覚悟
フィアは扉を開けているベルゼブブに尋ねた。
「ねぇねぇ。あれが『ルシファー』なの?」
「はい」
「何でまた、あんな事になってんだ」
そう言いながら背後から部屋を覗き込もうとしたシェイドが、あまりに濃すぎる空気中の魔力の濃度に顔をしかめた。ここまでの魔力ははっきり言って毒だ。
「さあ……ある日突然このような状態に」
「ちなみにこうなったのは、魔界が神に封じられた前か? それとも後か?」
「後になります」
ルシファーはベルゼブブの答えになるほどと頷いた。
「こうなられてからも時折夢を介してルシファー様は我々魔界の者たちと接触されておりました。先日、この状況を打開するため異界の神を召喚すると仰られていたのです」
フィアはベルゼブブの説明を聞き、部屋の中へと入る。部屋の中は外以上の魔力濃度だ。
扉の前で待つ者達を振り返り首を横に振る。ここに入れば身体に影響を及ぼすだろう。無事でいられるのはフィアとルシファーくらいだ。
フィアは結界に封じられた『ルシファー』を見る。
かなり厳重な結界だ。なのに彼の魔力は外へ漏れ出ている。この溢れそうな魔力を用いて自分たちを召喚するという大技を成し遂げたに違いない。
「もはや限界のようだな。自分で自分を封じたか」
すぐ後ろでルシファーのつぶやきが聞こえた。何時の間にか部屋の中へ入って来ていたらしい。
「自分で自分を、とは……」
困惑したベルゼブブの言葉にルシファーは結界の中の『ルシファー』を見ながら、振り返りもせずに効いた。
「お前は魔族が世界にとってどんな存在がであるか、知っているか?」
「いえ……」
「そうか。説明しても良いが、あまり良い話ではないぞ」
「もはやこのような状況です。これ以上悪くなることなどございません」
だろうな、とルシファーは呟いてベルゼブブに背を向けたまま説明を始めた。
「我々魔族は掃除屋だ。世界が滅ぶとき、破壊の本能に支配され全てを破壊する。そして最後は自分たちも消える。誰に定められたかは分からん運命だ」
「……なるほど。ではルシファー様のこの状態はどういう事でしょうか?」
「さあなぁ。私はルシファーだがこいつとは別人だ。だからこれはただの推論だが……。世界の滅びの気配に一番敏感なのは『私』だ。おそらくこいつは破壊の本能に支配されるのを恐れたのだろう」
そのとき、フィアは誰かに呼びかけられた気がした。キョロキョロ見回すがそれらしき者は誰もいない。この場にいる者達はルシファーの話に聞き入っている。
『神よ』
やはり声が聞こえた。
フィアはそれで気づいた。目の前の封じられた『ルシファー』が自分に語りかけていることに。
だが他の者にはその声が聞こえないらしい。相変わらず話を続けている。
「こんな魔界を封じられてる状態でこいつが破壊の本能に支配されたら、真っ先に魔界とここに住む者達を滅ぼすだろう。それを防ぎたかったんじゃないか」
「ですが、ルシファー様。破壊の本能に支配されたら、滅びの気配の方へと引き寄せられるはずです! ならばここを破壊してまわるより、さっきの空間へ出て、あの膜もぶち破って外へと出るかと……。破壊の本能に支配されたルシファー様のお力で消し去れないものは無いはずですし」
「そうなるかも知れないし、そうならないかも知れない。万が一のことを考えたんじゃないか?」
アザゼルの疑問に対して答えたルシファーは、私の事じゃないから分からんが、と付け加えた。
フィアは意を決して封じられている彼に近づいた。そっとその結界に触れる。そうすると先ほどよりも明確にその声が流れ込んで来た。
『神よ。もはや私は限界だ。だがここで私が開放されれば、そこのルシファーが言った通りの事態になる可能性がある。いくら全てが消えることが決まったとて、真っ先に今までともに過ごした者達を滅ぼすのはごめんだ』
「フィアを呼んだのは、そのため?」
彼の声が聞こえない他の者達にはフィアが突然独り言を言っているようにも見えたのだろう。皆が話をやめてフィアに注目する。
『そうだ。もう私には抗う術がない。暴走しそうな溢れ出た魔力を使って異世界から貴方を呼んだ。どうか私の願いを叶えてほしい』
願い、と言う一言にフィアは少し笑った。
自分はやたらと願い事をされる。ルシファーが自分を創ったのも彼の願いを叶えるためだった。
そして今もまた、この別の『ルシファー』にも願い事をされている。
「願いって?」
『私をここを封じる空間の外殻近くまで転送して欲しい。そこでこの結界を破壊してくれ』
そうすれば『ルシファー』は手近にあるここを封じる空間の外殻を破壊するに違いない。そしてそのままこの世界へと飛び出すだろう。全てを滅ぼすために。
理性を失い破壊の本能に駆り立てられて。
そして、ここを封じる空間の外殻が破壊されれば他の魔族たちも変わり果てる。
フィアは少しためらい、だが聞いた。
「それをやると、ここの魔界の魔族たちも皆破壊の本能に支配されちゃうよ」
自分でも何を言っているのかと思う。自分の世界に帰るためならば、この世界が滅ぶのもやむなしと思っていたくせに。
『それも逃れられない運命だ』
「わかった。でもフィア、魔界の中で転移魔法も使えなかったよ? 転送魔法も使えないと思う」
