第9話 北集落脱出(後)
京平の運転する車は、白装束の死体がところどころに転がる大通りを進み、突き当りの丁字路を右折すると、島で唯一の県道である昭野島一周道路に出た。
実際に車を運転したことなど一度もない京平は、前のめりになって抱え込むようにハンドルを握り締め、くねくねと曲がりくねる細い山道を走らせる。
県道といっても、過疎の離島に豪勢な二車線道路を敷設する余裕も必要もなく、センターラインはないが普通自動車どうしならすれ違える程度の幅員の道路が続く。路面は補修痕だらけで、継ぎ接ぎされたアスファルトがパッチワークのようだ。
だが、京平の駆るクラウンは、荒れた路面を柔らかいサスペンションとダンパでいなしながら、ふわふわとした乗り心地で進んでゆく。
もっとも、車の乗り心地など気にしている心の余裕は、京平にはなかった。山向こうの集落までは上り坂が続くので、自転車と違いアクセルを踏むだけで進んでくれる車は体力面では楽といえるが、慣れない運転を強いられる京平は代わりに神経を擦り減らしていた。
瞬きすら忘れて車を走らせること数分。後ろから聞こえてくるキーキーという金属が擦れるような音と鳴りっぱなしの警告音に続いて、どこからか焦げるような臭いが漂ってきた。
「ねえ。この車、大丈夫なの?」
後部座席の未来が、不安そうに聞いてくる。ルームミラーをちらりと見れば、夏海も顔を青ざめさせて隣の未来の手を握っていた。
「さあ。スピードメータの横でずっと『!』が表示されてるから、大丈夫ではなさそうだな。山向こうまでもってくれるように祈るしかない」
京平が投げやりに言い、未来が何か言いかけた直後、正面に白い何かが浮かび上がった。
京平の胸が不整脈を打ち、後部座席から未来の「ヒッ」という引き攣るような声が聞こえてくる。三人とも白装束が現れたと思い、車内に緊張が走った。
「ああ、なんだ看板か」
だが、近づくにつれて、それは道路脇に立つ白い看板だと分かった。薄汚れた白地に丸ゴシックで書かれた「一〇〇メートル先右折 崖登地区(南集落)」の文字を確かめ、「もう着いたのか」と京平は少し驚いた。
山向こうまで徒歩だと一時間弱ほどかかるので、まだまだ先だと思っていたのだが、車だと二十分もかからないようだ。
左側の側溝に車輪を落としたり右側の崖から転落したりしないよう、運転だけに集中していた京平は、自分が今どこを走っているのかすら気にする余裕がなかった。
看板を通り過ぎてすぐ先の左カーブの手前に、昭野島一周道路から分岐する細い道が現れる。京平はアクセルを緩め、その交差点で車を止めた。フロントガラスの向こうに目を凝らすと、道路沿いに並ぶ数軒の人家が、雨のカーテンの向こうに薄らと影のように浮かび上がってくる。
「やっぱり、こっちも停電してるね」
「そうだな、暗すぎて様子がさっぱり分からん」
「どうする? 感染者がいるかも……」
「かもな。でも、そうは言っても他に行く当てもない。とりあえず入ってみよう」
短い会話の後、再びアクセルを踏むとエンジン音が少し大きくなり、また金属音と警告音を鳴らしながら車は動き出した。
本線の一周道路のほうが左にカーブしており、直進すると崖登集落へ続く細い村道に入る。
車幅感覚など皆無の京平は、崖登に進入して数秒で車体の左側面を擁壁に擦りつけることになった。二十分前までは古いが小綺麗だったクラウンは、今やスクラップ寸前のボロ車と化している。
ゆっくりと車を進め、辺りの様子を窺う。道路沿いの家々は静まり返り、どの窓も真っ暗だ。
感染者がいれば自殺行為になるが、クラクションを鳴らしてみる。しかし、窓ガラスに懐中電灯の光が瞬くことも、誰かが現れることもなかった。
クラクションの音に誘き寄せられて感染者が出て来ることもなく、窓が割れていたり死体が転がっていたりといった、感染者が暴れた形跡も見当たらない。空っぽの家を残して、住人だけが忽然と姿を消してしまったかのようだった。
「みんな、どこに行っちゃったんだろう」
未来が声音に不安を滲ませて言う。京平も「どうなってんだ?」と思いながら、分岐のない村道を、スピードメータの針が「一〇」の目盛にも届かない低速で走らせる。
緩やかなカーブの先で道が平坦路から急な下り坂に転じ、視界から道が消失した。浮遊感が京平の股間を撫で、フロントガラスに映る真っ暗な空が上に流れてゆく。実は道路が崖崩れか何かで無くなっているのではないかと想像して恐怖したのも束の間、ヘッドライトが円形の滑り止め加工が施されたコンクリート舗装を照らし出した。
「明かりだ!」
未来が大声で叫ぶように言った。
坂の下にある二階建ての公民館の窓に、明かりが灯っていた。公民館前のグラウンドには数台の車が停車しており、さらに何人かの人影があるのも見える。
「よかった、人がいるぞ」
「こっちは無事だったのね」
