まほろば
ルシファーの連絡から間も無くメフィストフェレスがシェイドの元を訪れた。この魔族はシェイドが勇者として旅をしていた頃からの顔見知りだ。一時期は人間のフリをして勇者一行に同行していたことすらある。
「勇者殿、ごきげんよう」
「こうやって会うのは久々だな、メフィストフェレス。ところで何故ルシファーはお前を寄越した?」
シェイドの問いにメフィストフェレスは少し笑って答えた。
「三人の幼体が意識不明になったのは既に聞いているでしょう。ルシファー様はその者たちが神様の夢の世界へと引きずり込まれたとお考えです」
「夢の……世界?」
「ええ。貴方も一度連れて行かれた事があるでしょう」
シェイドは二十五年前のことを思い出した。確かに自分も突然意識を失ったと思ったら、彼女の夢の世界へと招かれていたことがある。あの時フィアは『シェイドを呼んだ』と言っていた。
「それでお前が?」
「ええ。私の得意分野ですので」
メフィストフェレスは高位魔族の中で中の上くらいの実力だが、他者の精神に干渉する能力に長けていると聞いたことがある。
「しかし……フィアから招かれた訳でもないのに、行けるのか?」
「それは試さないとわかりませんね。もしかしたら無防備になっているかも知れませんし、逆にいつも以上に心を閉ざしているかもしれません」
「もし、行けなかったら?」
「あまり考えたくありませんが、その場合は無理矢理ルシファー様に干渉して頂き、私と貴方の二人が乗り込む予定です」
メフィストフェレスの答えにシェイドの顔が曇る。無理矢理と言うが、神であるフィアの精神世界だ。たとえルシファーであっても彼女より力の劣る者にそんな事が出来るのだろうか。
メフィストフェレスはシェイドのその疑問を表情から読み取ったのだろう。先ほどの答えに補足を始める。
「もちろん、神様本人ではありません。他の引きずりこまれたと思われる幼体三人の誰かを経由して、神様の夢の世界へと入ります」
「そんな事が出来るのか?」
「ええ。ただかなり荒っぽいやり方なので、媒介した幼体は精神崩壊する可能性が高いですが」
淡々と述べられた可能性にシェイドはぎょっとなる。
「せ、精神崩壊?」
「そうです」
「その子の親は……」
「全員納得済みです。予定ではまずベルゼブブ様のご令嬢から順番に媒介の候補とし、彼女がダメならばベリアル様のご子息、それでもダメならば最後の一人。ちなみにこの順番はベルゼブブ様からの申し出で決まりました」
シェイドが何か言おうとしたのをメフィストフェレスは首を横に振ることで止めた。
「何も言う必要はありません。神様が戻らなければ世界の危機。世界の危機と我が子を天秤にかけ、後者をとるようなお方ではありませんよ。ベルゼブブ様もベリアル様も」
「そう、だな……」
「一番は我々が問題なく神様の世界へと入れることです。それさえ出来れば犠牲は要りません」
メフィストフェレスの言葉にシェイドは頷いた。
「では参りましょうか」
「ああ」
メフィストフェレスの魔力が高まり、シェイドはそれに巻き込まれるのを感じた。徐々に意識が遠のいていく。薄れる意識の中、シェイドは一人蹲って泣いているフィアの姿を見たような気がした。
***
ゆらりゆらりと波に揺られているようだ。ぼんやりとそんな事を考えていたシェイドは誰かに強く揺さぶられ、はっと我に返った。
目を開けるとメフィストフェレスの顔が視界に飛び込む。シェイドはどことも分からぬ場所に横たわっているらしい。彼はシェイドの腕を掴むと引っ張り起こしてくれた。
「ここは?」
「神様の夢の世界です。あっさり乗り込めて拍子抜けしたくらいですよ」
シェイドは周囲を見渡した。真っ白な世界。見渡す限り何もないし誰もいない。
「入り込めたのはいいんだが……」
呆れたように呟くシェイドにメフィストフェレスも肩を落としている。
「ええ。ここからどう進むかの問題がありますね」
