恋心の行方
大学内の図書館。蔵書は多く、遅くまで開いており、エアコンの効きもよく利用者はそれなりにいる。
あまり知られていないようだが、図書館の中には学生であれば申請すればいつでも利用可能な個室がいくつかある。特に集中したい場合や、AV機器の使用、学生委員会の小会議等に使用されているらしい。かくいう私も、毎回でないもののよく利用している。やはり一般開放されている席では、勉強する以外の目的で集まった学生―――仮眠や、おしゃべりなど、とにかく静かとは言い難い時があるのだ。
今日もその個室の一室にいる。三人掛けの机といすが2セット、向かい合うように並んでいる小さな個室だ。その部屋の窓側に、私と一人の男が向かい合って立っている。目の前に立つ男は、いつもと同じく秀麗な笑顔を浮かべ、機嫌良さそうに黙ってこちらに目線を向けている。この様子なら、少し多伝えやすい。
この男は私がメールで呼び出した。どうしても、伝えなければならないことがあるからだ。
「話って、なに?」
武藤流、20歳、大学2年生。中性的な顔立ちで、異性は当然同性にも人気がある―――恐ろしいことに恋愛的な意味で。顔もさることながら、頭も運動神経もよく、キャンパスではまるでアイドルの如き扱いを受けている。昨年の大学祭で開催されたミス・ミスターコンテストでは、1年生でありながら圧倒的な票数で二冠を達成した。二冠、つまりミスもミスターも、武藤流が獲得した。特設ステージでミスターの証の錫杖を持ち、ミスの証の冠を被った姿を見た時、この大学はもうダメかもしれない…と思った。異常とも思える武藤流人気に染まりきっている当大学生はともかく、一般の来場者はあれを見てなんと思っただろう。高い偏差値と有名な教授陣、優秀な学生。さらにその学生が力を入れる大学祭などのイベントで有名なうちの大学。恥ずかしくないのだろうか?武藤流も、それに傾倒する連中も。
と、一年前は冷静な自分でいたはずなのに。現在の私は、その武藤流に傾倒する連中の一人となっている。
恋愛感情?そんなもの―――もちろんある。ありすぎて、溢れるほどあって、だからこの目の前の武藤流を想うだけでA-10神経に乗ってドーパミンが駆け巡り、自律神経を介して心拍数を上げ、脳に快感を生み出す。武藤流の横に美しい女が立つのをみれば多少なりともアドレナリンが放出され私を不安定にさせるし、セロトニンは常時の働きを忘れ私を落ち着かせない。
まったく恋愛など、恋心など、最高に厄介で、最低に最低だ。
式島碧、21歳、一浪の大学2年生。外見的特徴をあげるなら、眼鏡をかけている事、髪を一つに括っていることぐらいだろうか。幼いころから着用している眼鏡は現在3代目で、もはや私の一部だ。大学では、私のような洒落っ気のない人間は少ない。多くの者は髪を染め、デザイン性の優れた服を着用し、華やかさを身に着けている。
小中高と制服の恩恵を受け、校則を守って髪も染めず一つ結びの髪型を通してきた私には、お洒落というものはなかなかにハードルが高い。センスもなければお金もない。浪人時代に制服を着るわけにもいかず、なけなしの貯金を切り崩して――余談ながら両親は私の浪人に良い顔をしなかったため、金の無心することははばかられた――私服を多少買い足したが、それも機能重視のもので可愛げもなければ優美なラインを描くこともなかった。しかし大して困ることもなかったのでそれ以降服を買う事もなく、化粧品なども化粧水など基礎的な物しか持っていない。
だが、やはりもう少しその方面について努力をすべきだったと後悔する。
少なくとも、好きな男に告白をする今日くらいは、もう少しなんとかすべきだった。たとえどんな格好をしていたとしても、服装が変わった程度でこの恋が成就することはないとわかっているが、自分の自尊心を満足させるための努力はしてもよかったはずだ。
告白。それはいい加減望みのない恋愛に、一分一秒でも早く蹴りをつけるための儀式でもある。相手は学内のアイドルと呼ばれる男で、私は可愛らしさも美しさも持たない女だ。結果は見えている。
しかし、信じがたいことに結果が分かっているからと言って簡単に恋心がなくなるわけでもないらしい。
好きになったきっかけは、図書館で席が隣あったこと。その日はめずらしく個室が一杯で、仕方なく窓際の一席を使用していた。昨年の大学祭の事もあり武藤流の容姿は知っていたので、あぁ、あの…とつい目を向けた。その時たまたま目が合い、なんとなくの目礼を交わした。そして何気なく武藤流の手元に目を向けた。
