アダムとイヴ
フィアは久々にアルフヘイムの地に降り立った。
昨晩ほとんど眠らずに考え込み、やはり休暇をとることにしたのだ。この期を利用して久々に人間界を見て回りたい。そう思い、自分もついて行くと言い張るミカエルを押し留め、一人出てきた。
久々のアルフヘイムは多くのエルフたちが行き交っている。いやエルフだけではない。ハーフエルフ、人間たちも数多くいた。
もはやこの地は閉ざされたエルフたちの聖地ではない。人間にとって、自分たちでは作ることの出来ない珍しい品々を手に入れられる重要な地なのだ。
この地にはフィアが創り出した特殊生命体であるアダムとイヴが住んでいる。
久しく会っていないチョコレート人間の二人のことを頭に浮かべ、フィアは思わず苦笑した。
イヴはアダムのために創った存在だ。だが、アダムは違う。思いつきというか、ついうっかりと言うべきか、よくよく考えもせず創り出してしまった生命体だ。今から考えればアダムに申し訳ない話である。
あの頃は自分の力を使う責任も何も考えたことがなかった気がする。
そんなことを考えていると、遠くからイヴが駆けてくるのが目に入った。フィアの到着を察し、迎えに来てくれたのだろう。
フィアはイヴののっぺらぼうな顔に笑いかけ、己も彼女に向かって駆け出した。
※※※
「お久しぶりです、神様」
アルフヘイムの一角にあるウロボロスの旗が掲げられた小さな小屋。ここにアダムとイヴは暮らしている。その台所におかれたテーブルでフィアはイヴと向かい合っていた。アダムは仕事があり、戻るのは夕方になるという。
フィアはイヴに出されたホットチョコレートを一口飲み、彼女に頷き返した。
「神様がいらっしゃると聞いて今朝アダムは飛び上がって喜んでいましたよ」
「久しぶりだもんね。ごめんね。色々やることがあったから」
実際のところは、シェイドとの死別の哀しみを仕事に逃げることで誤魔化していただけだ。アダムに会いに来ようと思えばいくらでも出来たはずなのに、それをしなかったフィアは少しきまりが悪い。
自分は自分のことしか考えてないのを改めて突きつけられた気になる。
「そうですよね。ただ、アダムは神様のことを案じていて。神様が眠りにつかれた時のことを思い出していました」
思わぬ言葉にフィアはカップの中に落としていた視線をあげた。
「あの、フィアが消滅してた時のこと?」
「はい。神様が消えられたその時の衝撃と、そこから復活なさる二十五年間のあいだの哀しみと苦しみを語っていました。アダムにとっては、いえ私にとってもそうですが、神様は親なのですから」
親、という一言にフィアはびくりとする。
その様子にいったん言葉を止めたイヴだったが、フィアが何も言わないのを見て言葉を続けた。
「今でこそ私がいますが、そのころはアダムはこの世でただ一人の特殊生命体でしたから。創造主たる神様がいらっしゃらなくなったら自分は一人ぼっちになってしまうと絶望したそうです。そばにいて、常に己を気にかけてくれたミカエル様には大変失礼なことだとわかってはいたけれど、と。」
「そう、だったんだ」
自分が復活してこの地を訪れた時を思い出す。チョコレートの涙をあふれさせながら遠くから駆け寄ってきたアダムの姿は昨日のことのように思い出せた。
フィアは思わずぽつりと呟いた。
普段だったら言わないような言葉を外に出してしまったのは、かなり弱っていた証拠かもしれない。
「アダムも今のフィアと同じ気持ちだったんだね。自分はこの世にたった一人の存在で、頼りでもあり、支えでもあった親のような存在を失って、絶望と苦しみと哀しみをどうしていいか分からなくなってたんだね。フィア、アダムがあの二十五年間ずっとずーっとそんな苦しみを抱えてたなんて考えもしなかった」
復活を泣くほど喜んでくれたのは当然目の当たりにしたから知っていた。でもその喜びの根底にある感情をきちんと理解していなかったのだ。
しばらく黙って考え込んでいたフィアは、また別のいやな感情が自分の中から湧き出すのを感じた。
