通夜帰りの友人と
完成目前で長年放置していた短い小説です。
手直しして投稿します。
亡霊は、いた。確かなカタチを持ちながら、台所に。私は、見つけた。
真っ黒な皿の中で輝くように黄色いプレーンオムレツを端からフォークで潰しながら、一ヵ月ぶりに会う元同僚の友人はその味に不満をもらした。
「あー、違う違う。あたしがいま食べたいのはこういうしょっぱいのじゃなくて、おせち料理の伊達巻みたいなふわっとしてさ、ケーキのスポンジみたいにあまーいやつなわけ。いや、麻里の手作りのこれがまずいって云ってるわけじゃないのよ、むしろね、貴重だとは思うのよ。ちまたにね、いまや大手家電メーカーのA社製だのB社製だの、あるいはC社製だのの自動調理機が使用者の指一本の作業で魔法のように作りあげちゃう一流料亭と同じ味が――まあ美味しいんだけど、自動調理機が掃除機や冷蔵庫並に一般のご家庭に普及済みの現代ではさ、どこの家で何を食べてもみんな同じ味になっちゃったって云う――のが氾濫している中でさ、素朴にも砂糖を入れない卵焼きって。ただねぇ、あたし今年のおせち料理で伊達巻だけ食べ損ねちゃったのよ、伊達巻だけ。弟に先に食い尽くされちゃって」
食卓の小さなテーブルをはさんで向き合った私は、密かに笑いをこらえていた。脚にはいたタイツからワンピースと上着にコートまで、黒一色で身をかためた通夜帰りの友人は、今日が他のありふれた日となんら違いがないとでもいうように椅子の上でふんぞり返って、いつもと変わらぬテンションであった。
黒い皿を出したのは服装に合わせてのことではなかったが、とんでもなくよく似合う。友人の真っ黒な脚がテーブルの横に投げ出されて組み替わるとき、ついふきだしてしまった。
なに笑ってるのよ、麻里。オムレツで口紅の落ちた唇をとがらせ、友人は身をのりだして上目づかいにこちらを見る。
顔が近づいたので私はついでに友人の肌色を確認しておく。おお、赤い。赤い。二十分ほど前には青白くくすんでいた頬に血の色が戻ってきていた。設定室温を五度上げたエアコンと、先に飲ませたホットミルクのお陰だろう。オムレツの皿の横で空になったマグカップを見て、自分の処置に満足する。
「救助完了……どうでもいいけど、似合いスギ……」
「はあ? なにが」
隠しきれなかった笑いをこぼしながら私は、頭の隅っこで、余計なことを告げないでいよう、と決めている。傍若無人にふるまっているようで、友人が私を気づかっているのがわかった。わかってしまうからには、知らんぷりをするのが礼儀だという気がするのだ。
唐突な訃報に多くの人間が慌てふためいていただろう通夜の場で、おそらく友人は、悲しみに沈んだ人々の間に私の幻影を見た。以前、私がそれに捕まったときには友人はこう云った。内側からドバドバ溢れてくるめでたくない感情に思い出とか他の感情とかもっと重要なものとか流し出されちゃって、純度は高まっても、もろくなってやばくなってこっちがすごく気をつかわなきゃならない厄介なモノなんだ、いまのアンタは。
そんな友人は、夜更けの唐突なチャイムの音を不審に思いつつ私がそろそろと玄関の扉を開けるまで、奥歯を鳴らしながら肩を抱いて私の部屋の前に立っていた。
「死ぬ。あんたがあたしを追い返したりしたら、ぜったい凍え死ぬ。だからステキに温かいもてなしをプリーズっ。いまのあたしには生きて家まで帰りつく体力なんかない」
正直、扉を開けた瞬間、このまま閉じて友人が死亡したとしても自分は悪くないのではないかと思った。
