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 先輩は俺が手に持ったコップを見てる。でも当然それは白く曇ってなんかいない。


「違うの。これじゃないの。これの隣に……」


 先輩はそう言うと台のほうを振り返った。俺もそっちを見た。


 台の上にはなにもなかった。


 それはコップに“不可視属性”がついてるって意味じゃない。確かにそれはコップを奥名先輩の目から隠すっていう効果はある。でも俺の目からは見えていた。薄ぼんやりではあるけどな。でも俺には確かに見えていたんだ。


 でも今は違う。さっきまでコップが乗っていた台の上には文字通りなにもなかったんだ。それは俺の目からであっても。俺の目からもただ洗面所の壁が見えているだけだったんだ。


「えっ、嘘っ!」

 先輩が再び頓狂とんきょうな声を出す。


「ちょっと瀬納君、あなたここからなにか取らなかった?」

「ええ取りましたよ。これを」


 手にしたコップを先輩に示す。


「違うの。これじゃないの。これの隣に……」

「えっ、これの隣ですか? 隣にはなんもないですよ」

「ええっ? でも確かさっき……」


 先輩は“白く曇ったコップ”があったはずの場所をじっと見てる。


 うまくいったのか? しかしまだ安心はできない。先輩の疑念は晴れたわけじゃない。


 先輩は“白く曇ったコップ”があったはずの場所めがけて再び“ハアー”っと息を吐きかけた。一瞬ドキッとした。しかし今度はコップが白く浮かび上がることはない。


 やったか? しかし先輩の横顔を見て考えを改めた。まだだ。まだ先輩は疑ってる。たぶん“コップが存在するはず”ってのが半分、そして“自分が見たと思っていることが間違ってたんじゃないのか”ってのがもう半分。


 先輩は手を伸ばした。さっきまで“白く曇ったコップ”があったはずの場所へだ。

 思わず息をむ。久梨亜がなにをしたかは知らないが、もしそれが単に“不可視属性を強化する”ってことだったんなら、先輩の手が“見えないコップ”に触れちまう恐れがある。視覚では感知できなくても、触覚では感知できちまうかもしれない。


 しかしその恐れは無用だった。先輩の手はなにも触れなかった。その手は“白く曇ったコップ”があったはずの空間を通過した。


「えっ?」


 驚く先輩。手を左右に動かす。それは“白く曇ったコップ”があったはずの場所を越え、俺のコップが置いてあった場所も。そしてもうひとつの“見えないコップ”が置いてあったはずの場所へも。


 ドキッとする間もなく結果は出た。先輩の手はなにも触らなかった。先輩は台の上でただ手を左右に振っているだけだった。


「ねっ、なにもないでしょ」

 俺は先輩が言葉を発する前に念を押した。


 ここで「なにもない」ことを強調することが大切なんだ。俺と先輩のふたりで確認したんだ。そのことを先輩に認識してもらうんだ。そうすれば“疑いようのない事実”として先輩に刻み込まれる。でもまだドキドキしている。確認がまだだ。先輩から完全に疑念がなくなったという発言を引き出さない限り、俺に平穏は訪れない。


「うーん、そうね。私の勘違いだったのかな」


 先輩から疑念がなくなったという発言が出た。もう大丈夫。もうこれでコップの危機は回避できた。もう安心だ。


「きっと先輩は疲れてんですよ。だって毎日あれだけの仕事をこなしてんですから」


 自分のコップを台に戻しながら俺は言った。安心しきっていた。しかしこの言葉が実は次なる危機を招くことになるのだが。

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