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今度は俺がキョトンとする番だった。たぷん目も丸く開いてたろう。
「へ?」
「だからあの人は私の実の兄なの。血がつながっているの。でもびっくりしたわ。まさか瀬納君があれを見て私が結婚するんだって思うだなんて」
また先輩はひとしきり笑った。ほんとうに愉快そうだった。
はっきり言ってこの後の俺の記憶は曖昧だ。先輩が結婚するんじゃないってわかって一気に緊張が緩んだからだろう。なにを話したか思い出せない。どう応対したのかもわからない。
ただ覚えているのはものすごく幸せだったってこと。先輩に好きな人はいないってことが、あらためて先輩の口から確認できたってこと。
気がついた時には、俺と先輩は自宅アパート最寄りのバス停でバスを待っていた。
「ところで瀬納君、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
恐る恐るといった感じで先輩が言う。
「ん? なんです?」
「あなた今期の有給、何日ぐらい残ってる?」
「有給ですか。かなり残ってますよ。夏休み取るのに使ったほかは、俺がぶっ倒れた時に使ったぐらいですからね」
「じゃあこの3月の最後の週に1日ぐらい取れるかしら? 仕事で都合悪ければ無理にとは言わないけれど……」
このとき俺はピンときた。これはデートの誘いだ。先輩は俺をデートに誘うつもりなんだ。なぜ土日じゃないのかはわからない。でもそれ以外にあるだろうか?
実は今抱えている仕事は締め切りが今月末なんだ。スケジュールもそれで立ててある。しかも結構キツい。1日潰れるのははっきり言ってまずい。
でも他ならぬ奥名先輩の頼みだ。しかもデートの誘いだ。これを断ったら男じゃない。やってやる。仕事なんかいつもの倍、いや3倍気合いを入れればなんとかなるだろう。
「大丈夫です。いけます」
「そう! じゃあ火曜日でお願いできるかしら? 私もその日に取るから」
おおっと! 先輩も俺と同じ日に有給を取るんだ。間違いない。これは間違いない。デートだ。先輩は俺をデートに誘うつもりで間違いない!
「わかりました。最後の週の火曜ですね?」
「そう。無理そうだったら早めに言ってね。こっちもいろいろ準備とかあるし」
俺の辞書に「無理」という言葉はありませんよ、先輩。
その時バスが向こうから近づいてきた。先輩が乗るバスだ。
俺は地球の自転が速くなるようにと願った。一分一秒でも早く、今月最後の火曜日が来てほしいって願った。ただし先輩がバスに乗って去るまでは遅くなるように、って。
バスは俺たちの前で停まった。先輩がステップに足をかけた。
「ああそうだ。忘れるところだった。有給の件、久梨亜と美砂ちゃんにも取るように言っておいて。近くに住んでるんでしょ? お願いね」
そう言い残すと先輩はバスの中の人となった。そしてバスはそのまま走り去った。後には混乱してる俺だけが残された。
俺が大博打の第4の勝負にみごと勝ったことに気づいたのは、それからしばらく。俺が自宅アパートに帰ってからのことだった。




