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負けた夜に、戻る場所

作者: 星渡リン

 雨の匂いが、アスファルトに薄く貼りついていた。

 終電を逃したわけでも、誰かを待っているわけでもない。私はただ、帰れなかった。帰ってしまえば、きっと自分の弱さが部屋の隅で形を持つ。だから駅前の広場を、意味もなく何周もしていた。


 スマートフォンの画面には、短い通知が一つ残っている。


「今回は見送ります」


 たったそれだけの文。丁寧な言い回しの中に、私の努力が丸められて捨てられた感じがした。

 送信した原稿。練り直した企画。何度も読み返した説明文。全部が、あっけなく“なし”にされる。頭では理解できる。審査がある。枠がある。タイミングもある。運だってある。


 それでも、胸の奥が冷えていくのは止められなかった。


 私は街灯の下で立ち止まり、息を吐く。白くならない程度の夜気が、喉の奥でかすれる。

 人の少ない広場には、コンビニ袋を揺らす酔客と、タクシーを待つスーツ姿が数人。みんな自分の生活へ戻っていくのに、私はどこへも戻れない。


 ふと、目に入るものがあった。広場の端の植え込みに、ひっそり置かれたゴミ箱。その横に、紙の箱が積まれている。片づけられないままの段ボール。上から雨が入り、ふやけた角が崩れている。私の頭の中みたいに。


 何かを捨てたい衝動が喉まで上がった。

 ノートも、ペンも、夢も。ぜんぶまとめて放り込めたら、楽になるのに。


 そのとき、背後で缶が転がる音がした。


 振り向くと、灰色の猫が一匹、ゴミ箱の陰から出てきた。濡れた地面に足を置いても、ひどく慎重な様子はない。猫は私を見るでもなく、段ボールの間に鼻を押し込み、何かを探している。


 都会の猫だ。人間を怖がるより、距離を計るのがうまい。

 私は、猫に向かっても自分に向かっても、声を出せなかった。


 猫が顔を出した。口にくわえているのは、半分つぶれたパンの袋だ。どう考えても食べられたものじゃないのに、猫はそれを引きずる。ずるずると、少しずつ。途中で止まり、また引く。諦めない。ひどくみじめで、ひどく真剣だった。


 私は、なぜか目を離せなくなった。


 猫はパンの袋を植え込みの奥へ運び、何度か前足で押さえた。つぶれた袋がさらにぺちゃんこになる。それでも猫は、口をつける場所を探し続ける。うまくいかないと、首を振って噛み直す。小さく、短く、息を吐く。


 その姿が、笑えるほど必死で、同時に痛々しかった。


 私の胸の奥が、じわりと熱くなる。

 何かが崩れそうで、私は視線をそらした。


 だめだ。

 こんなところで立っていたら、全部出てきてしまう。


 私は歩き出した。雨上がりの夜道を、目的もなく。

 足が勝手に、いつもの方向へ向かっていく。自宅とは反対の、古い体育館のある方角へ。


 そこは、私が中学の頃から通っていたボクシングジムが入っているビルだった。看板は小さく、営業時間の札も色あせている。今では仕事の都合で、ほとんど顔を出せていない。会費だけは払っているのに。


