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水槽

作者: 凍頂桂花
掲載日:2026/06/02

 ある日の夕暮れ時、私は一人で森の中を駆けていました。季節は冬に近づき、辺りの木々の葉は色あせ、地面に大量の枯葉を散らしていました。頬を過ぎる風は冷たく、私は詰襟の上に着た外套の襟を手繰り寄せ、襟巻をきつく締め、学生帽を目深にかぶって走っていたのです。

 それというのも、今晩は大手製糸会社の会長が我が家にいらして晩餐を楽しまれるにもかかわらず、私は大学の図書館で外国の面白い小説を見つけ、読みふけるうちに時を忘れ、出迎えの時刻に遅れそうになっていたからでした。

 私の父は繰糸機の製造会社の社長を務めており、今日の会食次第では大口の受注が得られるかもしれないと期待に胸を膨らませていました。父、母と共に私も同席し、会長ご夫妻をおもてなしすることになっていたのです。

 私の家の裏手には広大な森林地帯が広がっていました。普段はその森を避けて遠回りして家の正門へ向かうのですが、幼い頃から森で遊びなれた私は森を突っ切って家の裏門に出る近道を知っていました。ですから、その道を通れば十分ご夫妻の出迎えに間に合わせることができるはずでした。

 ところが奇妙なことに、見慣れたいつもの道は見つかりません。走っても走っても同じ所をぐるぐる回っているようで、一向に裏門どころか森の出口も見当たらないまま辺りは闇に包まれていきました。もうとっくに会長ご夫妻はお着きになって、食事を始められているに違いない。私は晩餐に遅刻するという失態に恥じ入り、近くの木の幹に腰を下ろしてしばらく頭を抱えました。

 そんな時急に強い風が吹き、私は頬に当たる風の冷たさに驚いたのです。そして、風に舞い上げられた枯葉のかさかさという音の中に、気味の悪い鳥の声や獣の遠吠えが混じっているのに気が付きました。私は我に返りました。この状況下で一番心配すべきは我が身の安全でした。この夜の外気の冷たさの中で一晩過ごすのは厳しく、その上森の中には危険な猛獣がいるかもしれないのです。  

 私は焦って無我夢中で走りました。とにかく早く森を出たい一心でした。木々が開けて一本の道のようになっていたため、私は誘い込まれるようにその道をたどっていったのです。

 すると、一軒の小屋を見つけました。木造の古めかしい作りでした。これでとりあえず一晩は凍えず過ごすことができると安堵しました。恐らく木こりが仕事のために使っている小屋か何かなのでしょう。森の風鳴りがうめき声のように響く中、私は小屋に近づいてゆきました。


 戸を叩いて、

「すみません。道に迷ったもので、今晩この小屋で暖を取らせていただきたいのですが」

と尋ねても返事はありません。私は恐る恐る引き戸を開け、中を覗き込みました。何も見えません。闇と静寂が小屋の中を支配していました。

 私はおずおずと足を部屋の中に踏み出しました。しかし、そこには床がなかったのです。体勢を崩し、闇の中へと倒れ込んだ次の瞬間、激しい水音と共に私の身体は水中へと沈みました。

 驚きのあまり大量に息を吐き出してしまい、私は残り少ない酸素を体内に留めようと必死に息を止めました。

 一体何が起こっているのでしょう。

 どうしてこんな小屋の中に深い水が蓄えられているというのでしょう。

 そして、その水の冷たいこと。身体の芯まで凍りつくようです。

 私は両手をかいて水面に上がろうともがきました。しかし、もがけばもがくほど身体は下へ下へと沈んでゆきます。 

 苦しみの中、何とか呼吸を止めようと両手で鼻と口を覆いましたが限界でした。わずかな空気を一気に吐き出すと、鼻と口の中に水がどんどん入り込み、気道がみるみる塞がってゆきます。

苦しい、なんとか水から這い上がって呼吸をしたい。その一心で必死に手をかいても、身体は底があるのかも知れぬ深い水の中へとゆっくり落ちてゆきます。


 苦しい。一体どうすればいい。誰か助けて—―――。


次第に視界は薄れ、指先を空へと伸ばしたまま、私は意識を失いました。



 目を覚ました私は、木の床の上に倒れていました。目を開けた瞬間感じたのは、全身を覆う冷たさと微かな浮遊感、そして柔らかく身体を押しつぶす圧力。この感覚はまさか……。

