山の幽霊5
それはそれは心地よかった。まどろむというのだろうか。夢を見る、夢を見ていると自覚できるほどの浅い眠り。その中を千穂は揺蕩っていた。
「しろーい」
仰向けで宙に浮かぶ自分はふわふわと進む。すぐ下には美しい草原が広がっている。上には白い雲が広く薄く広がり、空の青を隠していた。
「はー」
今日は疲れた。たくさん歩いた。公園での昼寝も心地よかったが、やはり寝るなら布団が一番だと思った。
「貴ちゃんにも見せたかったな」
ふと、思い出してしまう。優しい笑顔をくれた人を、優しい手を優しく伸ばしてくれた人を。自分を守ってくれるはずだった力強い背を。
―でも
「背中だけは、武尊の方が強そうだな」
貴ちゃんの方がずっとずっと優しいけど。ふいとそっぽを向くように首を横に向ける。そこにはふわふわと、雲なのか白いものが浮かんでいた。それに手を伸ばした時、世界が暗転した。どさっと音を立てて地面に落ちる。
「たたたたた」
痛くなどないのに反射でつい口にしてしまう。
ざざっと波の音がした。
千穂は後ろに首を巡らせた。
「海」
その海は、昨日遊んだあの海に似ていた。しかし、その光景は昨日と同じ海とは思えなかった。波は荒ぶり、色はどす黒い。視線を上げれば空の色も海と変わらなかった。
「暗い」
嵐だった。雨が強く降り注ぎ、肌に刺さる。それが痛いような気がして、千穂は体を掻き抱いた。時折雷鳴が響き渡り空気を揺らした。びりびりと鼓膜が揺さぶられる。頭痛がするようだった。
「なんで」
さっきまで、あんなに綺麗な世界だったのに。突然どうして。
―どうして
そう空を仰いだ時、ひときわ大きく稲妻が空を駆けた。カッと視界が光に埋まり、千穂は目を閉じた。
ハッと目を覚ます。気づけば息が荒かった。記憶の最後は世界を覆いつくす白い光だ。それが雷であったとしばらくして思い出す。浅い呼吸を続けながら、千穂は目だけを動かした。電気はまだ点いている。横を見れば、隣のベッドであかりが規則正しく肩を上下させていた。眠っているのだと知れた。さらに視線を動かす。それ以外は金縛りにでもあって動かないとでも言うようにただ目だけを動かす。ふと、視界に引っかかるものを見つける。それはぼうと、立つ優実だった。ふと、視線が合う。
―ぞくり
肌が粟立った。こんな感覚久々だ。胸の奥の底の底に冷たいものが忍び込んできたかのような感覚。そこから体が凍っていくような感覚。
優実はのそりのそりと千穂の方へと歩み寄る。
―違う
―これは違う
―優実ちゃんじゃない
涙がにじんだ。しかしのどが震えて声が出せない。
―どうして
―どうしていつも自分はこうなのだろう
―どうして今になって気づいたのだろう
―どうして
どうしては止まらない。そして、優実の足も止まらない。千穂のベッドの前で足を止めた優実は、そっと手を伸ばしてきた。つと、指先が頬を撫でた。氷のように冷たかった。それにやっと動転していた気がおさまってくる。
―指、冷たい
―優実ちゃん、大丈夫かな
―体は大丈夫かな
中身が違う。体は優実のものだと、なぜか千穂は確信できた。
「あなたって、特別なのね」
ぎしっと音を立てて優実はベッドに腰かけた。優しく、どこまでも柔らかく頬を撫でてくる。千穂はそんなことないと、ふるふると首を横に振った。
―体、動く?
