契約
一話
ひんやりとした感触が肌を伝っていく。ほこりと暗闇しかないこの部屋は儀式をするのにぴったりで。指を進めていき魔法陣を描いた。呪文を唱えて魔力を入れる。
遂に行けるんだ。魔法陣が光りだし、辺りに血の匂いが充満した。強い風が古くなった本棚を倒し、ほこりが飛び散った。地面が揺れローブがなびく。魔法陣が強い光を放ち視界が真っ白に染まる。
目の前には人とは思えない巨体、人を殺すほどの鋭さを持つ赤い眼光に下半身は毛深い獣毛。僕の首を貫くほど鋭いかぎ爪、頭は僕の手より大きい漆黒の角があった。
人間界には存在しない異形が僕の目の前に居る。
しかし恐ろしいと思える風貌だからこそ一際目立つ銀一色に染まった髪。彼が悪魔だからだろうか、それはそれは美しく僕の心を魅了した。
「おい。」
声を掛けられた。少し夢見心地な僕を戻すには充分だった。あぁ、彼に魅入られてしまっていた。危なかった、彼は悪魔だから人を魅了する何かがあるんだろう。それは全身から溢れ出す夢魔のフェロモンの様なものだろうか。
「願いはなんだ、とっとと言え。」
彼の言葉を聞いて思わず体が反応する、きっと今から言うことは素直に信じて貰えないだろう。四十六億年前から今の今まで誰も成し遂げず、挫け諦めた摩訶不思議な事を言うのでだから。
魔力に溢れた未開の地、その恐ろしさに誰も近寄る事はなくなった場所。こんなことをいってしまったらもう二度と平和も平穏も手に入らなくなるだろう。
しかしながら僕は僕自身の好奇心をよく知っている。誰もがあり得ないと考えたことほど機敏に反応して抑えられなくなってしまう、自分でもほとほと呆れ返る。正気を疑われるだろう。
「僕の願いは魔界に行くことだよ、魔力の狭間を通ってね。」
空気が凍った。
「…ハァ。」
彼は少し呆然としたかと思うと大きく溜息を吐いた。
「テメェ正気かよ。」
まぁ、そう思うのも無理はない。魔力の狭間は高密度の魔力で創られているから、魔力の渦に耐えられる体を持つ悪魔や天使しか通れないものだ。しかし天使は基本魔界に用はないから、理論上可能と思われているだけなのだけれど。
「だから、契約しよう。僕を魔界に連れて行ってくれ。」
「無理だろ。人間ごときがあそこを通れるわけがねぇ。」
間髪入れずに彼が否定した。
確かに人間ごときじゃあ、あそこを通るのは事は不可能だ。でも、僕としては人間のまま通りたい。
「だからだよ。」
「は?」
「だから契約するんだ(悪魔と契約する時、その願いは絶対である。)研究者ジョン・ワトソン氏もそう仰っていただろう?」
たとえ悪魔と契約の暁が契約者を破滅に導くものだとしても、僕はそれを越えなければならない。死ぬつもりはさらさらないからね。
「?」
彼は意味が分からないと首を傾げた。ここまで言って伝わらないなんて、悪魔は皆馬鹿なのか?いや、悪魔は狡猾で悪虐非道な存在だ。それなりの知識がなくてはならない。だとすると彼だけが馬鹿なのだろう。
「…おいテメェ、何をごちゃごちゃ考えてやがる。」
おっと、そろそろ彼にも分かるように小学校低学年レベルまで落としてから話そうか。
「この世界には絶対のものがある。それは何?」
「神が決めた事だろ、馬鹿にしてんのか?」
馬鹿にしてるけど。
「それは、悪魔とした契約での願いもだ。それは神が定めた絶対のもの。実現しなくてはならないもの。だから僕はそれを利用する。僕を魔界に連れて行ってほしい。勿論生きた状態でね。」
彼は僕の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をしてぐうぅと唸った後、僕の顔をじろじろ見てこう言った。
「テメェ、やっぱイカれてんだろ」
むっとした。僕がイカれてるのは知っているけど初対面でその言い草はあんまりじゃなかろうか。
「君は随分と失礼だな。」
すると今度は下を向きお腹を抱えクククと小さく笑うと、顔を上げ狂った様に笑い出した。
「ヒャアーハッハッハッハァ!!!さいっこうだぁ!こんなにイカれてる人間は初めて見たぜ。」
思った以上の好印象でなによりだ。今までの彼の態度を見る限り、契約してくれるかは定かではなかったから。彼は自分の体より大きな蝙蝠のような羽を広げてこう言った。
「良いだろう、テメェと契約してやるぜ。…だが、代償はちゃんと分かってるんだろうなぁ?」
空気がドッと重くなる。額から汗が滲み出て頬を伝って、彼は僕の心臓部分を鋭い爪で押した。チクリとした痛みが走る、白いシャツには赤い血が滲んでいた。