フィアと誘い込まれた幼体たち三人はどこにいるのだろう。メフィストフェレスの話ではフィアが目覚めたら、幼体三人も自動的に解放されるらしい。ならばフィアを探すべきだ。
「転移は?」
「無理ですね」
もはやため息しかでないが、嘆いていても仕方ない。二人はとりあえず進むことに決め、真っ白な世界を歩み始めた。注意深く当たりを見渡しながら歩く。そうしながらシェイドは気になったことをメフィストフェレスに尋ねた。
「どうしてこんな事になったんだろうな」
「ただの魔力熱ではないでしょうね。こんな前例はないので。心当たりは?」
「心当たり……」
何もない無人で無音の寂しい白の世界。あのフィアの世界とはとても思えないそこを見渡しながらシェイドは考える。
いや、と自分の考えを否定した。あの『フィア』とはどの『フィア』の事だろう。子どもらしい無邪気で食い意地がはっていてマレンジャーが大好きなフィア。己の肉体が消滅したとしても神としての責任を果たすフィア。そして知り合ったばかりの頃の捨てられて一人になることを怯え、常に人の顔色を伺っていたフィア。
まだ幼い子どもでありながら、彼女の持つ顔は一つではない。
彼女の明るい部分も知っている。だがその明るさとは対極にある奈落の底のような深い闇もシェイドは知っていた。
薄れる意識の中で見た一人蹲って泣いているフィアの姿とシェイドの看病をするといってそばを離れなかったフィアの姿が重なる。
「俺のせいかもしれない」
ぽつりと呟いた言葉にメフィストフェレスが足を止めた。怪訝そうにシェイドの方へと振り返る。
「貴方の?」
「ああ。あいつ言ってたんだろ……俺が死ぬかもって」
「そうですね。では、神様が喪失の恐怖と悲しみの為に心を閉ざしたと?」
「なんとなく、そんな気がした……」
シェイドは真っ白な空を仰いだ。
タイミングから言って、その可能性が高いだろうと思う。他に原因となるような事が思い当たらない。何か神様としてやらなければならないことがあったようだが、それを苦にして彼女が現実逃避するとは思えないのだ。
「あいつ、言わないんだよ。寂しいとか。一人になりたくないって」
まだ幼い彼女が一人残された時のことを思い、そういう言葉を発しても不思議ではない。むしろ当然のことだ。だがフィアはそれを言わない。
きっとその言葉がシェイドの重荷になると考えて、心の奥深くに鍵をかけ表に出さぬよう閉じ込めているのだろう。
「なるほど。では……我々はまだ油断してはいけませんね」
「何を?」
「もし貴方の言う通り、神様が喪失の恐怖のあまり、心を閉ざすことにしたのなら。ここに入り込んだ我々も閉じ込められ、帰してもらえなくなる可能性があります」
「まさか……」
そんなこと、と言おうとしたシェイドはメフィストフェレスの厳しい視線に口を噤む。シェイドはそれ以上何も言えずに俯いた。
その時シェイドの耳に微かな声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。悲痛な声でシェイドを呼んでいる。あの子のこんな悲痛な声を聞いた事は過去にない。
呆然と顔を上げたシェイドを訝しむようにメフィストフェレスが見ていたがそれどころではなかった。メフィストフェレスが何か言うよりも早く、シェイドに強い魔力が襲いかかる。攻撃の魔法ではない。転送か何かの魔法だ。連れて行かれると思うより前にメフィストフェレスがシェイドの腕を掴んだ。次の瞬間、二人は突如襲いかかった魔力に包まれ、その場から姿を消した。
***
眩い白い光がおさまった。シェイドは僅かに目眩がして強く目を瞑る。しばらくそうして、落ち着いたところで再び目を開けた。
そこは先ほどの真っ白で何もない空間とは全く別の、色鮮やかなお菓子で出来ていると思われる家が並んでいた。
「何だここは……」
「まるで天界のようですね」
隣に立つメフィストフェレスの言葉にシェイドは振り返る。
「天界って、お菓子の家が並んでるのか?」
どんな世界だ、と言いたくなるのを堪えた。天界はフィアの世界だ。お菓子の家が並び、マレンジャーが歩いていてもおかしくない。
