辺の様子を窺う。
ここから漁協までの五十メートル程度。途中まではブロック塀やガードレールに隠れて接近できそうだが、最後の二十メートルは遮蔽物がない。
さらに船着き場は漁協の目と鼻の先にあり、どう頑張っても、漁協にいる戦闘員らを始末することなく船を奪取することは無理だろう。
戦闘は不可避だ。
「無謀なことをする必要はないんだからね。無理そうだったら、どこかに隠れて救助を待つって選択肢だって……」
あまり乗り気でない夏海が、強行策に前のめりな京平と未来を窘めるように言う。
だが、未来に「この地獄で、来るかも怪しい救助を待ち続けるほうが無謀よ」と即座に反論され、口を閉じた。
今は崖登にいるであろう感染者の大群が何かのきっかけで北集落に戻って来るかもしれず、未来の言う通り、無理やりにでも島からの脱出を図らないほうが無謀な可能性は否定できない。
京平も未来も一か八かの無茶な突撃を敢行する気はなかったが、ある程度の無理は必要だと思った。
空は着実に明るさを増し、あと二十分もしないうちに朝日が水平線から顔を出すだろう。
京平たち三人には時間がない。港は東に面しているため、日が昇れば、こちらから港と漁協のほうを見ると逆光になってしまう。
つまり、日が昇る前に漁協の中の戦闘員らを排除しなければ、敵に明らかに有利な状況で戦うことを強いられることになるのだ。
さらに本隊がいつ戻って来るかも分からないので、船を奪取するにしろ諦めるにしろ、早く決めなければならない。
そして、京平に諦める気は一切なかった。
「クソ、どうにか敵の気を逸らさないと……」
京平は赤みがかった空を見上げた。
地上で京平たち三人が生死を賭けていることなどお構いなしに、早朝の澄んだ空はやたらと高く広く見えた。
弱気が頭をもたげ、襲撃を中止して隠れていたほうがいいのではという考えが浮かんでくるが、京平は頭を振ってそれを振り払う。
「まず気を惹くために、囮役が離れたところから漁協を銃撃して、注意がそっちに集中した隙に、誰かが漁協に忍び込むってのはどう?」
未来が言った。
「生木を燃やして煙幕にする」といった上手くいきそうもない下策しか思い浮かばなかった京平は、「それ、いけそうだな」と応じた。
「ただ、囮役は機関銃と自動小銃二丁の集中砲火を受けることになるぞ」
「ブロック塀とか民家じゃ防げないわね……」
京平と未来は「どうしたものか」と眉に皺を寄せる。
そのとき、黙っていた夏海が、「あれは?」と声を発した。
塀の向こうを見つめる夏海の視線の先。
湾を挟み、二百メートル以上離れた対岸。
そこには、コンクリート造のいかにも頑丈そうな四角い建物と、三つ並んだ重油タンク、そして高い煙突が聳え立っていた。
それらの施設を守る古びた防潮堤には、「昭野島内燃力発電所」の白い文字が、二百メートル以上離れたここからでもはっきりと読める大きさの丸ゴシック体で書かれている。
「発電所か。少し遠いけど、ありだな」
「うん」
「よし、未来と夏海は発電所から撃ちまくれ。その隙に俺が漁協に侵入する。終わったら手を振って合図する」
時間がないので、京平はすぐに襲撃の決断を下した。
未来は頷き、決まったことには従うタイプの夏海も、渋々ではあるが了承の意思を示した。