 視線を上げると一匹の魚が私の頭をかすめるようにして泳いでゆきました。

 水です。私はまだ水の中にいるのです。

 上半身を起こして辺りを見回すと、ここは水がいっぱいに入った木造の部屋でした。私の目の前を、おびただしい数の銀の魚が通り過ぎてゆきます。

 四方の壁は焦げ茶色の木板でできているのに、水が漏れる様子はありません。四つの壁の幅はそれぞれ二十尺 (約六メートル)といったところでしょうか。

 私は自らの置かれた異常な状態に困惑しました。なにより奇妙なのは、私が窒息もせずに水中にたたずんでいられることでした。鼻と口を水が通り抜けても、苦しいと感じないのです。呼吸できているのでしょうか。全身が水に浸かっている状態では、自分の身体の感覚がよく掴めません。耳には水中に潜った時と同じく、くぐもったようなぶぉーという音が響いていました。

 上の方へ目をやると、薄暗い水底とは対照的に、水面にはまぶしい白い光が揺らめいていました。もう夜が明けているのでしょう。床から水面までの高さは三十尺 (約九m) くらいでしょうか。

 銀の魚の群れは、水面の波打つ光の元へと円を描いて昇ってゆきます。水面の白い光は一方向、左側から差し込んでいました。恐らく左手に私が開け放した小屋の戸があるのでしょう。

 どうやらあの小屋には床がなく、入るとこの水槽のような部屋に落とされるようになっているようなのです。

 私はあの光の元から、この凍える程冷たい、暗い水底へと落とされたのです。

私は部屋の隅に三つの人影を認め、恐怖と驚きで背筋を震わせました。

本来ならば、自分の他に仲間がいたと安堵するのでしょうが、そう感じることができない程三人の姿は異様でした。

 一人は藍染の着物に襟巻を巻いた若い女性でした。自らの肩を抱きかかえるようにしてしゃがみ込み、首をがくりと下へ向けてうなだれていました。目や表情にまるで生気がありません。

 もう一人は黒い外套を着た身なりのいい壮年の男性です。腕を組んで仁王立ちし、中空を見上げています。姿勢や顔立ちからはいかめしさを感じるものの、女性と同じくうつろな表情をしていました。

 二人とその目に何も映していないようで、私の存在に気付いた様子もありません。やがて、二人ともゆらゆらと部屋の中を歩き始めました。

 一番気味が悪いのが、もう一人の老人でした。傷と破れだらけの古びた灰色の着物を身に着け、手拭いを首に巻いていました。やはりうつろな目をして口をぱくぱくさせ、首を揺らしながら歩き回っていました。そして、時々壁に口を付けては、木の壁に生えた藻を食べているのです。 

 私は怖々と外套を着た男性に近づき、この部屋のことを尋ねようとしました。しかし、口からはごぼごぼという音が漏れるだけで言葉は出てきません。男性はそんな私など目にも入っていない様子で、どこへも焦点が合っていない目で部屋の中を徘徊していました。他の二人も同じでした。

 これは本当に人間なのでしょうか。私の姿が視界に入っても何ら心が動いている様子がありません。目の前の現実を認識していないようです。そして、夢遊病者のように生気なく機械的にただ歩き続けているのです。

 私はそんな気味の悪い様子にぞっとし、早くこの三人から離れたいと慌てて出口を探し始めました。しかし、部屋の中には出口や窓は一切ありません。唯一の出口はあの三十尺上の私が入った戸しかないようでした。

 私はまず、泳いで水面まで上がれないものかと考えました。しかし、床を強く蹴って飛び上がろうとしても、ゆっくりと水底に引き戻されます。この部屋の水にはまるで浮力がないのです。そうでなければ、人間が床を歩き回ることなどできないでしょう。

 目の前を十数匹の魚が横切っていきました。あの魚たちは水の中を自在に泳ぎ回っているのに。魚の群れが銀の身体を輝かせ上空の光へ昇っていくのを、私は恨めしげに見上げました。

 次に私は、木の壁をよじ登ろうとしました。ところが、周囲の木板には足をかけられるような継ぎ目一つありません。そんな大きな木があろうはずもないのに、四方の壁はそれぞれ一枚の板でできているのです。その上、壁の表面は木板と同系色の藻で覆われていました。爪と足を壁にかけても藻のせいで床に滑り落ちます。