「ここのどこかに神様がいるのでしょう……勇者殿?」
「多分、こっちだ」
「え……ああ。声が聞こえますね」
二人は頷きあい、かすかに声が漏れ聞こえる一つのお菓子の家に近づいて行った。声は家の中からでなくその裏手から聞こえているようだ。お菓子の家を回り込む。
ここまで来たら、フィアが泣き叫ぶ声がはっきりと聞こえてきた。
「嫌だよ……一人になりたくないよ! 寂しいよ……」
お菓子の家の裏で、フィアは地にうち伏して泣いている。シェイドとメフィストフェレスの存在にも気づいていない。シェイドは静かにフィアに近づいて行った。メフィストフェレスは陰からその様子を伺っている。
「嫌だ、嫌だ……一人にしないでよ……」
ずっとここで泣き叫んでいたのだろうか。その声は掠れている。
シェイドは彼女のそばに跪き、そっと肩に手を置いて話しかけた。
「フィア」
「う……」
シェイドの声にフィアがびくりとする。構わずにシェイドは続けた。
「迎えに来たぞ」
その言葉にフィアはのろのろと顔を上げた。その顔を真っ青だ。恐れおののいている。余程この姿を見られたくなかったのだろうか。
「心配かけて、ごめんな。もう良くなったよ」
「シェイド……」
慌てて起き上がり、地に座り込んだフィアはごしごしと涙を拭っている。その姿はただの一人の子どもだ。
「フィア。俺な、時々ふと思うことがある。実は俺はあの時死んでしまって、今こんな風に生きてるのは実は何かの夢なんじゃないかって」
シェイドは二十五年前、死にかけていた時のことを思い出しながら言った。本来死ぬはずだった自分、普通の人間としての幸せは魂がシェイドから別人へと生まれ変わるほんのひと時の間にだけ見ている夢か何かではないだろうか、と。
フィアは困惑した顔でシェイドの話を聞いている。
「でも、やはり俺は生きている。これは夢じゃない。それはとても幸せなことだと思ってる。それを与えてくれたのはフィアだ。あの時死んでいたらこんな未来はなかった。だから俺はフィアに恩返しをしたいと思っている」
「恩返し?」
「そう。フィアならば出来るんじゃないかと思うが。死後もフィアのそばにいて見守るとか……」
「背後霊……」
「人聞きの悪いこと言うんじゃない!」
シェイドは今までに聞いたことのある数々の怪談をつい思いだし、青ざめた。フィアはそれを見ることなく項垂れていた。
「……シェイド。フィアね、それは望んでない。望んだらダメだってわかってる。だから物陰からシェイドの魂をストーカーするつもりだったんだもん。でもね、それでもね」
寂しいとフィアはぽつりと呟いた。
何やらストーカーなどという聞いてはならないような言葉を聞いた気がするが、それはこの際聞き流そうとシェイドは心に決める。
「死んでしまって、永遠に別れるのは辛いよ。大人でも。子どものフィアがそれを辛いと思うのは当然だ。だから寂しかったら寂しいって言ってもいいんだぞ。なあ、フィア。まだ時間はあるよ。お前が俺の為に新しく創ってくれたこの身体は、そんなすぐ駄目になるような代物じゃないと思ってる」
「うん」
「だから、別れの時まであと何十年かある。お互いにゆっくり考えよう」
「考えるって、何を?」
「まあ、なんだ……俺が背後霊になるのかお前がストーカーになるのか……どっちにするか。お前には幸せであってほしい。みんなそう思ってる。世界は神の分身のようなものなんだろ。ならばお前が幸せであることが、世界の為に一番良いことなんだから」
シェイドの提案にフィアはしばらく黙り、かなり時間が経ってからゆっくりと頷いた。
***
「シェイド!」
早く早くとフィアはシェイドを手招きした。彼は苦笑しつつ、坂道を登ってくる。
今日はとうとう魔物が人間界から魔界へと移動する日だ。フィアとルシファーの二人で行う予定である。最初は天界から力を使う予定だったが、人間界から見守ろうと思いつき、今こうしてシェイドと高台へと向かっているのだ。
「お天気が良くてよかったね!」