そこには、専門書があった。私が読みたくて読みたくて、しかし専門性の高さのせいか図書館の蔵書になく、買おうにもあまりに高くて手に入れられずにいた、私にとっての垂涎モノの専門書が。
普段は人見知りしがちな私だが、こと勉強、とりわけ自分の興味のある分野については積極性を発揮できる。それは相手が誰でも関係なく、その時の私にとって武藤流はアイドルでもなんでもなく"どうしても読みたい専門書の持ち主"だった。
面識もない地味女にいきなり本を貸してほしいと頼まれたアイドルは、いったいどんな気持ちだったのだろう。下手をすれば危ない女、でなくとも下心を疑われてもおかしくなかったが、武藤流は快く笑顔で本を貸してくれた。しかも、自分はもう読んだから返すのはいつでもいい、連絡をくれれば本を取りに行くと言い、連絡先を交換した。どれだけお人好なんだ、というかもっと自分に近寄る人物に警戒心を持った方がいいんじゃないか?と思ったが、そんなことを言って本を借りれなくなるのも困るので大人しく連絡先を交換した。
その1週間後、内容を覚えるほど何度も読み返した本を、約束通り携帯に連絡して図書館で落ち合い返却した。その時、本の内容やその分野に関する話で盛り上がり、武藤流が読みたいと思っている本を今度は私が持っていることが分かり。それでは今度は私が貸すということでまた別の日に会い、こんどは私が貸した本についての感想で盛り上がる。そんなことを何度も繰り返した。
驚くほど武藤流との会話は楽しかった。話せば話すほど、武藤流の事を知っていった。中性的なのは顔立ちだけで、中身は非常に男らしい性格をしている事。遅くまで話し込んだときは、大学から私のアパートまで送って行ってくれるほど優しい。実は甘いものが好きな事。そして何より、その知識の深さ、教養の多さ、論理的思考の速さに感銘を受けた。いくら話しても会話は尽きず、打てば響くような会話に興奮し、そして。
恋をした。
どちらかというと冷めた目で周りのみることが多い自分が恋をした。それを自覚した時は、それなりに衝撃を受けた。自分が恋をするような思考を持っていたことに。気軽に人に言えないような家庭環境で育った自分は、恋愛に夢を見ることも、それを支えに生きることもないと思っていた。しかし現実は、学内のアイドルと呼ばれる男に恋をし、その存在に浮かれ、その恋で生活に充実感を感じている。人生などそうそう思ったようにいかないものだ。自分の感情も、ままならない。
とにもかくにも天変地異のような恋をした私は、しかしすぐに冷静な目で状況を見ることができた。つまり、この恋に見込はないことにすぐに気付いたのだ。相手は学内のアイドル。アイドルに思いを寄せるのは美人から不細工まで幾多の女と、たまに男。しかし武藤流の隣に立てるのは、頭の先からつま先まで上等な人間だけ。しかもその人間は不特定多数いるとの噂で、実際たまに学内で目にする武藤流の横を歩く人間は一定ではなかった。一定ではないが、やはり誰もが一流の美貌を持っていた。
この恋は叶うことがない。当初、その事に対してショックを受けなかったとえば嘘になる。しかし巷でいうほどの悲哀を感じないのは無意識に働いた防衛本能のお陰か。何かに夢中になりそうな時は大抵そうだ。どこかでブレーキを掛けている。そのブレーキが唯一効かないのは勉強に関してだけ。なぜなら勉強は必ず結果が出るから。分かり易く、打ち込んだ分だけ返ってくる。
世の中の大抵のことはそうではない。思うような見返りが得られるものなどそうはない。それが人間の感情が絡むことならば、特に。私には、見返りのないものにがむしゃらに向かうためのエネルギーは、もうほとんどない。
だから、恋に落ちたというだけで驚きだ。しかし現在は、その時以上に驚くことがたびたびある。それは、これまで幾度もその役目をはたしてきたブレーキの効きが、ことこの恋に関しては徐々に悪くなってきているからだ。
恋心は正に制御不能。叶う事はないと冷静に考える傍らで、上手くいけばいいのにと愚かな妄想をする。あのクレバーな男性が私の恋人となり、いついかなる時でも心地よい会話を交わす権利を持つことができれば、と夢想するのだ。
