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カルトアイランドZ  作者: 冷凍野菜
第1章
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プロローグ

 午後になってから降り出した雨は勢いを増し、今や滝のようであった。大粒の雨は、木々に土にアスファルトに打ち付け、激しい雨音が他のすべての音を掻き消している。まだ日没までは時間があるはずだが、空を覆う分厚い雨雲が傾きだした太陽を隠し、辺りはかなり薄暗くなってきていた。


「酷い雨だな、まったく」


 島の反対側の集落に向かうため軽自動車のハンドルを握る小太りの中年男性は、一人呟いた。朝のニュースで今日は曇り時々雨と予報士が言っていたが、実際には正午を回ってから雨は止むことなく降り続け、激しさを増してきている。夏特有の一過性の夕立かと思っていたが、降り始めて四時間以上経っても雨が止む気配はない。


 フロントガラスの外側を往復するワイパーの規則的な音と、車体に打ち付ける無数の雨粒が奏でるノイズのような音に掻き消されてしまいそうなカーステレオは、男のお気に入りの歌手のCDを延々と流している。

 曲順すら覚えてしまうほど聞いたCDだったが、この島で受信できるラジオ局は雑音混じりのNHKと北朝鮮の暗号放送くらいしかないので、それ以外に聞くものもなかった。

 

 カーブに差し掛かり、男は慣れた手つきでハンドルを切った。遠心力で車体が外側に傾き、散らかった後部座席で何かが転がる音が聞こえてくる。カーブに沿って並ぶ矢印の標識が、ヘッドライトの光を反射して黄色く光る。


 突如、カーステレオが爆音でザーというノイズを流し始めた。一瞬驚いた男だったが、舌打ちをしながらすぐに音量調節ダイヤルを回し、音を小さくした。最近カーステの調子が悪く、何かの拍子にCDを認識しなくなり、ラジオに切り替わる現象が頻発しているのだ。

 男はエアコン吹き出し口の下のカーステレオを何度か叩き、元に戻らないことを確認してから視線を前に戻し、思わず息を呑んだ。


 よそ見をしたのは長くてもせいぜい二、三秒だった。だが、車はその間に二十メートル以上の距離を進んでいた。

 車道のど真ん中で雨に打たれている真っ白な服を着た長髪の女の姿が、フロントガラスに切り取られた四角い視界の中に大写しになる。ヘッドライトの淡黄色の光の中に浮かび上がる女までの距離は、もう五メートルもない。


 ドン!


 ブレーキを踏む間もなく、鈍い音と衝撃が車を襲う。女は短いボンネットで跳ね上げられ、フロントガラスに激突して合わせガラスを真っ白にひび割れさせた。


 男は慌ててブレーキを踏み込んだ。ロックしたタイヤが甲高いスリップ音を立て、急減速によりフロントサスペンションが沈み込む。

 女は慣性と重力に従い、ボンネットの上を転がって地面に落下する。蜘蛛の巣状にひび割れ、ひしゃげて枠から外れかけているフロントガラスには赤黒い液体が付着し、ワイパーと雨がそれを塗り広げてゆく。

 車体を打つ雨の音と、割れたフロントガラスの上をぎこちなく動いて罅の間に丁寧に鮮血を塗り込んでゆくワイパーの作動音が、男にはやけに大きく感じられた。


「嘘だろ……」


 数秒の間茫然としていた男だったが、すぐに我を取り戻すと、傘も差さずに車を飛び出した。

 女は車のすぐ前に仰向けに倒れていた。左足の膝が反対側に折れ曲がり、身に纏っている奇妙な白い服は所々破け、流れ出した鮮血が生地を斑に赤く染めている。ぐしゃりと変形したボンネットが衝撃の強さを物語っており、女は倒れたままピクリともしなかった。


 男は震える手で携帯電話をポケットから取り出し、警察と消防のどちらに電話しようか一瞬迷ってから「一一〇」と入力し、呼び出しボタンを押した。男は携帯を耳に当て、落ち着きなく空を見上げたりその場をうろうろしたりして、崩れ落ちそうになるのをどうにか堪える。

 過失とはいえ、人を殺してしまえば刑務所行きは免れないだろう。自分が刑務所に入った後、妻と高校生の娘はどうなるのか。娘は大学まで行かせてやりたかったが、それは無理かもしれない。混乱している男は、自分が轢いてしまった女を差し置いて、家族の今後の心配をしていた。


 止めどなく湧いてくる不安と格闘すること数十秒。いつまで経っても警察に繋がらない。携帯を見ると、液晶には「圏外」のダイアログが表示されていた。一応もう一回呼び出しボタンを押してみるも、やはり繋がらない。


「今日に限って何なんだよ。……うおっ!?」


 人生初の人身事故と携帯電話の不調が重なってパニック寸前の男だったが、足首に冷たい何かが触れるのを感じ、咄嗟に驚きの声を出し、後退ってしまった。

 即座に足元に目を向ければ、血塗れの女が自分に手を伸ばしていた。殺してしまったと思っていたが、驚くべきことに女は生きていたようだ。女が充血した右目で男を見上げる。左目はガラスの破片が突き刺さり、だくだくと血を流し続けていた。

 普段の男なら腰を抜かしかねない光景だったが、彼は轢き殺してしまったと思っていた女が生きていたことに、何より安堵していた。過失運転致死と致傷とでは、天と地ほどの差があるのだ。


「今、救急車を呼ぶので、動かないで待っていてください……ちょっと、動いちゃダメですよ――」


 女はさらに男に手を伸ばす。男が気遣うように声をかけてくるが、女は話し終わるのを待たず、酷い怪我を負っていることからは想像もつかないような凄まじい力で男の足首を掴み、引き倒した。そして、悲鳴を上げる間も与えずに男の首筋に喰らいつき、気管を噛み千切った。


 男の喉元から真っ赤な血が溢れ、切断された気管から漏れる空気がヒューヒューと音を立てる。男は反射的に喉を押さえようとするが、女はその手を払い除け、再度首に喰らいつく。今度は頸動脈を噛み千切られたのか、先程とは比べものにならないほどの勢いで鮮血が噴き出す。

 男の意識は急速に遠のき、数秒で闇の底へと沈んだ。死の間際、狭まってゆく視界の中で彼が最後に見た光景は、自分の上に馬乗りになり、真っ赤に染まった歯を剥き出しにする女の姿だった。


 女はしばらくの間、男の身体の分解に夢中になっていたが、彼が死んでしばらくすると興味を失ったのか、咥えていた男の腕を放した。すっかり血が抜けて真っ白になった腕が、濡れた路面に落下して湿った音を立てる。

 女は立ち上がろうとした。だが上手くいかずに倒れた。また立ち上がろうとするも、また倒れる。それを数回繰り返した後、女はようやく自分の足が折れていることに気づき、立ち上がることを諦めた。四つん這いになり、蜘蛛を彷彿とさせる奇妙な体勢で動き出す。

 白かった女の服は自身の血と喰い殺した男の血で真っ赤に染まり、さらに路面の埃に塗れて、形容し難い濁った色に変色していた。


 土砂降りの雨が、血濡れの男の死体を洗い、赤く染まった雨水が黒いアスファルトの上を流れてゆく。そのアスファルトの続く先、女が這って向かった先には、昭野島あきのしまの人口の大半が住む北集落が存在している。

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