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「ハンドルを切ってバスをガードレールにぶつけて停める」。もはやそれが最後の手段だった。それしか手はなかった。もしそれが失敗したら? そんなことを考える余裕は俺たちにはない。
夢中でハンドルに飛びついた。運転手の腕はハンドルを抱え込んだまま。しかし腕をどけることはできなくてもハンドルを動かすことならできる。大きく動かす必要はない。こんなスピードでハンドルを大きく動かせばバスがひっくり返りかねない。少しでいいんだ。少し動かして進路を変えられればいいんだ。
大きくひとつ息を吸う。そして一瞬止めると腕に力を込めようとした。
「ちょっと待って!」
先輩が俺の腕を押さえた。えっ、なんで?
驚いて先輩の顔を見た。先輩は顔を激しく左右に振った。
「今やったら橋桁にバスがぶつかってしまう。橋のアーチが終わってから。ぶつけるのはそこで。いい?」
先輩の声は冷静さを取り戻していた。俺は先輩の顔を見ながらゆっくりとうなずいてみせた。ふしぎと落ち着きが戻ってくるのがわかった。やっぱり先輩は天女さまだ。
前の車が迫る。しかし俺は動じない。もう少し。もう少しでアーチが終わる。
バスが最後のアーチを通過した。今だ!
俺は力を込めてハンドルを切ろうとした。
しかし俺はハンドルを動かすことができなかった。動かなかったんじゃない。動かせなかったんだ。ハンドルを動かしてはならない事態が俺の目に飛び込んできたからだ。
俺がバスをぶつけようとしているガードレール。それはバスの進行方向向かって左側にある。そしてそのガードレールのさらに外側には歩道がある。そしてなんたることか! その歩道に自転車の集団が走っていた。1列ではなく塊で。俺たちのバスに背を向けて。つまり彼らは明らかにこちらの緊急事態に気づいていない。
バスをあそこに突っ込ませてガードレールがなんともないとは思えない。恐らくカードレールは歩道側に変形する。そしてその変形したガードレールは確実にあの自転車の集団にヒットする。ガードレールは頑丈そうだ。もしかしたらほとんど変形しないかもしれない。しかしその可能性に賭けるわけにはいかない。頑丈なだけに万一変形して無防備な自転車の集団にヒットすればどんな事態になるか。俺は目の前にその光景をまざまざと思い浮かべることができた。
ダメだ。バスをガードレールにぶつけるわけにはいかない。
どうしたら、俺はどうしたらいいんだ。このままハンドルを切らなければ前の車と衝突。このバスだけでなく前の何台かの車を巻き込んだ大惨事になる。ハンドルを切ればガードレールが変形してあの自転車群を巻き込んだ大惨事になる。どっちを選んでも大惨事。
今、俺の前にはふたつの選択肢がある。
1.ハンドルを切らずに前の車に突っ込む
2.ハンドルを切って歩道の自転車群を巻き込む
どっちを選ぶべきか? どう行動すべきなのか?
それはまさに「神様のテスト」だった。これまで俺がテストだと思っていたものとはレベルが違う。格が違う。次元が違う。
それだけじゃない、正解がないんだ。ふたつの選択肢のどちらを選ぼうとも人命が失われる。しかもひとりやふたりじゃない。おそらくもっと大勢の。
俺には神様があざ笑っているのが見えた。神様が「さあ、この問題、どう解く?」と言っているように思えた。今まさに人類滅亡を賭けた最大の難問が俺の前に立ち塞がった。