武藤流に寄せられる好意の大半は、その麗しい外見によるものだという。その気持ちはよくわかる。私も自身の恋心に武藤流の顔面の作りが影響していることは否めない。しかし、私が最も惹かれたのは武藤流の脳だ。たとえば他のだれか、もっと冴えない顔をした男性に武藤流の脳が入っていたら、私はその男性に恋をしただろう。
いっそそうであればよかった。武藤流が、同性はおろか異性の目に留まらない風貌の男であれば。
「武藤君」
「うん」
「私、あなたの顔が疎ましいわ」
「…は?」
「その顔が憎いと言ってもいいかもしれない」
「何…」
「あなたが園田君だったらよかったのに」
「!」
つい、そんなことを言ってしまった。現実逃避も甚だしい。ばつの悪さに合わせていた目線をそらし、下を向く。
園田君というのは武藤流をそういう意味で慕っていると噂される男性の一人で、外見はこれと言って特徴のない、しかし非常に人格者でいろいろと有名な学生だ。彼が同性愛者ではなければ、その容姿にこだわらず彼に恋する女性は多いだろうと思う。園田君には実に失礼な考えではあるが、もし武藤流の脳を持つ園田君がいれば、私の恋はここまで見込のない物にはならなかったはずだ。しかしそんなのは愚かな妄想でしかない。現実で私が恋したのは、たぐいまれなる容姿を持つ武藤流なのだ。
これから告白をしようというのに。いや、だからこそかもしれない、どんどん脳が熱に犯されていき、ブレーキが加速度的に壊れていく。
もうこの恋が叶わないことを、冷静に考えられなくなってしまう。
(そんなのは嫌)
唐突に、気付いた。
私は、自分が今まで思っていたよりも遥かに、この恋が大事だったのだ。だから、この恋心がもっと大きくなり、それ故に冷静さをなくし、恋が、無残で、醜く、見返りを得るどころが私の何かを損ねる恐ろしいものに育つのが恐ろしかったのだ。
だから早く。早く、早く、一刻も早く、この恋を終わらせよう。
このまま壊れたブレーキで、この恋を無残に記憶にする前に。楽しい夢を見るような、そんな最初で最後の恋をしたという事実だけ、美しい想い出として、海馬を経て大脳皮質に永遠の記憶として刻みたいから。
だから。
早く告げよう。
「武藤く」
「式島」
一世一代の儀式をいざ始めようとした瞬間、その主役によって遮られた。想い人ながら、なんともいまいましく思ってしまった。今、波が来ていたのに。軽く口にできる事ではないのだ。心を高潮させなければ言えないのだ。そこまで持っていくのが大変だというのに、持って行ったのに、邪魔をされてしまった。
また想いを告げるまで高めなければならないことに若干の徒労を覚え、そうさせた本人を思わず睨む。
「…っ」
が、そこには。
これまで見たこともない、怒りの表情をした武藤流がいた。
しまった。
よくよく考えてみれば、武藤流は大して親しくもない女にいきなり呼び出され、親切にもやってきてみれば沈黙のまま待たされることしばし。話し出したと思ったら顔が気に入らない、という話題。やはり私はもう冷静ではない。
確かにこの恋は見込みのないものだけど、何も自分でその成功率を限りなく0%まで下げることはなかったんじゃないだろうか。いくらブレーキの壊れた恋心でも、これはひどい。ひどすぎた。とりあえず謝罪しよう。
「あの、武藤君」
「駄目だ」
「え?」
「駄目だから、園田なんて」
「武藤君?」
「絶対認めない、今更…」
何の話だろう。園田君がだめとは、どういう意味だろうか。というか謝罪…。
「武藤君、あの」
「今更!」
武藤流の腕が、私の背中に回る。私たちの間にあったはずの1メートルの距離は、あっという間になくなった。
「離してって言われても駄目だから。俺は、式島を離す気ない」
肺が圧迫されるほどきつく、武藤流の腕が私を締め付けている。現状が理解できない。きわめて近い位置で耳から流れ込む武藤流の低い声が理解できない。何が起こっているのか。
「絶対、逃がさないから」
なぜ武藤流は私を抱きしめているのだろう。いや、これは抱きしめているのだろうか?もしかした長時間立ちっぱなしでいたために眩暈がして私に寄りかかっているとか。もしくは先ほどの私の発言に怒りを感じ、仕返しに私を痛めつけるため、腕を回しているのかもしれない。それとももしかしたら武藤流はこのような体制でないと話せないのかもしれない。馬鹿な。いままで普通に向かい合って話てきたのに?というか先ほどの謝罪は。ああもう、思考がまとまらない。現状を把握できない。脳に血が上がっている。とりあえず今私の顔は赤くなっているに違いない。それはそうだ、理由はともあれ好きな相手の腕の中にいて、赤くならない人間がいるだろうか、いやいない。いるわけがない。
