序
日付が変わる寸前の渋谷は、活気に満ちていた。飲み会帰りの男たちやОLが、街のあちらこちらにいる。
……少し、飲みすぎたかな。
ぼんやりと考えながら、美咲は酔いの混ざった笑い声が時々聞こえてくる通りを歩く。
4月。少しずつ夜の空気が気持ちよくなってきた。
ネオンに照らされた街。頭上のガードから、東横線だろうか、規則的に線路の継ぎ目を踏む音が聞こえてくる。
そんな夜の繁華街を、彼女は少しふらつく足で歩く。
青山美咲。26歳。刑事。
170センチ前後と女にしては高い身長に、やや上がった口角、パッチリ澄んだ大きめの瞳。肩下に程よく伸ばした髪は、今日は結っていない。そのため、春の夜風が吹くたびにかすかに揺れる。
……今日は彼女の昇進祝いだった。刑事の昇進の条件となる試験を、彼女は見事パスしたのだ。巡査部長から、晴れて警部補へ。26歳で警部補なら、優秀と言って差し支えないだろう。
しかし、それだけではなかった。昇進と同時に彼女は異動を命じられたのだ。今まで4年間勤めてきた渋谷署からの異動先は…本庁だった。
当然、周囲は湧いた。彼女も驚いた。「喜び」という感情が浮かんできたのは、しばらくたってからだ。
警視庁本庁捜査一課、第1係。
そう。本庁の捜査一課といえば、刑事の花形である。
彼女は今日づけで、「刑事の花形」の仲間入りを果たした。
……大型トラックが通り過ぎて行った交差点の電柱に、男が寄り掛かっている。
……酔いつぶれたのかしら?
信号待ちをしながらちらりとそちらを盗み見ると、酔いつぶれているのは案の定美咲よりも年下の男らしい。
介抱しているほかの男たちの会話が漏れ聞こえてくる。
「やっぱ入社したてだもんな」
ああ、四月だな―――
桜の花が開きだすこの季節、4年前の今日の自分はガチガチに緊張していたっけ。
あの頃の自分を思い出しながら、彼女はふっと眼を閉じた。
この世界に飛び込みたての頃は、刑事という職のあくの強さになかなかなじめなかった。直属上司の係長に怒鳴り散らされたこともあった。
でも……
だからこそ、今の自分がいる。
眼は閉じているのに、彼女の頭の中では走馬灯のように過去の事が思い出される。
厳しくも彼女を見はなさなかった係長。
いつも彼女を姉のように慕ってくれた年下の女の子たち…...
とろくても、憎めなかったおととし入庁した男の子……
そんな彼らと食事をするのは、今日が最後だろうか。
どちらにしろ、この環境で仕事ができるのは、今日で終わりだ。
信号が変わったようだ。途絶える車の音。一瞬生まれた静寂の闇に、間の抜けたメロディーが流れる。
美咲は閉じていた目を開いた。
目を閉じていたからだろうか、青信号がいやにぼやけて見えた。