0.待ち人
―死にたくない。
自分はそう願った。
急な悪天候に、船は耐えることはできなかった。船はなすすべもなく波に飲まれた。その時自分は願ったのだ。まだ死にたくはないと。自分を待つ家族のもとに帰りたいと。確かに自分は願った。そしてそれは叶えられた。確かに叶えられた。しかし、それは望んだ形ではなかった。そう、形が違った。形は違ったが、願いは叶えられた。
何本にも増えた腕が、足が伸びていく。巨大になった体は、魚でさえ寄り付かない。そしてこの体は海の外には出られない。でも自分は生きている。時折意識がかすむけれど、その時自分が何をしているか分からないけれど、確かに生きている。
―願い方が悪かったか。
そう思うことはしばしばある。けれど、この形で叶えられたのだから仕方がない。そう素直にあきらめる気持ちもある。しかし、脳裏をよぎる姿がある。柔らかい髪を揺らして、自分に陽だまりのように笑いかける。速く速くと自分の手を引いて走る。そんな彼女が大好きだった。そんな彼女が大切だった。だから、ああ、願わくば―
―自分は君のもとへ帰りたい。
―なぜ、あの人だけ帰ってこないの?
船が転覆したと聞き、視界が絶望に染まった。こんな嵐の中、助かる命などあるのだろうか。自分は港まで走って走って。ただただ名を叫んだ。帰ってきてほしいその人の名を呼んだ。しかし、世界は暴風雨の音で満ちており、自分の声なんてきっと届きやしなかった。それでも叫ばずにはいられなかったのだ。いつまでも叫んでいる自分を誰かが家まで引きずって連れて帰った。その日はただただ茫然自失の状態で、記憶が曖昧だ。それでも、翌日にはどうにか動けるようになっていた。
数日たって、もう息をしていない体を漁師たちが見つけて引き上げた。彼と一緒に漁に出た仲間たちには生存者はいなかった。それでも彼らは帰ってきた。帰ってきたのに、どうして彼だけ帰ってこない?自分はそれだけが不思議でならなかった。みんな帰ってきた、だからきっと彼も帰ってくる。そう思って、ずっと待っていた。待って、待って、待って―。結局彼は戻っては来なかった。戻っては来なくて、そのことが恨めしくてならなかった。自分は、待っていたことと、恨めしく思ったその気持ちしか、覚えていない。