93 メフィストフェレスの館にて その3
「なんと、本物か……」
メフィストフェレスが発した言葉はつぶやくように小さかった。目を見開き、苦り切った表情とともにゆっくりと顔を引いた。
「もうよい。ネロを連れてゆけ」
メフィストフェレスはゾルゲに命じた。すかさずゾルゲはネロを抱きかかえて部屋の外へと消える。
メフィストフェレスは再び手紙を拾い上げた。そしてもう一度ゆっくりと声に出して手紙を読む。
「しかしいったいなんの用があるというのか。わしは神の寝所にもう何度も行ったことはある。しかしそれは常にわしのほうから押しかけたもの。このように神のほうから招待してくるだなど、この悪魔メフィストフェレス、これまで一度たりとも経験したことがないわ」
メフィストフェレスの口調は忌々しいなにかを吐き捨てるかのようだった。彼にしてさえ、神がこの手紙に託した意図が読めなかった。神の言う「おもしろいもの」の正体がわからなかった。
「ただ、ひとつ思い当たることがあるとすると……」
メフィストフェレスは再び顎に手を当てた。
「あの“賭け”のことか。もうそろそろであろう。あのうずたかく積まれたディスクの山を神が見終わるころというと。いや、もう既に見終えておるかもしれぬ」
メフィストフェレスの額に深い皺が寄った。
「だとするとまずい。ここに書かれたこの『おもしろいもの』とは神の“一手”を指しておるのかもしれぬ。わしを目の前に置いて、神の勝ちを高らかに宣言するつもりなのかもしれぬ」
メフィストフェレスの額の皺がさらに深くなった。
「いっぽうで全然違うことかもしれぬ。例えばもしかすると神はあの『VRゴーグル』を手に入れたのではあるまいか。そしてその言葉の通り、わしに『おもしろいもの』を見せようとしているのかもしれぬ。あの神のことだ。それも充分ありそうなことではないか」
メフィストフェレスは天を仰いだ。あの移り気な、気まぐれな神のやることなど、神ならぬ悪魔である自分がどうして正確に予測できるであろう。
やがて彼は目を閉じ頭を数度細かく左右に振った。
「とにかく最悪の事態に備えねば。慎重さこそが我々悪魔の取り柄。たとえ空振りに終わっても、最悪の事態を免れたとなれば安いもの」
そう言うと彼は右手を前方に突き出した。するとその先の空間が揺らぎ、たちまちのうちに立体映像が浮かび上がる。
映像の中にヴァルキュリヤが姿を現した。
「お呼びでしょうか、メフィストフェレス様」
跪いたヴァルキュリヤの姿がそこにはあった。ただそのようすはいつもの悪魔の姿ではない。悪魔とは正反対の、かわいらしいパジャマ姿だったのだ。
メフィストフェレスはその姿を見て思わずゴクリとつばを飲み込んだ。
(前にも書いたが、悪魔につばがあるのかはこの際考えないことにする。)
「ヴァルキュリヤよ。なんじゃ、その格好は」
「はっ。申しわけありません。今まで対象者の部屋で寝ておりましたので」
ヴァルキュリヤが頭を下げる。よく見ると映像の隅にはベッドが映っている。
「おぬしは対象者の部屋で寝ておるのか……。まあよい。それよりもヴァルキュリヤよ、いよいよであるぞ」
「はっ。いよいよ、でございますか」
「そうじゃ。まだ確定したわけではないがのう。しかしその時がもう間もなくであることは間違いない。いよいよじゃ。わしがおぬしに与えた“真の任務”を果たすべきときがいよいよ来たのじゃ」




