彼岸剣 曼珠沙華
それは、曼珠沙華の花弁のようだった。
稽古を終えた午後。門人は既に帰宅し、神林宗次郎だけが残っていた。
蒸した道場内の換気をする為に戸を開けると、秋の涼風が吹き込んできた。
そして猫の額ほどの庭には、曼珠沙華の赤い花が咲いている。それを一瞥し、宗次郎は踵を返した。
(あれから十年も経つのか)
秋彼岸の頃に咲く曼珠沙華を見ると、あの日の光景を思い出す。
十年前。宗次郎が十四の時に、父・神林弥一郎が死んだ。
父は深江藩士であり、千葉派壱刀流の目録を持つ剣客だった。死ぬ五年前には、十人の賊を斬り伏せ、〔深江無双の絶剣〕と称せられたほどである。
その父は、藩主・松永久高に命じられ、要人の警護をしていた。その要人とは、久慈小忠太という、齢十五の小姓である。
小忠太は、文武に秀でた美童で、次第に久高の夜伽もするようになった。そして向けられる寵愛をいい事に、一族の者を重用せよと口利きをする他、政事にも口出しをして、久高もそれを聞き入れるという事態に陥った。
特に、酷いものであったのが、明和八年の人別銭の導入である。
当時、深江藩の財政は困窮の限りを尽くしていた。毎年のように続く冷夏で不作が続いた事から、上方商人への借財の返済は滞り、参勤のみならず江戸在府の費用まで足りない始末だった。
そこで小忠太が、八歳以上の男女にそれぞれ定められた税を納めるよう進言したのだ。
その対象は、武家のみならず百姓・町人・僧侶など深江藩に住まう者全ての者で、翌年には飼っている動物にまで対象になった。
執政府は強く反対したが、久高が藩主権限で無理に押し通した。その結果、一揆が起こる寸前にまで不満が高まった。
その不満を鎮めたのが、民衆に人気があった松永外記という久高の甥だった。その外記が、諸悪の根源たる小忠太の排除を画策したのだ。
その動きを察した久高は、父に小忠太の警護を依頼した。父は気乗りしなかったが、主命と言われ受けるしかなかった。
そして、秋彼岸の夜。下城の途中を外記の刺客に襲われ、父は小忠太と共に殺されてしまった。
父は、胸を一突きされていた。その刺し傷から広がった血は、まるで曼珠沙華が花弁を広げたようだった。
警護に失敗し、命すら落としたという事で、神林家は家禄を三十石から五石に減らされた上、小普請組へ組替えという厳しい処分を受けた。
しかし、十年で時は流れた。小忠太の死で気落ちした久高は、執政府によって隠居させられ代替わりをした。今は、首席家老として政権を握った外記の天下である。
宗次郎は、そうした藩内の政局からは身を遠ざけ、父から授かった剣を磨きに磨き、剣客としてそこそこ名を挙げるようになった。
今では、この不倒流梅津道場の師範代を務めている。道場主の梅津主水は、父と親しい剣友で、病弱な母を抱えて難儀していた自分を拾ってくれたのだ。そして去年、主水の一人娘・十亀と結婚した。
十亀は無口で控えめな女だが、主水に武芸を仕込まれ、その腕は女ながら中々のものである。そうした女と共に生きる。子はまだいないが、幸せな日々だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
宗次郎が、仇敵である外記に呼び出されたのは、秋菊も薫りだした長月も晦日の事である。
場所は、城下郊外にある禅宗〔天霊禅寺〕の本堂。枯山水の美しい庭がある、松永家の菩提寺だった。
「よう来たな」
向かい合うと、外記が言った。
「まず、面をあげい」
宗次郎はその言葉に従った。
鷲鼻。尖った顎。両眼は団栗のようで愛嬌はあるが、口はへの字に閉じられている。
(この男が……)
父の仇。そして、実の叔父を追い落として養子を迎え、政権を掌握した梟雄の顔か。
「流石は親子。父に似ておるな」
「……」
「剣も出来ると聞く」
「いえ、そこまでは」
「謙遜するな。お前が、不逞浪人三人を斬り斃したという報告を受けておる。並みの腕ではないという事もな」
宗次郎は、全ての事が耳に入っている事を知り、息を呑んだ。
あれは暑い盛りの二か月前。百姓に対し乱暴をしていた浪人に出くわし、それを斬ったのだ。初めて人を斬った体験だった。面倒を避ける為に、死体は百姓と共に密かに片付けてくれたようだが、どうやら漏れていたようだ。
「なに、お前を罪に問おうしているのではない」
「では、私は何故に呼ばれたのでしょうか?」
