第11話 安全地帯(中)
「そういえば、サイドブレーキ? とかいうの解除した?」
「……なんの話?」
湯煎されたレトルトパックの端を摘まんで持ち上げ、指先の熱さに耐えながらどうにか開けようとしていた京平は、未来の意味不明な問いに困惑した様子で応じた。
「車を発進させる前に、ハンドブレーキのレバーを戻したか?」
未来に代わって、今度は小野田が聞いてきた。
京平は、診療所の駐車場で車を発進させたときのことを思い出そうとする。あのときはほとんどパニックだったので記憶が曖昧だが、エンジンを掛けた後はギヤを入れてアクセルを踏んだ記憶しかない。
「走行中、擦るような音や抵抗みたいなのを感じなかったか?」
「……言われてみれば、確かにキーキーという音はしてましたね」
「車が制御不能になった原因はそれだよ」
小野田はレトルトパックを折って中身を絞り出しながら話し始めた。
「サイドブレーキがかけっ放しになっていたことで、車のブレーキが過熱したんだろう。過熱するとブレーキオイルに気泡が混じって、ペダルを踏んでもブレーキが効かなくなる」
「……てことは、車は元々壊れてたんじゃなくて、俺の操作ミスが原因で暴走したってことですか?」
「まあ、そうなるが、みんな奇跡的に軽傷だったんだから気にしないことだ。次に無免許で車を走らせるときは、サイドブレーキの解除も忘れるな」
小野田は京平を励ますように言った。京平は「次は誰かに運転してもらいますよ」と応じ、レトルトカレーを白米にかけた。
誰かが「いただきます」と言い、それを合図にテーブルを囲む六人はスプーンを手に取ってカレーを食べ始める。
京平は瞬きの度に瞼の裏に浮かんでくる凄惨な光景や、鼻の奥に微かに残る生臭い血の臭いが食欲を掻き消してしまうかもしれないと思っていたが、それは杞憂に終わった。体力を消耗した身体が送ってくる強烈な空腹感が、そんなことお構いなしに京平の腕を動かし、カレーを口に運ばせ続ける。
「すごい食べっぷりだなあ」
未来のおじさんが京平を見て呆れたように言った。
「強い緊張感はかなり体力を消耗しますから。緊張が解けると、身体はエネルギー確保に躍起になるんです。私もレンジャー課程が終わった後、五人前は平らげました。……まあ、単純に何日もろくに食べてなかったのが大きいですが」
福神漬けを容器ごと取ってきた小野田は、そう言いながらトングで大量の福神漬けを紙皿に取っていく。
「レンジャーって、あんた自衛隊にいたのか?」
「ええ、警察官になる前は十年ほど自衛官をやっていました」
「へえ、そうなのか。引っ越しの挨拶のときから、ウェブデザイナーとか言うわりにやたらとガタイがいいと思っていたけど、自衛隊にいたのか。元自衛官の警察官なんて、こんな状況じゃ頼もしい限りだな」
未来のおじさんと小野田が話すのを聞きながら、京平はカレーを胃に流し込んでゆく。
話を聞くところ、小野田は数週間前に昭野島に引っ越してきたらしい。そして、小野田はついさっき住民たちに私服警官であることを明かすまでは、島の生活に憧れたフリーランスのウェブデザイナーと偽っていたようだ。
警察官の小野田が身分を偽って島に来た理由は分からないが、北集落の殺戮や白装束たちと無関係とは思えない。その辺について小野田に説明してほしいと思わなくはなかったが、それよりも京平は目の前のカレーに意識を集中させることを優先させることにした。
つい三十分前まで死ぬかもしれない状況に置かれていたからか、暖かい食事は生きている実感を抱かせてくれる気がした。同時に、母親が死に父親の生死も不明の状況で、平然と食事を口に出来る自分の神経に嫌悪感を抱く。未来に、「食べないといざというときに動けなくなる」と強い口調で言われ、渋々カレーを口に入れてゆく夏海のようになるのが普通なのではないか?
