壬生の狼たち(~家~)
俺が案内されたのは、予想に反しての田んぼ道だった。
もう、本当に何もない田舎道。草が生え放題の小道がずっと続くだけで、民家らしい民家もない。
平坦な夜の水田の向こう側には、山のシルエットが見えた。遠くにいくつも見える山に向けて、水田が湖みたいに続いている感じだった。稲が植えられた湖に足を取られないように、俺たちは慎重に歩いた。
「――しまったわね」
俺の前を歩く女の子が、小さくつぶやいた。
「今日は月が雲に隠れてる。提灯を宿屋かどっかで借りてくればよかった」
「懐中電灯は?」
俺は、頭に浮かんだことを素直に言った。
だって、そうだろ。夜道が暗いなら懐中電灯を使えばいい。今どきの小学生でも、こんな暗い道を歩くとしたら同じことをすると思う。
でも、
「……? 懐中? なにそれ」
「なにそれ――って、おい。おかしいだろ。なんで懐中電灯に首を傾げてるんだよ」
真っ暗な中ではあったが、俺は女の子の不審そうな気配だけは感じることができた。
「懐中電灯ってのは、な。帰宅部の俺が、ちょっと買い物なんかに立ち寄ったりして遅くなったときに、帰り道を照らしてくる道具だよ。じゃないと、裏道とか暗すぎて通れないだろ」
「…………? アンタ、何言ってんの?」
「だからな。うーんと。ここに、俺のカバンがあったら解決してたんだが……」
あの中には、手のひらサイズの小さな懐中電灯が入っていた。あれを見せれば一目瞭然なはずなんだが、あいにく、俺の手元に学校のカバンはない。
と、
「おー、よしよし。ついたわよ」
「は?」
暗闇の中に光を見つけた声で、ぱあっと明るくなった少女は『ある建物』に入っていった。
でも、俺は後に続くことはできない。
その異質な門構えを見て、それから境内の先にある『本殿』を見上げた。雨風に朽ちたように、ボロボロの屋根と、ところどころ破損した柱を眺める。
「……? どうしたのよ。早く、『うち』に入りなさいよ」
「い、いや。だって……」
俺は、改めてその屋敷を見た。
それは――人の住めない、いや、それこそ狐狸か妖怪でも住み着きそうな朽ち果てた『荒れ寺』。もとい、幽霊屋敷だった。
ゾワッと、意味不明な悪寒が背中を通り抜ける。
『墓』――も、あった。屋敷の横。一般に無縁墓地と呼ばれるらしい、のっぺらぼうの妖怪みたいな、何も名前が記されていない板が――グサリと、盛り上がった土に突き立てられている。
そんな『無縁墓地』が、建物の横にはたくさん並んでいるのだ。
「………………」
俺は。門の前で、すさまじい嫌な予感に襲われた。
だって、そうだろ? こんな薄気味悪いところに住んでいて、『家』なんて言ってるやつなんか絶対に普通じゃない。知り合った清楚なお嬢さんの家が極道の娘でした――とかいうショックのほうが、数倍も健全だった。
だから、くるりと俺は踵を返す。
そのブレザーの首根っこを、後ろから女の子が握った。
「………………どこに行くのかな?」
「い、いや。あはは……。ちょっと急用を思い出しちゃって」
「急用? へえ、急用ねぇ? アンタ。そもそも、この町――〝京〟の人間じゃないでしょうが」
「!」
「その格好を見れば分かるわよ」
動きを止める俺に、彼女は呆れた口調で言った。
「あと、一つだけ忠告。京の夜は危ないので、一人歩きだと〝人斬り〟が出ます」
「ひ、人斬り……!?」
「そ。特に人目のない場所だと――一町も歩かないうちに首と胴体がオサラバしちゃいます。朝になって水田に浮かんでる死体の数、どれくらいかアンタも知りたい?」
と。闇夜でも見えるくらいに、ジトッとした目を近づけてくる少女。
警告というよりも、説教に近いその瞳を見て――俺は、怖くなって首を振るしかなかった。
「だったら、アンタもよそ者らしく私に身を預けなさい。『郷に入っては郷に従え』よ」
「え? でも……。――って、いででででで!!」
首根っこをつかまれたまま、強引にズルズルと引きずられた。
なんっっつう無茶苦茶な女だ、と俺は思う。でも、その恐ろしいほどの力には逆らうこともできず、ジタバタするのがやっとだった。
やがて。ボロイながらも、建付けの丈夫そうな寺の中に入る。中は意外と清潔で、寺のわりに大きな武家屋敷みたいな場所だった。