『それについては問題ない。そこのベルゼブブが貴方にその権利を与える』
「……わかった」
フィアは頷くと押し黙り様子を伺っていた者達を振り返る。
「ルシファー様とお話しなさっていたのですか?」
ベルゼブブの問いかけに頷いた。そして『ルシファー』と話した事を説明する。フィアが彼をどうするか、この後世界がどうなるか。そして『ルシファー』の諦めとも覚悟とも言えるそれを。
ベルゼブブは黙ってそれを聞き、しばし俯いた。
フィアたちはそんな彼を黙って見守った。自分達に言えることは何もない。
俯いていたベルゼブブが顔をあげる。そして言った。
「神よ、我が主の望みを叶えて下さること。心より感謝致します。すぐに転送、転移が出来るように致しますので、ご準備ください」
フィアは頷いた。
ベルゼブブはフィアではなく、
その背後の封じられている『ルシファー』へ言った。
「ルシファー様、その苦しみは間もなく終わりましょう」
そこでフィアは初めて気づいた。彼はずっと暴走しそうな破壊の本能を抑え込んでいる。その上このような封印の中にいるのだ。この封印の中はこの部屋に満ちるそれとは比べ物にならない魔力の濃度だろう。
「我々もすぐに後を追います」
ベルゼブブは己の主君にそう言うと、フィアを見た。
「もう、大丈夫?」
「ええ」
ベルゼブブが頷くのを確認し、フィアは転送魔法を使った。目の前から『ルシファー』が消える。
「我々も行くか」
ルシファーの言葉に頷き、フィアは四人を連れて転移魔法を使った。
目を開けば先ほどの大地だ。そばには魔界の入り口の大穴があり、遠くの空には封じられた『ルシファー』が浮いている。
「じゃあ、いくよ!」
フィアは魔力を集中させる。
本音を言うと、怖い。覚悟はしたし、実際世界を滅ぼすのは『ルシファー』をはじめとするこの世界の魔族たちだ。
だが、自分の行動が一つの世界の滅びを確定する。その責任が重く、恐ろしかった。
我ながら情けない。
神様になる覚悟はちゃんとしたはずなのに。
肉体を消滅し、復活を待った二十五年の間ずっと考えていた。本当は神なんてなりたくなかった。もっと自由に生きていたかった。でも色々考えて自分は覚悟を決めたのだ。
自分はあの世界に責任を持ち、神様として生きていくと。
何故なら、あと数十年後には自分はシェイドと別れなければならない。永遠に。人間には寿命がある。寿命がくれば、彼は死にその魂は洗われ別人として生まれ変わる。
だが神と世界は互いに分身のようなもの。
自分が神様であれば、自分の分身たる世界の中で彼は何度も生まれ変わり生きるのだ。たとえ別人になっても、フィアのことを忘れてしまっても……それがシェイドの魂であることに変わりない。
だから神様でいる限り、シェイドがいなくなっても自分は一人ぼっちじゃない。そして世界を守り、世界が続いていくことでずっと一緒にいられる。
だから神様になって世界を見守り、彼の魂の幸せを見守ることにしたのだ。
もしかしてこれは魂のストーカーと呼ばれるだろうか。いやいや、生まれ変わったシェイドの元へ押し掛けるつもりはないから、それ位は許してもらおう。
フィアは神様として生きることを決意した時のことを思い出し、恐れる心を叱咤する。
滅ぼすことは恐ろしい。全てがなくなってしまう。
だからこそ自分は自分の世界を大切にしようと強く思い、フィアは集中していた魔力を宙に浮く『ルシファー』へと放った。
まっすぐにフィアの魔力は封印を射抜く。眩い光を放ち、封印は消滅した。
次の瞬間、封印から解き放たれた『ルシファー』はこの空間の外殻である膜にも見えるそれに強力な消滅魔法を放った。甲高い音が響き、まるで割れた硝子のように砕け散っていく。
極彩色の輝きとなって舞い散るそれを顧みることなく『ルシファー』は背中に黒い翼を出現させ外の世界へと飛び出していった。
ルシファーとアザゼルが真剣な面持ちでその姿を見送っている。フィアもシェイドもミカエルでさえも彼ら二人に声をかけられない。
ルシファーは飛び立っていく魔族たちから目を離さずに隣のアザゼルへと語りかけた。
「なあ、アザゼル。あいつらの翼、普段はどこに仕舞ってるんだろうな」
「あ、ルシファー様もそう思われました? そもそも服着てんのにどっから翼出てくるんだって話ですよね」
「ちょっと、待て!」
「なんだ、勇者?」
「いや、おかしいだろ! 俺たちはお前たちが奴らに自分を重ねて憂いているのかと思ったのに……翼? 悩むとこ、そこか?」
そんなシェイドを二人は笑った。
「お前おもしろいなー、勇者」
「我々は我々。奴らは奴らだ。それに私は運命に抗うべく努力した。その結果がそこのお子様神様だ」
ルシファーの言葉にフィアはうん、と頷く。自分は世界を滅ぼさない。
次から次へと魔界へ続く穴から破壊の本能に支配されたであろう魔族が飛び立っていく。彼らは穴のすぐそばにいるフィア達には見向きもしない。フィア達はこの世界の存在ではない。だから彼らの滅ぼす対象にはならないのだ。
フィアは崩壊していくこの場所の空を見つめた。もうここは長く持たない。それに元の世界へと帰れるようになっている。
これ以上ここでやることはない。
そう思ったその時。背後からアイテールの声がした。