あのときの一本
その名前を見た瞬間、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さった。
夕食後の、だらりとした時間だった。テレビは音を絞り、画面だけがぼんやりと部屋を照らしている。私はソファに背を預け、意味もなくニュース番組のテロップを目で追っていた。
――海外スポーツニュース。
無数に流れる見出しのひとつに、その名前があった。
ああ、と、思った。
思い出すより先に、身体が反応した。喉の奥が少し乾き、指先にわずかな力が入る。
子供の頃、テレビの前で正座して見ていたあの試合。日本中が固唾をのんでいた、あの瞬間。
日本人柔道選手が、投げられた。
きれいな一本だった。あまりにも完璧で、反論の余地がなかった。畳に叩きつけられた背中の音が、やけに鮮明に耳に残っている。
そして、その相手。
異国の選手。名前も発音しづらく、当時の私にはただ「強すぎる外国人」という印象しかなかった男。その名前が、いま画面に出ている。
(まさか……)
亡くなったのか、と、ほとんど反射的に思った。
ニュースに出る理由なんて、大抵はそれだ。特に、現役を退いて久しい外国人選手の名前が、いまさら日本のニュースに出る理由など限られている。
私はリモコンに手を伸ばし、音量を少し上げた。
だが、番組は無情にも別の話題へ移ってしまう。政治の話、企業の不祥事、季節外れの気温。画面の中では、アナウンサーが淡々と原稿を読み上げている。
落ち着かない気分で、その「続き」を待った。
どうでもいいはずのニュースが、妙に長く感じる。コップの水を一口飲んでも、喉の渇きは消えなかった。
あの選手は、どんな顔をしていただろうか。
思い出そうとするが、輪郭は曖昧だ。ただ、試合後に見せた表情だけが、妙に印象に残っている。
勝者の顔だった。
歓喜でも傲慢でもなく、ただ当然のようにそこに立っている顔。強い人間だけが持つ、静かな確信。
子供だった私は、それがひどく気に食わなかった。
日本人選手が負けた悔しさ以上に、あの「当然」という顔が許せなかったのだと思う。
努力してきたのはこっちだ。応援しているのはこっちだ。勝つべきなのはこっちだ――。そんな理屈にもならない感情を、子供なりに抱えていた。
だから、その名前は、私の中で少しだけ苦い。
だが同時に、強烈に刻み込まれている。
画面が切り替わる。ようやく、スポーツニュースのコーナーに戻ってきた。
アナウンサーが一瞬、間を置いた。
「続いては、柔道界のレジェンドに関するニュースです」
来た、と思った。
自然と背筋が伸びる。手の中のリモコンを、無意識に強く握りしめていた。
画面に、あの男の写真が映る。
年齢を重ねてはいるが、面影ははっきりと残っていた。あの頃よりも穏やかな顔つきになっているが、目の奥にある静かな強さは変わっていない。
ナレーションが始まる。
『――現地時間〇日、自宅の階段で足を踏み外し、転倒。左足を骨折しました』
私は、瞬きをした。
『――命に別状はなく、全治数ヶ月の見込み。現在は自宅で静養中とのことです』
「……は?」
一拍遅れて、理解が追いついた。
亡くなったわけでは、ない。それどころか、畳の上で戦っていたわけですらない。ただの、日常生活の中の、不注意による怪我。
それだけだ。
たった、それだけのことだった。
「……は?」
一拍遅れて、理解が追いついた。
亡くなったわけでは、ない。怪我をした。それだけだ。
私は、ぽかんと口を開けたまま、しばらく画面を見つめていた。
やがて、じわじわと何かが込み上げてくる。
拍子抜け――というのが一番近いだろうか。胸の奥に刺さっていた棘が、音もなく抜けていくような感覚。
そして次の瞬間、思わず笑ってしまった。
「なんだよ……」
声に出してみると、妙に可笑しかった。
怪我をしただけで、ニュースになる。それも日本の、ゴールデンタイムのニュースで。
どれだけの存在感なんだ、あの人は。あの一本から、一体何年経っていると思っているんだ。
私はソファに深く沈み込み、肩の力を抜いた。
テレビの中では、彼の過去の試合映像が流れている。あの時の一本も、しっかりと含まれていた。
畳に叩きつけられる日本人選手。そして、立ち上がる彼。
あの頃と同じ光景なのに、見え方がまるで違っていた。
悔しさは、不思議と湧いてこない。
ただ、ああ、すごいな、と思う。
こんなふうに、何十年も経ってなお、人の記憶に残り続ける勝利があるのか。怪我をしただけでニュースになるほどの人間がいるのか、と。
私は、ふと自分の人生を思った。
誰かの記憶に、こんなふうに残ることがあるだろうか。名前を見ただけで胸がざわつくような、そんな何かを、自分は持っているだろうか。
答えは、すぐには出なかった。
テレビでは、アナウンサーが締めのコメントを述べている。
「一日も早い回復が望まれます」
私は小さく頷いた。本当に、その通りだ。
亡くなったのではなくて、よかった。ただの怪我で、本当によかった。
私はリモコンを手に取り、音量を下げた。部屋に元の静けさが戻ってくる。
だが、さっきまでの退屈な静けさとは、どこか違っていた。
胸の奥に、ほんの少しだけ、温かいものが残っている。
あの一本の苦さは、もうない。代わりに残っているのは、奇妙な親しみと、少しの敬意だった。
名前もろくに読めなかった、あの外国人選手。
いまでは、ちゃんと発音できる気がする。
私はもう一度、画面に消えゆくその名前を見つめて、小さく呟いた。
「早く治るといいな」
誰に聞かせるでもない声は、静かな部屋に溶けていった。