 水で腐食してもろくなっているのではないかと思い、穴を開けようと木の壁をいくら蹴ってみてもびくともしません。穴どころかくぼみ一つできる様子がないのです。

 私は四方の壁を回っては蹴ったり叩いたりして、足や手をかけられる所を探しました。視界に三人の異様な姿が目に入るたびに不安が募ります。この部屋に居続けるとあの三人のようになってしまうのでしょうか。焦りからすっかり動転した私は狂ったように走り回り、四方の壁を蹴って叩き続けました。

 そうする内に、頭上の白い光が弱まり始め、部屋の中が闇に包まれてゆきました。日が沈んだのです。  

 この不気味な部屋に一人落とされ、一体どうしろというのでしょう。一体どうすれば這い上がれるというのでしょう。私は途方に暮れ、人ではないような三つの影がうごめく中、部屋の隅で膝を抱えて眠りました。



 翌朝目を覚ますと、すべては悪い夢だった、などということはなく、私は落胆しました。私は相も変わらず水の入った木造の部屋に居ました。大量の魚たちが優雅に目の前を泳いでゆき、昨日と同じように三人の人物が部屋の中を徘徊していました。

 起き上がる気になれず、横になったまま三人の姿を少し眺めました。

 昨日と同じく、藍色の着物の女性は自らを哀れむように、時々自分の肩を抱きかかえてしゃがみ込み、うなだれていました。はたから見れば嘆き悲しんでいる姿に見えるものの、その目と表情はうつろで、何の感情も読み取れません。しばらくすると立ち上がって部屋を歩き回り、少しするとまた同じ姿勢でしゃがみ込みます。機械的に同じ動作を繰り返しているようなのです。

 黒い外套の男性も同じでした。時折両腕を組んで立ち、ふんぞり返るように上体を反らせて中空を見上げた後、床のあたりを見下ろしています。その目や表情に生気はありません。しばらくすると部屋を歩き始め、またしばらくすると同じ姿勢で床を見下しているのでした。

 灰色のぼろぼろの着物を着た老人も、やはり首をゆらゆらと揺らしながら口をぱくぱくさせ、焦点の定まらない目をして部屋を徘徊しています。そして、壁の藻にかじり付いては歩き、かじり付いては歩き、を繰り返しているのでした。

 三人の姿を見ると気が滅入りましたが、昨日の混乱からは少し落ち着きを取り戻していました。周囲の壁からゆっくり視線を上空の光へと動かしていくと、どうあっても届かない高さであるようには思えないのです。それに、私がここにいるのに他の誰かが気づいて引き上げてくれる可能性だってあります。

 私は昨日と違い、冷静に足をかけられそうな場所を探し始めました。三人の姿は目に入れないように努めました。木の壁の脆そうに見える所を叩いては蹴り、叩いては蹴り、登るための足がかりを少しずつ作ろうとしました。しかし、やはり壁は頑丈で穴どころかくぼみさえ作ることができません。

 そうしている間にも魚たちは部屋中を泳ぎ回り、すぐ傍を通り過ぎるたびに水が揺れ、ごおっという音が耳に響きました。長時間繰り返すと身体に疲労が押し寄せてきます。それでも、きっと何か這い上がる手段があるはずなのです。

 結局、何の収穫もないまま頭上の白い光は消えてゆき、外套の襟を手繰り寄せて膝を抱え、私は床の上で眠りにつきました。


 次の日も私は辛抱強く足がかりを作ろうとしました。しかし、少しずつ焦りが襲ってきました。何度壁を回ろうと、這い上がる足がかりさえ見つからないのです。その上、空腹感が無視できなくなっていました。この部屋に落ちて以来、自然と飲み込むこの部屋の水しか口にしていなかったのです。

 そして、水圧のせいでしょうか。息ができないなどということはないのに、胸と首の間に圧迫するような重苦しいものが常にあって、そのせいで何をしていても苦しいのです。

 私は苛立ち爪先を強く叩きつけて壁をよじ登ろうとしましたが、すぐに爪と足が壁から滑り落ちてしまいます。何度か繰り返すうちに右手の人差し指の爪がはがれてしまいました。激痛のあまり、痛い、と言葉にならない声で叫ぶと、私は指を抑えてしゃがみこみました。

 激痛と無力感の中で私は部屋の中を見つめました。魚たちは部屋を縦横無尽に泳ぎ回って三つの影の間を抜け、銀の鱗に陽光を反射させながら白く波打つ光の中を力強く泳いでゆきます。癪ですが、美しい光景です。それをぼんやり眺めていると、遠い日の記憶が蘇りました。