「でもフィアは……」
アダムと自分は違う、と言いかけた言葉をなんとか押し留めた。
さすがにそれは言ってはならない。いつか、時期はわからないとは言え消える前と同じ姿で復活を約束されていた自分と、魂を洗われかつての人格も記憶もすべて失い別人として生まれ変わるシェイド。やはり自分とアダムは違う。一人残され永遠に生きていかなければならないフィアとアダムの差だ。
そこまで考え、フィアはその根底にある思いに気づき、ぞっとした。
「神様?」
イヴが気遣わしげに声をかけてくる。フィアはきっと今の自分は真っ青な顔をしているだろう、と思った。
神として、とか。人の生、魂のあり方を歪めてはならないとか。生まれ変わり別人になっても、たとえフィアのことを忘れてしまってもずっとその魂を見守り続けようだなんて綺麗事言っていても結局はこれだ。
自分はシェイドにはシェイドでいてほしい。フィアのことを忘れないでほしい、一人にしないでほしい。
「フィアは、神様失格かも」
思わずフィアはぽつりと呟いた。
オトナになれば自分はシェイドと離れなければならない。かつて彼が言っていたように、親は子離れし、子は親離れするのが生き物のありかただから。
だからコドモ、幼体でいたかった。
少なくともそうであったなら、シェイドを転生させない理由になる。自分はまだ幼く、親が必要だと。
神としてシェイドの魂のあり方を不当に歪められないならば、それが必要なことだとすればいい。
そのために無意識で神の力を使い、己の成長を止めた。今ならば分かる。フィアは見た目こそ幼いままだが、その中には必死にオトナである自分を閉じ込めている。もう一人の己が飛び出してこないよう、必死に扉を閉め、鍵をかけているのだ。
もう一人の自分と対面したら、自分に訪れるのは真の意味でのシェイドとの別れだ。
「フィアは一人になりたくない。神様なんて一人ぼっちの存在はつらいもん。みんなズルい。自分と同じ生き物がいて。フィアはどんなに頑張っても神様をもう一人創れない」
だからオトナになんてなりたくないのだ、と呟くフィアにイヴは少し悩み、やがて意を決したように語り始めた。
「神様。これはあくまで私の無責任な意見ですけれど。どんな生き物であっても、家族がいてもいなくても、愛するものがいてもいなくても……生き物と言うのは皆一人ぼっちなのかもしれません」
「みんな一人……」
フィアは一人という言葉を噛みしめるように呟いた。
※※※
その日フィアはアダムとイヴの申し出を受け、彼らの家に泊まらせてもらうことにした。
久々に会ったアダムは家に帰って来て、フィアの顔を見るなりダラダラとチョコレートの涙を流して、イヴに呆れられていた。しかしフィアにはアダムを呆れることも、笑うことも出来なかった。
自分がアダムたちにとって親のような存在である、ということはイヴに言われて初めて知ったことだ。我ながら創造主として無責任に思える。とてもフィアは自分にとってのシェイドのような存在に、自身がなれるとは思えなかった。
そこまで考えて、新しくつくろうとしている世界のことを思い出し、ぞっとする。自分にはそんな資格はない。とても無理だ。すべての者たちの親のような存在になどなれるとも思えない。
「一体どうしたら……」
思わず嘆きが溢れる。
どうしたらこの哀しみを乗り越えられる。ちゃんとしたオトナになれるのだろう。
フィアはきつく目を瞑った。
昨日同様、とても眠れるとは思えなかったけれど。
※※※
翌朝フィアは予定通りアルフヘイムを発つことにした。人間界を見て回るのだ。
案の定涙を流すアダムに帰りはここによってから、魔界に帰ると約束をし、フィアが一歩踏み出したところで遠くから女の声でフィアを呼ぶ声が聞こえた。
「神様ー!」
「うにゃっ!」
聞き覚えのある声にぎょっとして振り返る。
満面の笑みでフィアに向かって駆けてくるリリスの姿がそこにあった。