しかし、足や腕に力は入らなかった。
「この子、返してほしい?」
「え?」
「この体、返してほしい?」
優実の物なのに、使う者が違うと声まで変わるのか、あまりにか細い声は耳を澄ましていなければ聞き落としてしまいそうだった。
千穂はごくりとつばを飲み込んだ。そして、意を決して口を開く。
「返してほしいよ」
「じゃあ、ついてきて」
優実は立ち上がった。体からどっと力が抜け、汗がにじみ出た。息さえ止まっていたとでもいうように荒い呼吸を繰り返した。そんな千穂の状況など無視して、優実は繰り返す。
「ついてきて。返してほしいんでしょ?」
その言葉に、千穂はぎゅっと手を握ってベッドから下りた。ゆっくり、優実に近づく。優実はそれに満足したのか、小さく笑った。
「助けを呼んじゃダメよ。そんなことしたら、返してあげないから」
「分かった」
千穂はこくりと頷いた。優実は、そっと扉を開けた。静かに優実は歩いていく。千穂は物音を立てないようにとそろそろと歩く。自然と二人の間は開いてしまう。優実は時折振り向いては、千穂がついてきているか確認した。
二人して、音もなく階段を下りる。千穂はそろそろと、優実はすっすと。
「時間稼ぎをしようとしてるんだったら無駄よ」
そんな気などさらさらなかった千穂は、ゆっくりと歩いていることを言われているのだと気づくと、そうか、その手があったかと内心手を叩いた。しかし、これ以上早く歩くことも遅く歩くことも千穂には難しかった。音をたてないようにするには、ペースを変えることはできなかったのだ。
「―まあ、いいわ」
ついてきてるなら、と優実は千穂に背を向ける。
一階のリビングに着くと、迷わず突っ切り玄関へと歩いていく。電気は消してある。千穂は目を細めて闇に慣らそうとした。
「どうしたの?早く来て」
お友達、返してほしいんでしょ?そう言われれば、千穂には進むしかない。がたんとソファにぶつかる。
「いたたた」
「何してるの。気づかれたら返してあげないわよ」
「待ってって」
よく見えないんだもん、と鼻をすすった。
―あ、やばい
―泣く
だめだだめだと首を横に振る。大丈夫大丈夫と言い聞かせる。きっと、誰かが気付いてくれる。助けてくれる。だから、今は自分にできることをしよう。千穂はキッと顔を上げた。涙を手の甲で拭うと足を進める。目はだいぶ慣れてきた。大丈夫、もうぶつからない。
「行くわよ」
優実はすでに靴を履いていて、玄関の扉を開けて待っていた。千穂も靴を履く。すると、優実は外に出た。千穂もそれに続く。玄関を音もなく閉めた。
「こっち」
優実が指したのは海だった。昨日の出来事を思い出す。すると足がすくむが、ついて来いというのだから、ついて行くしかない。千穂は両手を握りながらそろそろと歩いた。さくさくと前を歩いていた優実は、また後ろを向いて千穂との距離を確認する。暗がりでよく見えなかったが、眉をひそめた気がした。優実は速足で千穂の元に戻ってくると、乱暴に手を取った。
「痛い!」
「あなたが遅いのが悪いんでしょう?」
冷たくそう言い放つと歩き始めてしまう。優実の足取りは速い。千穂は小走りになる。
「待って!速いよ!」
道路に下っていく階段でつまずきながら千穂は優実の手を引っ張る。しかし、優実が手を引く力の方が強くて、千穂の抵抗など意味をなさなかった。道路と別荘をつなぐ階段を下り切り、舗装された道路に出る。こけてしまわなかったことに、千穂は安堵の息を吐いた。足場が良くなり、千穂の足取りも先ほどより速くなる。それに満足したのか、優実は千穂から手を放した。
「海まで行くわよ」
優実は昨日遊んだ海まで行くつもりのようだ。
―大丈夫かな
―また、あいつ出るんじゃないかな
千穂は優実の後ろをついて行きながら海を眺めた。海は、静かなように見えた。
―大丈夫そう?