 それは十歳になるかならないかの頃、父と二人で山へ釣りに行った時のことでした。

 父は仕事に生きる人でした。私が生まれる数年前、父は繰糸機の製造会社を設立し、自ら開発した新しい繰糸機の販売を始めました。性能の良さから徐々に父の機械を使用する製糸会社が増えていき、第一次大戦の特需と復興需要によって我が家は財を成しました。恐慌を経ても、その富に陰りが差すことはありませんでした。

 父は仕事熱心の厳格な人で、息子の私にも父親らしいことはろくにしてくれませんでした。しかし、ある晴れた夏の休日、父は私に山へ釣りに行こうと誘ってくれたのです。 

 二人でどこかへ出かけるのは初めてでした。柔らかな陽光が木々の間から差し込む中、私と父は釣り竿とブリキのバケツを抱え、山道を並んで歩きました。父と同じ長さの釣り竿を持たせてもらえたのが誇らしかったのを覚えています。父はいつもと変わらぬいかめしい表情をしていました。会話はなく、川のせせらぎと鳥や虫の声が穏やかに私たちを包んでいました。

 川辺に着くと、岩の上に腰掛けて二、三メートル下の川に向かって釣り糸を垂らすことになったのですが、私は大はしゃぎでとてもじっとなどしていられません。岩の周りを飛び回り、結局川に落ちてしまったのでした。泳いで川岸に上がると、父が岩の上に立って笑っているのが見えました。いつも厳しい顔つきの父の笑顔を見たのは、その時が初めてでした。


 私は指を押さえて部屋の隅にしゃがんだまま、頭上の白い光を見上げました。きっと届くはずなのです。あきらめさえしなければ、きっとあの光の下へ行けるはずなのです。腹が鳴ったのを感じました。

 私は空腹をごまかそうと両手で腹を押さえつけました。その日、女性も壁の藻を食べるようになっているのに気が付きました。



 次の日、私はもう立ち上がることができませんでした。横になっても強い空腹が押し寄せてきます。私は空腹感をまぎらわそうと両手で腹を押さえ、身体を丸めました。精神的な疲労も積み重なっていました。

 何を何度試みようとも、ここから抜け出すための足がかりさえ見出せないのです。気力でどうにかできる次元ではなく、物理的に這い上がる術がないのです。

 空腹だと思考が暗く沈んでゆきます。惨めさが押し寄せてきます。涙が流れているのでしょうか。水の中ではそれすらわかりません。

 私は横になって膝を丸めたまま、顔を上へ向けて水面の白い光を見上げました。

 あの届きそうで届かない光は一体何なのでしょう。この薄暗い水の底から見るあの光はまばゆく、両目を焼いてしまいそうなほど強い光を放って見えます。

 ああ、あの光の向こうでは皆が当たり前の日常を送り、家族や友達、親しい人々と幸福な時を過ごしているのです。この暗く冷たい寂しい部屋と違い、外の世界は暖かな光に満ちているのです。それなのに、どうして私はその光の下へ行くことができないのでしょう。けっして手の届かないあの光が恨めしくて仕方がありません。

 そして、無視しようとしても、三つの影が否応なしに視界に現れて来るのです。老人はしょっちゅう壁に口を付けては藻をかじっていました。男性も時々壁の藻をかじるようになっていました。男性も女性も老人も生気のない一定の足取りで歩き続けており、その気味の悪い振動を床伝いに感じます。

 その振動がまるで時計の秒針に追い立てられているかのように感じられ、私の焦燥感は一層募るのでした。

 三人の中でも特に、古い傷だらけの着物を着た老人を見ると気が沈みました。老人は壁から口を離すと口をぱくぱくさせて頭をゆらゆらと揺らしながら歩き回っています。おぞましい姿です。老人を見ていると、自分はもうどうにもならないのではないかという不安が押し寄せて来るのでした。

 この部屋に助けが来るはずがないことも悟り始めていました。手を差し伸べられることはなく、自ら這い上がるしかないのです。それなのに、何をどうすべきかまるで見当が付きません。

 絶望感と無力感の中で、腹の奥からふつふつと怒りが湧き上がって来るのを感じました。

 何故私がこんな所へ落とされなければならないのか。私が一体何をしたというのか。この世界の不条理に対して激しい怒りがこみ上げて来ます。

 私は膝をぎゅっと引き寄せると、強く握った右のこぶしで床をだんっと一度殴りつけました。

 やがて夕暮れ時となり、薄暗い室内は徐々に黒い闇に沈んでゆきました。



 翌朝目を覚ますと、老人がいなくなっていました。部屋を見回しても所持品一つ残っていないのです。もしかしたら、老人は何か出る方法を見つけたのかもしれません。私の胸にわずかな希望が湧いてきました。