心底安堵した京平と未来の顔に、久しぶりの笑みが浮かぶ。ルームミラーに映る夏海は無表情だったが、少しは安心したようでほっと溜息を吐いていた。
重力に引かれ、車が勝手に加速しだす。道路脇に「急坂 スピード落せ」の看板が立っているが、看板に言われるまでもなく、京平はブレーキを踏んだ。不気味なほど踏み応えのないブレーキペダルが、踏んだぶんだけ前に逃げてゆく。
車は一向に減速することなく、それどころか加速を続ける。スピードメータの針は四〇キロを超え、さらに上がってゆく。ブレーキを力いっぱいに踏み込むが、ペダルが床に着くまで踏んでも、加速は止まらない。
メータの針は五〇キロの大台に乗り、下り坂の終わりが近づいて来る。坂の先は急カーブしており、このまま行けばフェンスに突っ込むことになるだろう。
「逸る気持ちは分かるけど、もう少しスピード落としてよ」
異常事態に気づいていない未来が、能天気に京平に言う。京平はひたすらブレーキを踏み続けながら、声を上ずらせる。
「ブレーキが効かない」
その一言で、車内の安堵の雰囲気が胡散霧消した。未来は先ほど浮かべた笑みを凍りつかせ、半開きのままの口から「……は?」という声を絞り出す。
「今、なんて……?」
「だからブレーキがいかれてる! 止まれない!」
「え、なんで!?」
「知るか! とにかく何かに掴まれ!」
怒鳴り合う京平と未来。
下り坂の終わりが迫って来る。スピードメータの針は六〇キロ前後を指しており、坂の終わりで待ち受ける急カーブは到底曲がり切れそうにない。ぎりぎりで避け損ねた電柱に左サイドミラーをもぎ取られ、数秒後の自分たちをそこに幻視する。
下り坂が終わり、カーブとフェンスが時速六十キロ以上で迫ってくる。京平は必死でタイミングを見計らい、カーブに突入する寸前でハンドルを一気に左へ回した。
フロントタイヤが路面を噛み、一・五トン近い車体を回頭させようとする力が働くのを感じたのも束の間、ハンドルが突如軽くなり、接地感が消失した。雨で路面が濡れていることも手伝い、タイヤと地面のグリップが限界を迎え、タイヤが生み出す摩擦力に直進しようとする慣性力が勝ったのだった。
フロントタイヤは限界まで左に切られているが、断末魔のようなスリップ音を響かせて車体は直進し、フェンスに突っ込んだ。
派手な破壊音を奏でて、細い支柱と金網でできたフェンスが薙ぎ倒される。
車は依然として勢いを保ったまま、フェンスの残骸を踏みつけてグラウンドに飛び込んだ。車が宙に浮き、重力が消失する。だが一瞬の無重力の後、車は強烈な衝撃とともに、路面と五十センチ程度の高低差があるグラウンドに叩きつけられた。車体のあちこちから、スポット溶接が剥がれ、フレームの歪む悲鳴が聞こえてくる。
ハンドルのエアバッグが爆発音を立てて展開し、視界が白いエアバッグで塞がれる。五感を揺さぶる衝撃と音に、京平も未来も夏海もただ翻弄されるしかなく、もはや上下左右すら分からなくなっていた。
車は泥水を跳ね上げながら、グラウンドの上を十数メートルに渡ってスピンしながら滑走し、公民館の玄関前に駐車していたミニバンに正面から激突した。
京平はまたエアバッグに顔面を打ち付けることになり、後部座席では未来と夏海が、身体が前に飛ばされそうになったところをシートベルトに押さえつけられ、二人揃って「ぐえっ」というカエルが潰されるような声を発する。
一瞬記憶が飛び、気づくと車はもう止まっていた。エンジン音も聞こえず、何かの警告音と雨の音だけが聞こえてくる。「死んだかも」と本気で思ったが、首を少し動かした途端に襲ってきた激痛に、そんな考えは吹き飛ばされた。
「痛ってぇ……」
固く閉じていた目を開けた京平は、痛む首を庇いながらエアバッグから顔を起こした。
車内には白い煙が漂い、何かの焦げるような臭いが鼻腔を刺激する。エアバッグをどけると、ひび割れて泥水を被ったフロントガラス越しに、エンジンルームが潰れ、ボンネットがアルミホイルのようにひしゃげているのが見えた。煙を上げるエンジンルームの向こうでは、ミニバンがこちらに底面を見せて横転している。
「痛たた……夏海ちゃん、大丈夫?」
「…………死んだかも」
「……生きてるね、よかった」
未来と夏海のやり取りが聞こえてきた。後ろを振り向くと、二人とも無事のようだった。京平は安堵の溜息を吐く。
公民館から駆け出してきた男たちがひしゃげたドアをこじ開け、口々に「大丈夫か!?」とか「すぐ出してやるからな!」とか呼びかけてくる。まず未来と夏海が救出され、続いて京平も伸びてきた腕にシートベルトを外され、数人がかりで車外に運び出された。
その直後、ボン! という地味な爆発音とともにエンジンルームから炎が上がり、京平たちが乗ってきた車は瞬く間に炎に包まれた。
本作の「感染者」は、「28日後…」のレイジウイルス感染者や「アイ・アム・レジェンド」のダークシーカーのようなイメージです。