「む、武藤君」
「なに」
「離してくれるかしら」
「嫌だ」
「武藤君!」
「逃がさないって、いっただろ」
「逃げないからとりあえず離して!」
しばしの沈黙の後、ゆっくりと解放される。
彼は腕を離した瞬間、私が逃げるとでも思っていたのだろうか。
だとしたら、大正解だ。
解放された瞬間、扉に向かう。この赤く染まっているだろう顔を見られるのは、あまりにも恥ずかしい。
この狭い個室では、すぐに扉にたどりつくはずなのに、妙に遠く感じる。早く、あのドアノブに手を。
しかし。私が逃げる相手は武藤流。顔よし頭よし運動神経よしの学内のアイドル。いかにスタートダッシュを切ったところで、頭でっかちで運動が得意でない私が逃げ切れる相手ではなかった。そんなことも予想できなかった私は、馬鹿かもしれない。あんなに勉強しているのに、この瞬間には何の役にも立たないことがすこしショックだ。
呆気なく腕をつかまれ引かれる。それに抵抗するが勝てるはずもなく、より強い力で引っ張られその勢いのまま机に倒れた。
ガシャァン!という音とともに背中に軽い痛みが走る。
「いっ…」
「やっぱり、逃げた」
痛みに瞑った目を上げれば、今までにない程至近距離に武藤流の顔があった。きめ細かい肌、二重の切れ長な目、高く筋の通った鼻、形の良い唇。私の顔の両側に手を付き、伸し掛かるような体勢。
それらを意識した途端、また急激に体温が上がったのが分かる。顔の色は、言わずもがな。急いで離れようと両手で武藤流の胸を突っ張るも、逆に片手で頭上にまとめられる。
「顔が赤い。怒ってる?それとも、照れてる?」
見透かされている?
その言葉に、顔がさらに赤くなるのが分かった。これ以上血が上ると倒れるに違いない。
「式島も照れたりするんだ」
「やめ…」
「いつもの式島じゃないみたいだな。こんな風にされるのは初めて?」
当たり前だ。今この瞬間の、このアクシデントさっさと終わらせたい。
「でもさ、そんな顔して男を見るなんて…」
「離し」
「もっと勘違いさせたいの?」
勘違い?何が?何を?
不可解な言葉に一瞬頭を悩ます。しかし、血が上った頭で何も考えられない。頭が全く働かない
視界には、目。武藤流の目。今まで見た事のない色を宿した目。その目になぜか息苦しさを感じる。
「…俺、うぬぼれてたよ。式島が見てるのは、俺だって思ってた。まさか園田だったとはね」
唐突に始まる話。やはり内容は理解不能。私が今理解できるのは、武藤流の目が私を射抜いていることだけ。
「でも、だめだから。俺、式島を諦める気ないから。絶対…振り向かせるから」
「何の、話か…」
「この期に及んで…っ。好きなんだろ、園田が!」
『好きなんだろ、園田が』
うまく働かない頭に、その台詞だけは妙にクリアに入ってきた。
「私が好きなのは」
そうだ、私が今日武藤流を呼び出したのは何のためだったか。
好きなのは。
「武藤君」
武藤流だけだ。
「…え?」
「だから、私が好きなのは、武藤君」
「だって…さっき」
「武藤君がなんのことを言っているのかわからないけど、私が好きなのは武藤君」
不思議と、先ほどのように赤面は収まっている。今の私は、とにかく明確にはっきりと、自分の恋心を武藤流に伝える為だけに動いている。
「武藤君が、好き」
言えた。ようやく、言えた。
先ほどまであれほど頭に血が上り冷静になれなかったのに、今は慌てることなく武藤流の目を見ることができる。
「好き」
思いを伝えることが、できた。
目の前の武藤流の顔が、急激に赤くなっていく。
「え、だって、俺、園田、あれ?」
「あの、そろそろ離してもらえるかしら」
「あ、え、ごめん!」
ようやく解放される。つかまれていた両手首を見ると、少し赤くなっていた。擦っていれば痛みはとれるだろう。
「じゃあ、そういう事だから」
目的は果たした。今度こそドアに
「ってオイ!」
またしても、腕をつかまれる。今度は軽く。
「なんで帰るの?!」
「だって、もう用はないから」
目的は果たしたし。
「いやいやいや、え?あれ?俺、さっき言ったよね?」
「?」
「だから、俺は、…俺も…」
ますます赤く武藤流の顔。またしても理解不能だ。私はもう冷静なはずなのに。なぜ?
