台所でオムレツと
明日から出勤なの、と云って友人は白い息の跡を残しながら、乾いた夜の冷たい空気の中に去っていった。
私はコンピューター制御の無人タクシーが行き交う路上まで友人を見送って、自分の部屋に戻った。
つぶれたオムレツがのる皿をキッチンに運び、中身ごと自動食器洗い機の四角い投入口に放る。数秒して、選別した生ゴミを短時間で灰に変える炎の低い音と、食器を洗浄する水の音が小さく聞こえてきた。
亡霊は、いる。
友人の元に届けられた差出人を失った年賀状のように、アパートのこの小さな一室にも。
壁に手を伸ばして操作パネルをいくつか指先で叩いた。食器洗い機と似た音が頭の上からも響く。一分と待たずに、天井に張りついた自動調理機がパクンと大きな口を開け、内部からL字型の配膳台がするすると降りくる。配膳台の中央に青い皿にのって現れたそれは、黄色くつやつやと照り湯気を立てていた。
出来たての、プレーンオムレツ。
先ほど友人に出したものとまったく同じ料理である。操作パネルの横からフォークを取り出す。食器棚ははめ込まれて壁の一部となっている。
キッチンに立ったままそれを口に運んでいく。砂糖の甘みはどこにも潜んでいない。友人がしょっぱいと食べ残したその味が、自分にとってはとてつもなく美味であった。友人がこの場にいたら目をみはったであろうスピードで、青い皿から黄色い食品は消えていった。
亡霊は、いた。この皿の上に、またこの部屋の自動調理機の内部に。
料理が得意だったのは私ではなく半年前に亡くなった恋人のほうだ。
友人はいつだったかこの部屋で私と恋人の三人で楽しく食べた夕食を、ずっと私が作ったものだと勘違いしている。私は料理など作れない。自動調理機の内部をいじって、あらかじめ設定されたレシピを書き換えるほどの知識もない。
卵焼きが大好きなくせに、自動調理機の生み出す甘い味の卵焼きを嫌っていた私。
せっかくの設備を使えないでいた私のために、喜んで何度も砂糖抜きのオムレツを作ってくれたのが恋人だったのだ。
気がついたのは、恋人が亡くなって何日も経ってからだった。アパートを引っ越すつもりで一人荷物をまとめていたときだった。ショックから立ち直れず仕事を辞めたこともあって、実家より職場の近くにあったこのアパートに住む必然性がなくなった私は、とりあえず実家に戻るつもりであった。荷物はそれほどあるように思えなかったのに、作業は朝から始めて晩までかかり、お腹が空いて手がとまった。夜中であったし、出かけるのも億劫で普段なら使わない自動調理機を使った。恋人が亡くなってから初めてのことだった。
無造作に口に放り込んで、咀嚼して、そして、自分の頭がおかしくなったのではないかと本気で疑った。
それは恋人の作ってくれたプレーンオムレツと同じ味がした。
レシピが私の知らない間に書き換えられていた。プレーンオムレツが恋人の作ってくれたものと同じ味がするのならば、それを行ったのは恋人以外にありえない。
恋人が、まだここにいた。このアパートに。この部屋のこの自動調理機の中に。書き換えられたデータとなって、失われた人が存在する。
私がここを離れたら、新しい人がこの部屋に入ったら、この自動調理機は故障として修理され、元通りの『一流料亭と同じ』味を作り出す――?
それは亡霊が永遠に失われることを意味する。
私は荷造りされた部屋を見回し、立ちつくし、茫然とした。
そうして私は、いまもオムレツの亡霊と共にここにいる。
《終わり》