「喪服ってきっとどれもオールシーズン使えるように作ってあるのよね。なにしろ高いものだから、簡単に二つは買えないし。あたしの着てるこのワンピース、長袖の上着に隠れてるけど半袖なのよね。夏は上着を脱いで使えるように、ってことなんだと思うのね。でもさ、それって風通しの良い夏服を二枚着てることと同じだと思わない? 冬場にそれってどうよ?」
一昨日に積もった雪のまだ白く残る故人の家の外で、故人との対面と親族への挨拶の順番を待たされていた長い時間、なぜこんな凍え死にしそうな目に自分が遭っているのか考え続けていたという友人は、たどりついた結論を、もてなしのオムレツを運んできた私の前に広げる。
友人はいつも以上にマイペースで饒舌で、そんな風に理由をごまかして私のいるこのアパートの一室へ立ちよったのは、やはり半年前に恋人を亡くした私のことが、今日という日はどうしても頭から離れなかったに違いないのだった。
ところでさ、と友人は頬杖をついて宙の一点を見つめる。
「麻里、あんたさ、タカハシ君から年賀状はもらった?」
空気がほんの少しだけ変化した。
私は口もとで微笑んで、もらわないよ、と答えた。だって私は、タカハシさんを知らないよ。勘違いしてるよ。私はアナタがしてくれる話でタカハシさんを知ってるだけ。私がお店を辞めたときには、タカハシさんはまだいなかったよ。
友人はしばらく指の腹で下唇をいじって、なにごとか考えている様子だった。
「そっか……ああ、うん……そうだよね、麻里が辞めてからもう半年くらい経つもんね、そうだよ、全然時期が合わない」
口紅のうつった指先を気にしてこすりながら、友人は一人頭の中を整理していた。
「もらったの、年賀状?」
私は先を促した。
友人はやや遅れてコクンとうなずいた。うん、もらった。これが話に聞いてた奥さんなんだろうな、と思う女の人と二人で大きく顔が写ってるやつ。印刷が粗かったけど、結婚式の写真じゃないかな。きれいに並んだ歯を見せて笑うタカハシ君が白いネクタイしてた。二人ともこれ以上ないくらい明るく笑ってて――奥さんも頬をつやつや光らせてピースしてた。今日初めてタカハシ君の家の廊下で会ったときには、疲れた顔してたけど。
「変な感じなの」
どこからか切り離してきて投げるように、友人は云った。
私はなぜだか気持ちが静まり返っていて、その気持ちのまま、どこが、と尋ねた。
「電話があったのは昨日で、正月の一日から一週間の連休をとってた私は年が明けてから今日まで、職場の人間とは誰とも顔を合わせてなかったわけ。弟に渡された家の電話の受話器から主任の言葉が聞こえてくるんだけど、意味がわからなくて。え、だって私、年賀状もらったよ? って、思ってるの」
変よね、私。友人は考え込んで次第に無表情になってゆく。辻褄の合わないことじゃないのに。年賀状が届くのは年が明けてからだけど、年賀状なんてずいぶん前からでも郵便ポストに入れられるのに。他の職場の人のほうこそ、そう思ったはずなのに。前の日に新年会をしてたらしいの。店を閉めてから近くの食べ物屋へ集まって、お酒飲んだり食べたりみんなと騒いだり、普通だったって。だってまだ三十歳にもなっていなかったし、まさか次の日の朝に布団の中で冷たくなってるなんて誰も思わなかったって。
ああ、それからね、と友人は一呼吸置く。年賀状に、早く仕事を覚えるようにしますので、今年もよろしくお願いします、って手書きで添えられてたの。主任と廊下で挨拶してた奥さんも云ってたなあ……タカハシ君、毎日楽しそうに帰って来てたって。今日はこんな仕事を覚えた、明日からは切り花のアレンジを教えてもらうんだ、切り花のほうの仕事を仕切ってるのはこういう女の人で、他のみんなもやさしくて親切だって。――私たちの『お花屋さん』って仕事、そんなに楽しいものだったかなあ?
