彼の名は、及川隼人。
「あのっ!」
美咲の声が、真っ白で病院のそれのような廊下にこだました。
ボクサー男が振り返る。彼女の目をほんの少し上の場所から、バッチリ彼の視線が捉えた。
「俺のこと呼んだの?」
(うわ......)
男の顔を見て、美咲は怯んだ。
目鼻立ちは整っていて、本当に刑事らしくない、いわゆる女の子受けするルックス。
しかし、それは重要視されるべき事柄ではない。
(な、なんか目元とか、特に......)
……そう。どことなく、自信に満ちているような表情。そして時折覗く、目の奥に隠された嗜虐性。
(話しかける相手、ミスったかも......)
無機質な廊下を、さらに乾いた沈黙が満たしていった。
「おい?」
再び聞こえた男の声に、彼女は我に帰った。
「あの、捜査一課第一係ってどこですか?」
抗えない居心地の悪さ。思わずため息がこぼれそうになる。
「こっち」
「え?」
ポカンとした声を漏らした美咲に、男はふっと笑った。
(あーあ、俺様特有の笑い声だよ......)
「ついて来な。案内してやっから」
そういうと、彼は一歩踏み出す。よくみると、ファッションにも隙がない男らしい。
決して主張しない程度に、でも適度に彼を引き立てている、そんな服装。
(自信過剰家のやりそうなことね)
なぜだろう。彼に対して抱く第一印象は、美咲自身戸惑うほど悪い。
「道順だけ教えてくだされば、あとは一人で行けるんで大丈夫です」
そう言ってみても、男は何も言わない。
(何か言いなさいよ.......)
彼女の苛立ちが募る。しかし男は気づいているのか気づいていないのか、彼女を無機質な廊下の奥へいざなう。
「何て言うの?」
かといえば、急に声をかけられた。
「はい?」
ぽかんとした
「名前。なんて言うの?」
「あ、青山...美咲です」
返事を聞いたら聞いたで「ふうん」の一言で終わり。
「あの...あなたは?」
「及川。及川隼人」
「あの、それじゃあ及川さん、道順だけ...」
教えてくださればと言う言葉は、彼の言葉で消えた。
「青山、あんた渋谷署から異動で来たの?」
「あ、はい...…」
なんだなんだ。この教師と二人っきりで歩く生徒のような気分は。それからなんでこいつは渋谷署出身だと言うことを知っているのか。しかもいきなり呼び捨てか。
「あんたも、及川、でいいから。どうせおんなじ部署だしな」
彼の言葉の意味を認識するのに、彼女は数秒の時間を要した。