寺の本殿(仏殿がある、ホールみたいな大きな部屋。その中央)の脇を抜けて、その奥に続く廊下を歩く。そこからは、僧侶が夜番で使うような、いくつもの簡素な部屋が続いていた。
庭に面した廊下だったから、引きずられる俺から見たら城の外郭の廊下みたいだった。ところどころ軒下に行燈が下がっているのが、いかにも旅籠というか。旅館チックな雰囲気だった。
その廊下を渡る途中、ふと少女は、
「――む」
「…………どうした?」
不機嫌そうに顔を歪めて、足を止める少女に。俺は気になって顔を上げた。
彼女――勇は、まるで嵐の前触れが見えるような顔で、
「…………うるさいのが来た」
「は?」
直後、俺は、突き飛ばされる勢いで部屋の一つに投げ出された。
何すんだよ!? と抗議する間もない。それよりも早く、廊下の奥からバタバタと軽快な足音を立てて、
「――お姉ちゃあああああああん!!」
と。元気はつらつ、と顔に書いてあるような少女が、勇に向かって飛びかかってきた。
いや、飛びかかってきたというのは、俺から見た表現であって。実際にそれは、『抱擁』と呼ばれる現象だった。
その少女は、俺から見ても可愛かった。小柄な体に、ツインテールの髪。おそらく、まだ小学生……。美少女になる素質を秘めた、無邪気真っ盛りの純粋な女の子…………に、見えたのは俺の第一印象の誤りだったらしい。
なぜなら、
「こ、こらぁ! 総司!」
困惑した声を上げる『お姉ちゃん』の豊満な胸に、その少女はバフッと顔をうずめる。それから、すううううっと息を吸い込んで。
「えへ。お姉ちゃんの匂い――」
嬉しそうに言った。健全なのは、そこまでだった。
わきわき、っと抱きついた少女の手が怪しく動く。彼女の手に余るほどの胸元をはだけさせて、なんと、少女は恍惚とした表情で胸をもみしだいていくではないか。
「……あっ、こ、こら……! 総司……!」
真っ赤になって叱る『お姉ちゃん』に追いすがって、そのはだけさせた胸元に手を突っ込んでしまう。続いて、着物の裾のわれ目にも。ウットリとして息を荒くする少女は、もう、さっきまでの純粋さは微塵もなく――恐ろしいほどのSっ気たっぷりの、ゾクゾクした表情になっていた。
「お姉ちゃん……! お姉ちゃん……好き……大好き……」
耳たぶに甘くかじりつきながら、少女は蕩けた表情で喘いだ。
「だから……今夜こそは……!」
と。そこまで言ったとき。
ゴツン!! と。勇の怪力から繰り出された一撃が、少女の脳天にヒットした。
「~~っつ!」
「こンのぉ~~~バカチンがあああああああ――っ!!」
続いて、腹パンも決まる。腰を捻って、体重ものせた正拳突きが――ちょっと、大人げないと思うほどの強力な一撃となって、少女を廊下の奥にまで吹き飛ばした。
「お、お姉ちゃん!? ひどい!」
「何がひどいよ、このエセ幼女!! ませガキ!! 今さら純粋ぶる前に、アンタがさっきやった行いを振り返ってみなさいよ!!」
「ち、違うよ? ソウは、お姉ちゃんのことが本当に大好きなんだよ? 好きすぎて、思いあまってネチョネチョ絡んじゃうくらいの……ゲフゥ!」
キックが、また炸裂していた。
でも、なぜだろう。隠れて様子を見守る俺の目からは……蹴られる方の少女が、それはそれで満ち足りたような顔をしているように見えた。
恐ろしいことに、あのよだれを垂らして喜ぶ少女は――あの鉄拳制裁すらも『そういうプレイ』と受け入れているような……。きっと、気のせいだろう。
と。勇は、乱れた着物を整えながら、
「――とにかくっ。私は、都のほうから帰ってきたから。あのむっつり男――歳にも伝えときなさい」
「…………はぁい」
やや残念そうに、少女は立ち上がると。トコトコと廊下の奥に消えた。
あれだけ殴る、蹴るを受けているのに……まるで何事もなかったかのような動きだった。
「…………スゴいな」
俺がつぶやくと、廊下の勇にも聞こえたらしく。「あー」と少女はポリポリと気まずそうに頬をかいて、
「先に白状しておくわね。私の『仲間』たちって、みんなあんな感じだから」
「?」
「変わってるのよ。どいつも。こいつも」
そう言って、少女はうんざりと息をついた。