二条橋の下の出会い(~嫌な予感~)
信じられない悪夢だって、ずっと続けば現実だ。
それが、どんなに信じられない非現実的な世界でも。放り込まれた人間にとっては、逃れようもない『世界』だった。
だって、そうだろう?
たとえ夢の中にいる自覚があっても、自分から進んで銃に撃たれたり刃物に斬られにいく人間だってそうはいないはずだ。夢の中だって、怖いものは怖いんだ。
だから、俺は逃げたし。走ってもいた。
「……っくそ! なんだよ、ここ……!」
そして――。悪夢の風景は、どこまでも続いていた。
古都の都。木塀に囲まれた家に茶屋通り。旅籠もあった。仏閣の門前構えもあった。
そこを歩いてるのはみんな着物の人間で、時代劇で見覚えのあるような商人とか、腰に二本の刀を差した侍の姿の人間までいる。
普通の人間が、一人もいやしないのだ。
まるで、時代劇のセットと張りぼてが、ずっと世界の果てまで続いている感覚。
すれ違う着物の誰もが、走ってる俺を不思議そうな目で見ていた。
学校のブレザーに制服のズボンという俺を、変な生き物でも見るような見ているのだ。
(やめろよ……。やめろよ……! そんな目)
俺は、走りながら叫びたくなる恐怖をこらえていた。
そんな目で見られると――まるで、俺の方が『異常』な人間みたいじゃないか。
俺だって、自分がどうしてこんな場所に迷い込んでいるのか分からない。
ついさっきまで、帰宅途中だった。
いつもの見慣れた学校の帰り道を歩きながら、今日も疲れたー。とか。お袋、晩飯は何を作ってるのかなー。とか。そんなことを考えていた。
夕暮れ時だったのを覚えている。
ちょうど日も傾いてきた頃で、最近は日が長いなー。なんて思っていると近所の家からカレーの匂いがしてきて、腹が『ぐうう』って鳴いた。
全くもって、いつもの帰り道。
なんの変わり映えもしない、一日の終わり。
ただ、違ったのは途中で急な目眩に襲われて――。
なんか、クラクラして意識が暗くなって、それで倒れそうになって電柱に手をついたら――それがコンクリートの柱じゃなくて、柳の木だった。
で、どうして木が……? って顔を上げたら、見慣れない古い路地に自分が立っていて。すぐ近くでは、斬り合いが始まっていた。
「…………く……、いってて」
急いで走ってきたせいか、右足が引きつってきた。
俺は、普段からあんまり運動が得意なほうではない。だから、ほとんど本能で逃げてきたのだが、足だけは耐えられずに悲鳴を上げたようだ。
もう、さっきの斬り合いの気配は遠くなった。
だから俺は足を緩めて、どこかで落ち着ける場所を探すことにした。街でいうところの公園、もしくは自販機横のベンチ。いや、ネットカフェでもいい。とにかく、この得体の知れない場所がなんなのか、作戦会議(脳内)をする必要があった。
…………。
……………………、
でも、そんな都合の良い場所など、あるはずもなく。
「……………………」
俺は、淀みきった川にかかる板橋。その下にもぐり込むことにした。
ハッキリ言って、臭い。
淀みきった川の水というのは、なんかムシムシとしていて、湿っぽくて。うっすらと牛乳を拭いた後の雑巾の匂いがした。たぶん、川の底の藻とか原生の草木の匂いのせいなんだろうけど。
嗅がせられるものなら、みんなに嗅がせてやりたい。そして苦しめてやりたい。
なんか、そういう匂いだった。
と、
『…………き……か』
「?」
橋の上から、声がする。
ちょうど、俺がもぐり込んでる上だろうか。ミシミシと頭上の板が軋んで、二人くらいの足音が聞こえてくる。
『おい。聞いたか。麹町で、また斬り合いが起きたらしい』
『ああ……。みぶろであろう?』
(……? みぶろ?)
嫌そうな声で、そのワードが囁かれた。
声はどちらとも、中年の男性のものらしかったが……どことなく、俺がいた街とは違うというか。妙な訛りのようなものが感じられた。なんだろう。古くささだろうか。
『何でも、長州さまの浪人が三人、斬られたらしい』
『怖や、怖や。もう京の夜は一人では歩けん場所となった。いや、二人でももう危ういわ』
(ちょうしゅうさま……? 斬られた……?)
なぜか、俺の背筋がゾワリとした。
ジメジメとしていた肌が、粟立つのを感じた。こういうの、鳥肌……っていうのかな。悪寒っていうのかもしれない。
とにかく。今の俺は、会話の内容よりも、その響きのほうに恐ろしい何かを感じていた。
それは。もしかすると、この世界が正常じゃない――っていう予感。なのかもしれない。
『とにかく、『みぶろ』には近づかぬようにしておこう。あれは、人ではなく狼の群れじゃ』
と。それだけ言って、男たちの足音は遠くなった。
いや、会話はまだ続いているのかもしれなかったが。俺の耳に届いたのは、それが全てだった。
「………………」
俺は、それでも板橋の下から出ることができなかった。
もう、すでに日は暮れている。
あたりも夕焼けの茜色から、夜の黒い帷に変わっていて――小川に沿って点々と、灯籠に火がついている。幻想的でキレイな光景だったが――今の俺には、迷い込んだ謎の街としての恐怖しかなかった。
どうしよう、って本気で思う。
ジメジメと濃い水の臭さ中で、夢なら早く醒めてくれと思った。
だって、そうだろう?
いくら自分の頬をつねってもビンタしても痛いだけだし、このリアルに五感に訴えてくる匂いとか視覚とかって、とても『夢の中の世界』には思えない。むしろ、ここにいればいるほど、感覚がハッキリとしてくるのが分かった。
だいいち、俺は『みぶろ』とか『長州さま』とかいった用語なんて知らない。
夢ってのは、自分の頭の中にある情報がミックスされながら再生されるものらしい。だから小さい頃の風景とか、昔遊んだ友達とか、そういうのが出てくるのも当然の仕組みなんだとか。
でも、これはなんだ?
こんな古くて、電柱どころか道も舗装されてないような場所なんか、俺は知らんぞ。断言してもいい。『みぶろ』も『長州さま』も、俺の脳内のどのフォルダーにも記憶されていなかった。
(……じゃあ、ここは……?)
俺が頭の中で、そう思った時だった。
表の路地から(つまり、橋の上の通り)、「――コォラアアア! 稲荷ドロボー!!」というけたたましいオッサン声が聞こえてきた。
ばたばたと、足音。
やがて、そのオッサンの足音を先行するように、小さな足音が走ってきて……。
なんと、俺のいる橋の下まで逃げ込んできた。
「――きゃあああ!? な、なにアンタ!?」
と。
くりくりっとした大きな瞳を見開いて、橋の下に飛び込んできた女の子は叫んだ。(いや、むしろ叫びたいのは俺だったが)
艶やかな群青の着物。動きやすようにミニスカートみたいになった謎の着物と、それ以上に鮮やかな桃色の長い髪。
それを縁日みたいに、大きな簪でとめた中学生くらいの女の子が――俺のすぐ顔の前で、
「……あ、アンタ。この近藤勇の私有地を荒らそうっての!?」
大きな瞳を向けて。女の子は、そう俺に言い放った。