 私は壁に口をあてて藻をかじっている女性を尻目に、再び出口と足がかりを探し始めました。出る方法がきっと何かあるはずなのです。最後の力を振り絞り、力強く壁を蹴り、叩いては爪を立てる場所を探しました。やがて私は外套と革靴を脱ぎ、手足の爪を突き立てて壁を登ろうと苦闘し始めました。

 やはり藻で滑り、爪は木の板を捕らえることができません。けれども、繰り返し爪を立て続ければ、やがて藻は削れ、その奥の木を穿つことができるはずなのです。

 私は躍起になって爪を立て続けました。両手両足の爪から血があふれ出していました。何本かの指の爪がはがれていました。しかし、どれだけ繰り返しても私の爪が壁を捉えることはありません。

 登ろうとすればするほど、どんどん頭上の光が遠のいていくように感じられました。滑り落ちる度に、身体が深海へと静かに沈んでゆくような、無力感と絶望感に襲われるのです。気力と体力に限界が訪れていました。

 疲労困憊した私は、床にしゃがみ込みました。暑さのあまり、詰襟を脱ぎました。私は少し首を回すと、肩を軽く揉みました。

 その時、違和感に気が付きました。

 左の首筋に何か切れ目のようなものがあるのです。

 驚いて首元を手でなぞると、右の首筋にも同じような切れ目があります。怪我でしょうか。いいえ、それにしては痛みはないし、血も出ていません。どうなっているのか見ようとしても、自分の首筋はよく見ることができません。

 視界の隅に女性の姿を捕らえました。私は部屋の中へ視線を移し、女性とその奥にいる男性の姿を見つめました。

 口をぱくぱくしている女性に、藻をかじっている男性、そして、部屋中の魚たち……。

 その瞬間、嫌な予感で身体中に震えが走りました。私は男性に駆け寄って外套の襟もとを広げてみました。

 左右の首筋にぱっくりと開いたえらがありました。

 私は愕然とし、女性の方にも走り寄って襟巻を外しました。やはりえらがあります。私は絶句して後ろに数歩よろめくと、頭を押さえて声にならない叫び声を上げました。嘘だ。嘘であってくれ。絶望に打ちのめされた私は、叫びながら狂ったように部屋中を走り回りました—―――。



 老人が消えてどこへ行ったのかがこれでわかりました。あの老人は部屋から出たのではなく、このおびただしい魚の一群に加わっただけだったのです。

 この部屋で過ごしていると、次第に人は人でなくなってゆくのです。魚になってしまうのです。私が意識を取り戻し、水の中で呼吸ができるようになったのは、私の首にえらができたからだったのでしょう。

 ようやく、私はもうこの部屋を出る術がないのを悟りました。もしあの入口にたどり着いたとしても、私はもう今までのように呼吸することはできないのです。

 川から陸地に飛び上がった魚が呼吸できず死ぬように、私も大地の上で苦しみながら息絶えてしまうのでしょうから—―――。







 気付くと私は壁の藻にかじりついていました。壁から口を離すと、私は力なく床の上に身体を横たえました。

 この部屋に落ちてからどのくらいの時が経ったのでしょう。意識を保っていない時間が増えてしまった私には、もう数えることができません。部屋の中にいる人間は私一人になっていました。

 もう恐怖すら感じてはいませんでした。ただ、私の中の何かが失われてゆくのを感じるのです。水に浸されていながら、私の中の何かが少しずつ干からび、枯れてゆくのを感じるのです。 

 微かな水の流れに身をゆだねながら、私はわずかに顔を上げ、遥か彼方にあるまばゆい白い輝きを見つめました。

 私が私であるうちに、外の世界から差し込むあの暖かい光を、この目に焼き付けておきたいのです。

 そして、光の中でその身をきらめかせて泳ぐ魚たちを見つめながら、もう目にすることのできない遠い日の光景に思いを馳せるのです。

 川に落ちた時に見た美しい魚の群れの行進、水から顔を出した瞬間の目が眩む程まばゆい夏の日差し、そして、その中で穏やかに微笑む父の顔を。



(終わり)

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