―でも、突然出て来たしな
油断はできない。中身は違えど体は優実の物なのだ。あまり無茶はさせたくない。
「海じゃないとだめなの?」
「だめなの」
そうなのか、と小さく呟く。優実の中にいる誰かさんは海に目的があるらしい。優実が歩を止めたので、考え込んでいた千穂は気づかずに優実の背にぶつかる。
「いたた」
何度目だと思いながら額を撫でる。―本当は痛くなどないのだけれど、反射的にそうしてしまったのだ。優実は振り返ると放した手をまた掴んだ。千穂が逃げると判断したのかもしれない。
「逃げないからそんなに強く引っ張らないで」
「海、嫌なんでしょ?」
「そうだけど」
「逃がさないから」
「逃げないよ」
「分からないじゃない」
「何のために優実ちゃんを人質にとったの」
「そうだけど」
でも、やっぱりだめ。と優実は小さな声で言った。そうこうしているうちに昨日の海辺に着く。今日は出てこなかったらしい。浜辺はきれいにしていた。
―昨日の今日だからな
さすがに今日は出てこないのかもしれないと千穂は思った。
優実はザクザクと歩いていく。千穂も砂に足を取られながらそれについて行く。優実はじゃぶじゃぶと海の中に入っていくと、千穂を自分の前に引っ張り手を放した。
「ここから先は一人で進んで」
「へ?」
振り回された勢いで波の中で膝をついてしまった千穂は、優実が何と言ったのか聞き取れなかった。あたりはザザと波の音で満ちている。今の優実の声は、波の音に簡単に消されてしまう。
「海の中に入って」
「えと、どこまで?」
「ずっと、ずっと先まで」
千穂はじゃぶじゃぶと進んでみた。後ろを振り向く。もっと先までと優実の顔に書いてあった。また進んでみる。
「さすがに夜は寒いよ」
うう~と唸りながら歩を進める。千穂は膝のあたりまで浸かったところでまた後ろを振り向いた。
「ねえ!どこまで行けばいいの?」
「まだ先!」
「溺れちゃうよ!」
「それでいいの!」
「・・・・は!?」
溺れろと言っているのか?と千穂は頭をフル回転させ始める。正直珍しいタイプだと思った。食べられそうになったことならたくさんある。しかし、溺れろとはまた斬新な。
「溺れたら、どうなるの!?」
目的だけでも聞いておこうと千穂は声を上げた。それくらい知る権利はあるだろう。そして、誰か早く助けに来て。こんなことなら、もっとゆっくり進めばよかった。
「あなたは生贄」
どうしてか、その声は耳によく届いた。
「あの人を取り戻すための生贄」
「あの人?」
「あなたには関係のないことよ」
速く行って、と言外に告げて来た。千穂は優実をじっと睨みつけた。
「この体、返してほしいんでしょ?」
「本当に返してくれる?」
「いいから速く行って!」
優実はどこからかハサミを取り出すと、それを首筋にあてた。
「待って!分かった!進むから!」
突然なんだ、取り乱して。千穂はぶつぶつ言いながら歩を進める。波が高くなってきた。体は腰まで水に浸かっていた。そろそろ溺れそう。
―ピキ
空気が張り詰めた。
「来た」
千穂は回れ右をして走り出した。優実が驚きの声を上げる。
「何してるの!戻ってこないで!」
「だめ!あいつが来る!あなたも逃げないと!」
「何わけの分からないことを!」
「わけ分からないのはあなただよ!」
千穂はどうにか膝が浸かるあたりまで戻ってきた。
「その体は返してもらう約束だもん。傷つけられたらたまんない!」
逃げなきゃ危ないの!と千穂は叫ぶ。
「逃げるって、何から!」
「もう来る!」
その言葉通り、背でどぱっという音がした。足が出てきたのだと知れた。思った通り、優実の表情は固まっている。
「何?あれ」
「分かんない!」
でも逃げるよ!どうにか千穂は優実の元まで戻ると腕を引いて走り出した。
「っくし」
くしゃみが出る。やはり夏とはいえ夜は寒い。そんなことを思っていられるのは、あえてあの足を視界に入れないようにしているからなのか。
「待って!待って!私、あの人知ってる!」
優実がそんなことを口走り始めた。千穂は叫んで返す。
「だめ!危ない!」
ぎゅっと千穂は腕をつかむ手に力を込めた。
「っ!痛いわ!」
「あなただって、思い切り私の腕掴んだじゃない」
走りにくい砂浜を、たどたどしく走っていく。どすっと横に足が落とされた。当たらなかったにせよ、その衝撃は大きく、千穂はこけてしまう。それにつられて優実もこけた。びゅっと音がした。上を向けば、今度こそ当たる位置に足が持ち上げられていた。千穂はぎゅっと目を閉じた。