放心したような顔の友人が返事を求めて私を横目で見るので、私はおどけて肩をすくめてみせると同時に皮肉げに口の端もあげる。
「男の子が相手だとオバサマ方の態度も甘くなるし? 花束作るのも切り花を籠にアレンジするのも、最初の内だけなら物珍しいかもね」
「そういや、納得いかないけど、同じ年数働いても女の子より男の子のほうが給料いいもんね、うちの店って。……女の子は結婚して数年で辞めていくから、が理由だって誰かが云ってたけど、結婚するより前に辞めていってない? 男女の別なく、みんな」
社会人に対して「女の子」や「男の子」という呼び方も変なのだが、友人の職場であり半年前まで自分の職場でもあったそこではそれが習慣となっていて、いまだその癖が自分にも残っている。「男の子」とは「従業員の男性すべて」を指し、「女の子」とは「従業員の女性すべて」を指す。考えてみれば、習慣がいつまでも直されなかったのは、常にその職場の人間たちが「若くして入り、若くして出ていく」からなのだろう。自分と同じくらいの年齢に見えても、それが客ならば「花束を頼まれたのはどのお客さん?」「入口の所にいる女の人」という具合に「女の人」と使い分けていた不自然さに、今になって気づく。
ちなみに「オバサマ方」と「オバサンたち」はこの花屋にとって「客」を指す。比喩でもなんでもなく、田舎の花屋にはおばさんしか店に来ないからだ、クリスマスと卒業シーズンを除いて。
「楽しくなんかなかったよね? 花の詰まった棺桶みたいなサイズの箱や、水たっぷりのバケツ両手に何度も店の中を往復して、土の袋重ねて抱えて運んで。重いもの運ぶからみんな腰を痛めるし、土に指突っ込んだりコンクリートの床に膝をついたり、腐った水に手を入れたりしなきゃならないからきれいな格好なんて出来なくて。水仕事だから冬場は手にあかぎれができて痛くてしょうがないじゃない。皮の分厚くなった黒ずんだ手で他人のためにばかり花束を作り続けて、客の身勝手な要求にふり回されて、ひたすら頭下げ続けて、時々ひどく惨めで、それで『きれいなお花に囲まれてすてきな仕事ね』って本気で云われるのよ。三年も経ったら店の従業員の半分が入れ代わってる。一日で辞めていったアルバイトだっていたよね。苗や鉢花にわいたナメクジも油虫もヤスデも芋虫も、気持ち悪い、なんて逃げていられないで自分で退治しなきゃいけない。店の裏の作業場で流れ作業で単純な機械の部品でも組み立てるように、安価な花束とも云えないような花束をひたすら作り続けなきゃいけない。従業員たちがあたり障りなく働いているのは、いがみ合ってる余裕なんかないからだと私は思ってるけど、ねえ、麻里。私たちの仕事、毎日喜んで誰かに話せるほど楽しいものだった?」
「すごいね」
私は簡単にまずそれだけ云って、テーブルの上で組み合わせた両手に顎をのせた。友人はいぶかしげに私を見てから少し考えるように眉をしかめて、タカハシ君のこと? ときいた。
「タカハシさんがそういう人なら、三年働き続けてもやっぱり楽しいままだったかもしれないね。すごいよ」
友人は固まったように動きを止めて、やがてゆっくりと、タカハシ君の奥さんもすごかった、と吐き出した。
「タカハシ君の眠ってる部屋は人がいっぱいで、玄関は靴だらけで、小さな庭も人がいっぱいで、二人すれ違うのにもお互い身をかわさなきゃいけないような狭い廊下で、タカハシ君の奥さんは弔問客と挨拶してた。主任に続いて奥さんの横を通るとき、怖くてどきどきした。私より小柄な奥さんは身重でお腹が大きく膨らんでいて、ぶつかって自分が奥さんやその中の赤ちゃんに危害を加えることになったりしないかと思ったのよ。でもね、奥さんは私の前で主任とタカハシ君のことを話ながら、笑ったのね。最後に皆さんと楽しく仕事できて幸せだったと思います、って。奥さん、って云っても、たぶん私や麻里とほとんど歳の変わらない人がよ。私、あんな状況で笑える人がいるなんて知らなかった」
友人は最後にもう一度、知らなかった、とつぶやいた。