「そうだなぁ」
二人はのんびりと坂をのぼっていく。
あの日から十日経った。フィアは無理矢理自分の世界へと引きずりこんだ三人にちゃんと謝罪した。もしかしたら許してもらえないかもしれない、と考えたら足がすくんだがシェイドが一緒に来てくれ、何とか彼らとその両親に謝ることが出来た。
皆、笑顔で気にしなくていいと言ってくれてフィアは涙ぐんでしまったぐらいだ。あの時はシェイドが死んだら、と思うと絶望感でいっぱいだった。他のことなど何考えられなかった。
でもこうやって改めて考えると、自分にはそんな風に心配してくれるお友達もいるのだ。かつてシェイドしかいなかった時とは違う。勿論、シェイドのことは一番大切で、フィアの心の中で一番大きな存在だ。
まだフィアは別れの時のことを考えたくない。それはきっと自分が子どもだからだろう。何十年か経っても自分は子どもだ。しかしセーレが言っていたのだ。同じ子どもであっても何十年という年月は確実に自分のものの考え方を変えてくれると。
もしかしたら、別れのその時。フィアは今とさほど変わらない姿であっても、今のようにシェイドがいないとひとりぼっちで耐えられないなんて事はなくなるかも知れない。
確かに別れは辛い。だがそれを乗り越えられる強さが自分には身についているかも知れないのだ。
もしそうであったなら、寂しくても彼を見送ろう。
「あ、ついた!」
フィアとシェイドは目的地にたどり着いた。遠くまで見通せる場所だ。
フィアはシェイドと繋いだ手をはなす。こちらから力を使えば、それに反応してルシファーが魔界へと魔物を導く。
フィアは魔力を集中した。人間界にいる全ての魔物たち。それを魔界へと送る。魔界側の扉が開くような感覚があった。向こう側も準備が整っているようだ。
フィアの視界に入るあらゆる場所から無数の赤い光が天へと伸びる。それは空にある漆黒の渦巻きに吸い込まれていった。しばらくして完全に赤い光が消えると、魔界への入り口である漆黒の渦巻きも消えた。
「終わりか?」
「うん。終わったよ」
「そうか……」
これで人間界から魔物は消えた。フィアはシェイドの方へと向き直り、笑顔で言った。
「お疲れ様、シェイド!」
真の意味で勇者の役割が終わった。今後、人間界に勇者という存在が生まれることはない。
「ありがとう。フィア。でもこれからだな」
「そうだね」
出来損ないエルフの件も解決の糸口が見つかった。おそらく十年以内には全て駆逐出来るだろう。その後、人間界がどうなっていくかは分からない。
同種同士の殺し合いが激しくなるのかもしれないし、平和が続くかもしれない。それは神であるフィアにも人間であるシェイドにもわからないことだ。
ふとフィアは今日が自分の神としての真のスタートなのかもしれないと思った。今までは先代の神が創った道の上を歩いて来たようなものだ。だが今回の件はフィアが考え、決めたこと。たとえその先が人間の滅亡であっても、目を逸らすことなく見守ろうと考え決めたことだ。
今日、勇者はその役割を完全に終え、神は新たな一歩を踏み出した。
「シェイド、お家に帰ろう!」
「そうだな。夕食のメニュー何にするかな……」
考え込んでいるシェイドの姿にフィアは嬉しくなった。何気ない日常だ。でもそれはとても大切なものだと分かる。
「シェイド、ヤキソバ!」
「ヤキソバでいいのか?」
「うん。フィアはヤキソバがいい」
「そうか。じゃあヤキソバだな。肉買って帰るか」
「うん。お家に帰ろう、シェイド!」
帰る家がある。かつてのシェイドとフィアには考えられないことだ。それがどれだけ幸せなことか忘れてはならないとフィアは自分に言い聞かせる。
幸せな思い出をいっぱい作ろう。それは終わりなき生を生きる自分にとって何よりの糧となるに違いない。
「お友達がいて、協力してくれる人がいて……シェイドもいる。フィアは幸せだなぁ」
思わず零れたフィアの本音にシェイドの口元が綻ぶ。
「皆も、俺もフィアがいてくれて幸せだよ」
【第八章 完】