カレーを食べ終え、一息つきたいと思った京平だったが、そうは問屋が卸さなかった。停電により電話は繋がらず、様子を見に行くと言って車で山向こうの北集落に行った何人かは誰一人として帰って来ず、公民館に集まっている崖登の住民たちは山向こうの情報を何も得られていないのだ。
停電後に山向こうから来たのは京平たち三人だけであり、三人が唯一の情報源であった。「ご飯くらいゆっくり食わせてやってくれ」と未来のおじさんが予め言ってくれていなければ、シャワーから上がった途端に質問攻めに遭っていたことだろう。
「夏海ちゃんは二階に行ってなさい。梓ちゃんもいるから」
未来のおばさんがそう言って、大人たちからはまだ子供と認識されている夏海をホールから追い出す。夏海は親友の下山梓がいると聞いてか、少し元気を取り戻したようだった。
ホールに残っていた他の子供たちもいなくなると、崖登の住民たちに山向こうの状況を説明する流れになった。
三十人以上の崖登住民を前にして、京平は思い出したくもない記憶を思い出しながら山向こうで何があったのかを話し、未来が不足している部分を補足していく。母のことなどは話す必要もないし話したくもないので省き、山向こうの状況と診療所の先生が言っていたウイルスの話を説明するだけなので五分も掛からなかった。
話が終わると、京平たちを囲む崖登の住民たちは皆一様に困惑した表情を浮かべていた。誰も意見や質問などしようとせず、ひそひそと隣の者と話す声だけが聞こえてくる。
「カナリア聖教の奴らが狂って暴れ回ってたってのは、まあ信じるとしても、山向こうの住民まで襲いかかってきたってのはどうもなぁ……」
「噛まれてうつるウイルスで人が凶暴化するなんて、そんな伝奇小説みたいな話、いくらなんでも信じられん」
「いやでも、あり得ないとは言い切れんだろう。そもそも、あの子たちが嘘をつく必要がないんだから信じるしかないじゃないか」
「パニックになって見間違えたりしたのかもしれないだろ。信者どもは洗脳か薬物でもやってたんだろうが、住民まで襲いかかって来るなんてこと考えられない」
京平と未来に聞こえていないつもりで話しているのだろうが、年寄りたちの内緒話は声が大きく、筒抜けであった。「話してほしい」と言うから話した結果がこれかと怒りが湧いてきたが、自分が逆の立場だったらこんな話をされても信じないだろうと、理解もできた。
自分たちの話は話半分程度にしか受け取られなかったようだし、今後何が起こるか分からないので今のうちに休んでおこうとホールから退散しようとした京平たちだったが、人混みを掻き分けて目の前に出てきた老婆に行く手を塞がれた。昭野島で一番の変わり者として全島民に名前を知られており、身に纏う異様な雰囲気から子供たちに「妖怪ババア」という失礼極まりないあだ名で呼ばれている婆さんだ。
「坊や。噛まれた者は気が触れ、他の者を喰い殺そうと襲いかかるようになるという話は本当じゃな?」
老婆は睨みつけるような目つきで京平を見上げて言った。ホールは静まり返り、京平は「いや、坊やって……」と思いながら答える。
「ええ、この目で見ましたから、間違いありません」
老婆は未来にも視線を向けたが、未来が頷くのを見て目を見開いた。そして小刻みに震える唇を小さく動かし、呟いた。
「地獄が溢れたんじゃ」
老婆の声は小さかったが、その声は静まり返ったホールの中にいる四十人全員に聞こえた。
「地獄が溢れる」という言葉にただならぬものを感じた京平は、恐る恐る老婆に「どういう意味ですか……?」と尋ねる。
「いつもの与太話だよ、くだらねえ」
だが、老婆よりも早く、男の声が京平の問いに答えた。吐き捨てるような口調に、老婆は目をぎょろりと動かして声がしたほうを見ながら、「与太話ではない! 歴史じゃ!」と声を荒らげた。
さっきまでは顔面蒼白で震えていた老婆だが、今度は怒りで身を震わせ、顔は急速に色を取り戻していく。
「婆さん、今は適当なこと言って不安を煽るようなことしちゃいけないって分かんないかなあ」
住民の中から別の声が上がる。老婆の顔は白から赤へと移り変わり、「誰じゃ!」と怒鳴った。
「適当などではなく真実を言っているのじゃ! 蛇血島に伝わる歴史が――」
「あんた、台風だとか地震がくるたびに同じようなこと言ってるじゃねえか。今はオカルトの話なんかしてる場合じゃないだろ!」
「伝承をオカルト扱いするなど、恥を知れ!」
「いい加減にしろ! クソ胡散臭い昔話を本気にしてるのなんて、あんたしかいないんだよ!」
何人もの住民たちが老婆に野次を飛ばし、そのたびに老婆は怒鳴り返す。
突然始まった言い争いに困惑する京平と未来に、近くにいた未来のおばさんが「いつも集まるとこうなるのよ」と教えてくれた。
災害や行事で崖登の住民が集まると、必ず一回は老婆とそれ以外で口喧嘩が生じるそうだ。大抵、老婆が島の伝承とされる出典不明の昔話に絡めた話をし始め、他の住民がそれにケチをつけるところから始まり、長ければ数十分に渡って口論は続くそうだ。
野次を飛ばすメンバーもほぼ決まっていて、それ以外の住民は「また始まったよ」と呆れるか、うんざりしながら終わるのを待つらしい。
「婆さん、五人相手に一歩も引かないあたりまだまだ元気だな」
「今年で八十二歳とは思えないわよねえ。この調子なら百まで生きそう」
未来のおじさんとおばさんが、呆れと感心が半々ずつといった口調で言う。彼らのように見物をして楽しんでいる人もいるようだ。直線距離で三キロも離れていない島の反対側では何十人もの島民が死んでいるというのに、平和なものである。
島は狭く、山向こうの北集落だけで被害が収まるわけがない。感染者がいつ崖登に現れてもおかしくはないのだ。くだらない口喧嘩をしている場合ではないはずだが、ここでは外様の京平がそんなことを言ったところで反感を買うだけだろう。
京平と未来の話を信じて防備を固めるなり何らかの対策を講じようという意見はごく少数にとどまり、また、もしそのような流れになっていたとしても既に時間切れであった。