「人を一人、斬って欲しいのだ」
「……」
「相手は、久慈智乃介。あの小忠太の兄だ」
宗次郎は、驚きの声を挙げ、その様子を見た外記は鼻を鳴らした。
話は簡単だった。
小忠太の死で、久慈家は取り潰しになり、一家は離散。智乃介という兄も浪人になった。しかし、この智乃介という者が凄腕の剣客で、十年間で修行を重ね、いよいよ意趣返しに来るという。本来、兄が弟の仇討ちをするという事は御法度であるが、激しい憎しみの前には、どうでもいい事らしい。
「必ず討てよ」
断りようのない命令だった。外記は返事も聞かずに立ち上がると、
「見事討てば、本来の三十石どころか、百石に加増してやろう」
と、言い残して本堂を立ち去った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「久慈智乃介は、強い」
誰に聞いても、そう口を揃えて言う。主水すらも、難しい勝負だと渋い顔をしてみせた。
(しかし、断りようもない)
勝てばいいのだ。勝てば、未来も開ける。外記は仇だが、百石取りになれば冥土の父も喜んでくれるだろう。
宗次郎は、身体を鍛え直した。山に籠って心気を整え、自分の剣と向き合った。
そして、父に授かった秘太刀〔燕尾〕を繰り返し稽古した。
相手の斬撃を素早く払い、返す刀で切り裂くという必殺の太刀だ。智乃介に勝つ為には、これに賭けるしかなかった。
「旦那様」
山から戻った宗次郎に、十亀が手紙を持って現れた。
「どうした?」
「投げ文が、先程」
「ほう、私にか」
その差出人は、智乃介だった。
――あの神林宗次郎が討っ手だと知って、人生の皮肉を感じる。弟を守った者の子が、敵として立ち塞がる。それもいいだろう。ついては、まず貴公と立ち合いたい。二日後、三栗谷の不動尊前にて待つ。立ち合いは一対一。努々、加勢を忍ばせぬように――
それを読み終えた宗次郎は、十亀に智乃介との立ち合いが決まった事を告げた。
「斯様な立ち合いなど、お止めくださいまし」
無口な十亀が、珍しく大きな声を出した。智乃介の剣名を、武芸を為す十亀も知っているのだ。
「何を申すか。これは藩命だ。それに見事討てば百石だぞ」
「十亀は百石など望みませぬ。浪人でも構わないのです。十亀は、宗次郎様さえ生きてくだされば、それで」
「愛い奴だな、お前は。しかし、それは出来んよ。私はね、武士なのだ」
そう言って、宗次郎は十亀を抱き寄せた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
三栗谷は、小高い山の裾。葦が生い茂る沼の側である。平素、人影などない静かな場所だ。
その不動尊の前。鉢巻をして、袖口を下げ尾で結んだ宗次郎は、智乃介と対峙していた。
まるで餓狼のように浪人体になった智乃介の剣に宗次郎は押され、既に数か所の傷を負っていた。
「それでも、弥一郎の倅か。冥土で親父殿が泣いているぞ」
肩で息をしている宗次郎は、迫る斬撃を寸前で払い、転がりながら避ける事で精一杯であった。
一方の、智乃介は余裕の様子だった。髭に覆われた顔の下には、哀れな子犬をいたぶる、軽薄な笑みがある。
「ほら、どうした」
繰り出される斬撃に、宗次郎は必死に耐えた。
避け、弾き、払い、躱す。そうしている内に、智乃介の慢心が見えた。無様な討っ手に油断したのか、大きな隙が生まれたのだ。
宗次郎は智乃介の斬撃を跳ね上げた。
(今こそ、燕尾を)
そして、胴を抜く。
斬った。その感触はあった。しかし、智乃介はそこにはいなかった。
「掛かったな」
智乃介の隙。それは罠だったのだ。剣が降り下ろされる。負けた。そう思った。
しかし、宗次郎は地面に転がっていた。
何かに強く押されたのだ。そして顔を上げると、顔を真っ赤にした智乃介が、忌々し気にこちらを睨んでいた。
「おのれ、宗次郎。貴様が謀ったな」
そう言って斃れたその奥に、小太刀を手にした十亀が立ち尽くしていた。
「お前」
「旦那様」
宗次郎は、駆け寄った十亀を抱きとめた。
「どうして、お前が?」
しかし、十亀は身を震わして泣き、暫く答えられそうにもない。仕方なく背をさすりながら、死んだ智乃介を一瞥した。
「まさか、そんな」
その骸に宗次郎は息を呑み、胸の中で泣く十亀の顔を見た。
智乃介の胸に、十年前の秋彼岸に見た、曼珠沙華が咲いていたのである。