「何?」
「…だぁーーーーっ!!何でそんなに冷静なの?さっきまでの式島はどこに行った?あれ、俺の幻覚?幻聴?式島俺の事好きっていったよね?!」
「言ったわよ。私、武藤君が好」
「あああああ、わかってるわかってるから!もう言わないで!」
「?そう。じゃあ帰るわね」
「だーかーらー!何でそうなるの!もしかしてわざと?式島わざとやってる?さっきの仕返し?!」
「武藤君」
ふぅ、とため息をひとつ。
「何の話か要領を得ないわ。まとめてから話してくれるかしら」
ピキ、と固まる武藤流。その好きに腕を外す。しかしそれも一瞬の事。
「だっかっらっ、なんっでそんなに冷静なの?好きなんだよね俺の事?あれ嘘じゃないよね?!」
「嘘じゃないわ。私、武藤君が好きよ」
「うっ…、あの、だから、式島、俺…、俺、も…」
なにやらぶつぶつ言っている武藤流。
ピンときた。武藤流は優しい。人を気遣い、人の機微に敏感な男だ。つまり武藤流は今、必死で考えているのだろう、私を傷つけない言葉を。それならば。
「武藤君、いらないわよ」
「え?」
「返事」
既に分かっている結果は必要ない。そのために武藤流が悩むのも本意ではない。考えてみれば、下手な返事を貰わない方がこの恋を綺麗に終わらせられるというものだ。だから。
「返事はいらないわ。だから、帰るわね」
瞬間。またしても腕をひかれ、至近距離に。
「なんで」
「え?」
「何で返事、いらないの」
「だって、わかっているから」
「何を」
至近距離で注がれる、武藤流の視線、声。先ほどまでの何やら慌てた様子はどこにもない、真剣な様子だ。
そんなに私に言わせたいのだろうか。あなたは私を好きではないだろうから、断りの返事はいらないと?
それは嫌だ。そんなことをしたらこの恋は無残に終わる。そうはしたくない。
「武藤君は、酷いわね」
「何が」
「残酷といってもいいわ」
「それはある意味式島だ」
「私?」
「式島」
私のどこが残酷なのだろう。そんな振る舞いを武藤流の前でしたつもりはなかったが。
「式島」
「何かしら」
「絶対わかってないと思うから、言う」
「?どうぞ」
「俺、式島の事、好きだ」
…え?
「式島が好きだから、付き合いたい。恋人になりたい。こうやって」
ぎゅ、っと、また、距離が0になる。
「いつでも抱きしめる権利が欲しい」
頭が沸騰する。これは現実か、夢か。妄想かもしれない。どこから?いつから?でももしこれが夢なら。
「夢なら醒めないで…」
「夢じゃない。俺達、今から恋人だ」
これは夢じゃない。夢じゃない。夢じゃない。
夢じゃないなら、私の恋は。
「武藤流」
「なんでフルネーム?」
「私の事が好きなの?」
「ああ。好きだ」
「武藤流は、式島碧が好き?」
「だからなんでフルネーム。面白いけど」
「答えて」
抱きしめられている。武藤流の笑い声が耳に届く。顔を見なくても、武藤流が笑っているのが分かる。
「武藤流は、式島碧が好きだ」
ああ、今、私の脳からドーパミンが大量に放出されている。
尋常ではない量がA-10神経に乗って駆け巡り、自律神経を介して心拍数を上げ、脳に快感を生み出している。武藤流を想っているだけで上昇した心拍数は、今新記録を打ち立てているだろう。もはやセロトニンなどその存在さえないかもしれない。ブレーキは確実に壊れた。
私の恋心は、叶ったのだ。
もうかすかな存在となってしまった冷静な私が、それでいいのかと最後通牒を突きつける。
この恋を、美しい片思いの記憶として大脳皮質に刻むことはもうできないかもしれない。
今後、醜く無残な記憶と成り果て、最低に最低な記憶となるかもしれない。
それでも、そうだとしても、欲深い私はこの恋をここで終わらせるなどできない。
だって今、私は。
この恋が叶った瞬間から、私は。
最高に幸せだ。
まったく恋愛など、恋心など、最高に厄介で、最高に、最高に、最高だ。