 入り口の前に立つと、胸がきゅっと縮んだ。

 扉の向こうにあるのは、汗とゴムと消毒液の匂いだ。まっすぐに頑張っていた頃の匂い。まだ、負けても立ち上がることが当たり前だった頃の匂い。


 私はインターホンに指を伸ばして、やめた。

 こんな時間に。今の自分で。何をしに来たんだ。


 しかし、背後から鍵の音がした。


「……あれ。お前か」


 低い声。振り返ると、コーチがいた。背広に薄いコート。片手にはコンビニ袋。

 この人はいつも、夜遅くに練習を見に来ていた子のために、スポーツドリンクを買ってきたりする。昔から、変わらない。


「久しぶりだな。どうした」


 私は口を開いたが、うまく言葉が出ない。

 “落ちたんです”と言うのも、“無理でした”と言うのも、どこか薄っぺらい気がした。


 コーチは一度だけ私の顔を見て、何も聞かないまま顎で扉を指した。


「開ける。来い」


 階段を上がり、ジムに入ると、空気が少しだけ温かかった。誰もいない。照明の一部だけが点いている。サンドバッグが影を落とし、リングのロープが静かに伸びている。


「座れ」


 古いベンチに腰を下ろす。コーチはコンビニ袋から紙コップを二つ出し、温かい缶コーヒーを注いだ。甘い匂いが、胸の奥の固いものを緩める。


 私はそれを受け取り、両手で包んだ。指先が冷えていたのだと、今さら気づく。


「で」


 コーチが言う。

 それだけ。続きを促すようで、責める気配はない。


 私は視線を下げたまま、ようやく言った。


「……また、だめでした」


「また、か」


 コーチは笑わない。うなずくだけだ。


「何回目?」


 私は数えようとして、やめた。

 数えたら、どこかで線を引いてしまいそうで。


「覚えてません」


「覚えなくていい」


 その言い方が、妙に優しくて、喉が詰まった。

 私は紙コップを握ったまま、息を吸う。


「自分が、嫌になります。やるって言っておいて、結果が出ない。周りはちゃんと進んでるのに。私は……」


 言葉が途切れる。

 胸の奥で、何かがほどけていくのがわかった。堰が切れる前に止めようとして、逆に止まらなくなる。


「私は、向いてないんじゃないかって」


 声が小さく震えた。


 コーチは缶コーヒーを一口飲み、少しだけ目を細めた。


「向いてないって言葉はな、便利なんだよ」


「……便利?」


「便利。自分の努力も、悔しさも、全部まとめて“仕方ない”にできる」


 私は唇を噛んだ。

 それは、まさに私が今しようとしていることだった。


 コーチは立ち上がり、リングの方へ歩いた。


「立て」


 私は反射で立った。身体が覚えている。

 コーチはグローブを投げてよこす。古い革の匂いがした。


「今日は打たない。立つだけだ」


「立つ、だけ?」


「そう。リングの上に上がって、三分、ただ立ってろ」


 意味がわからない。けれど、私はロープをまたぎ、リングに上がった。柔らかい床が足裏を受け止める。

 リングの中央に立つと、急に自分が無防備に感じた。ここには逃げ道がない。四角いロープに囲まれ、見る人がいなくても、勝手に“見られている”気がする。


「三分な」


 コーチがタイマーを押す。


 カチッ。

 静寂の中で、機械の音だけが鳴り始めた。


 最初の数十秒は、ただ立っているだけでよかった。

 しかし一分が過ぎると、足がむずむずしてくる。早く終わってほしい。何の意味があるんだ。そう思うと、リングが少しずつ狭くなる感じがした。


 逃げたくなる。

 降りて、グローブを返して、黙って帰りたい。


 けれど、ロープの外にいるコーチが、じっと見ている。責めない目で、ただそこにいる。


 私は、視線をまっすぐ前に置いた。

 頭の中に、通知の文がよみがえる。私はそれを追い払おうとするが、逆に大きくなる。


 ふいに、あの猫の姿が浮かんだ。

 つぶれた袋を、何度も噛み直していた。無駄に見えるくらい、しつこく。みじめなくらい、必死に。


 私は小さく息を吐いた。

 もう一度、足裏の感触を確かめる。リングは私を落とさない。今の私は、ただ立っている。それだけでいい。


 二分。

 腕が重い。肩がこわばる。

 身体が、早くやめろと囁く。


 私は、拳を軽く握り直した。

 コーチの言葉が胸の奥で反芻する。


 “便利”に逃げるな。


 三分が近づくと、不思議と心が静まっていった。

 立ち続けるというのは、戦うことの一部だ。打ち合いの前に、逃げないと決める行為。まだ何もしていないのに、確かに自分と向き合っている。


 タイマーが鳴った。

 ピッ、ピッ、ピッ。


「降りろ」


 私はロープをまたいで降りた。

 足が少しだけ軽い。


「どうだ」


 コーチが言う。

 私は正直に答えた。


「……つらかったです」


「だろうな」


 コーチは頷き、紙コップをベンチに置いた。


「つらいってことは、まだちゃんとここにいるってことだ」


「ここに、いる……?」


「心が完全に折れたら、つらいなんて感じない。怒りも悔しさも、何もない。お前はまだ、痛いんだろ」


 私は言葉を失った。

 痛い。確かに痛い。だから逃げたくなる。だからやめたくなる。


 でも、痛いのは、生きている証拠だ。


 コーチは少し間を置いて続けた。


「結果は、すぐには出ない。出ない方が普通だ。出る日が来たとき、お前は“たまたま”だと思うかもしれない。違う。今日みたいな、意味のわからない三分が積もってる」


 私は手の甲で目元をこすった。

 湿っていた。いつからか、わからない。悔しさなのか、ほっとしたのか。どちらでもいい。恥ずかしいほどの感情が、まだ私の中に残っていた。


「……私、また、やってもいいですか」


 声が小さくなる。


 コーチは、少しだけ笑った。

 あの日、初めてジムの扉を叩いたときの、あの表情に似ている。


「質問が遅い」


 その一言で、胸の奥が温かくなった。

 私は頷き、グローブを握り直す。


 帰り道、雨の匂いは薄れていた。

 空は少しずつ白み始めている。夜が終わりに向かっているのがわかる。


 駅前の広場を通ると、植え込みのあたりで、灰色の猫がまた姿を見せた。今度はパンの袋ではなく、何か小さなものをくわえている。落ち葉か、紙切れか。わからない。けれど猫は、それを運びながら、一定のリズムで歩いていた。


 私は立ち止まって、そっと見守った。

 猫がこちらを一度だけ見て、また前へ進む。


 その背中は、誇らしげではない。

 ただ、当たり前のように続いている。


 私はスマートフォンを取り出し、通知を消した。

 消したからといって、傷が消えるわけではない。けれど、傷の上にまた新しい一日を置ける気がした。


 歩きながら、頭の中で次の作業を並べる。

 直す場所。削る言葉。足りない部分。誰に見せるか。いつ出すか。


 遠い。

 簡単じゃない。

 でも、私は今、歩いている。


 東の空が淡く明るくなる。

 街が目を覚まし始める音が、遠くで重なっていく。


 私は小さく息を吸い、胸の中で言った。

 今度は、逃げない。

 次は、少しでも前へ。


 それだけで十分だと思えた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

うまくいかない日が続くと、「自分の努力まで間違いだった」と感じてしまうことがあります。けれど、結果が出ない時間にも、ちゃんと意味のある“積み重なり”がある。今回の話は、その感覚を形にした短編です。


あなたの中にも、投げ出したくなる夜や、立ち続けるだけで精一杯な時間があるかもしれません。もしそうなら、この物語の三分間が、少しでも支えになれたら嬉しいです。

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