夜の底、トラ猫の水槽食堂 ──眠れない夜にだけ開く、小さな癒やしの店
世界がすっかり寝静まった、午前二時。
ふと目が覚めてしまって、もう二度と眠れないような気がする夜。あるいは、今日という一日の疲れが泥のように体にまとわりついて、涙も出ないほど心が乾いてしまった夜。
そんな夜にだけ、その店は路地裏の突き当たりにひっそりと現れるのです。
看板には、ただ一言。『水槽』とだけ書かれています。
ドアを開けると、カランコロンと氷がグラスに当たるような、涼やかな音がしました。
「にゃあ(いらっしゃい)」
カウンターの奥から出迎えてくれたのは、エプロンをつけた一匹の大きなトラ猫でした。
二本足で器用に立ち、ふかふかの毛並みは焼きたてのパンのような茶色。まん丸な瞳は、琥珀色に輝いています。
店内には、他にお客さんはいません。ここは、一度に一人しか入れないお店なのです。
私は重たい足を引きずって、革張りのスツールに腰を下ろしました。
ふと顔を上げると、私は息を呑みました。
この店の壁は、すべてが一つの巨大な水槽になっていたのです。
天井から床まで、ゆらゆらと揺れる青い水。照明は落とされており、水槽の青白い光だけが、優しく店内を照らしています。
コポポ、コポポ……と、エアレーションの泡の音が、子守唄のように響いています。
「……綺麗ですね」
私が呟くと、トラ猫のマスターは「ニャア(どうも)」と短く鳴いて、おしぼりを出してくれました。温かくて、微かにヒノキの香りがします。
水槽の中を、無数の魚たちが泳いでいました。
けれど、普通の魚ではありません。
ガラス細工のように透き通っていて、一匹一匹が、ぼんやりと違う色に発光しているのです。
『ここの魚はね、お客さんのココロだよ』
頭の中に、不思議とマスターの声が響いてきました。
「私の、心……?」
私は水槽を見つめました。
私の目の前を泳いでいるのは、深い藍色の魚たちばかりでした。
海の底のような、深く、寂しい青色。
それは群れをなして、水槽の底の方を、力なく漂っています。
『青い魚は、寂しさ。灰色の魚は、疲れだね』
マスターはそう言って、コト、と私の前にカップを置きました。
見てみると、水槽の隅には、ギザギザした灰色の魚も泳いでいます。
「……私、こんなに寂しくて、疲れていたんですね」
自分でも気づかないふりをしていた感情が、色と形を持って目の前を泳いでいる。
それを見たら、張り詰めていた糸がぷつんと切れて、ため息がこぼれました。
『悪いことじゃないよ。青色は、静かで優しい色だ』
マスターは、温かいミルクティーのような飲み物を作ってくれました。
上にふわふわのフォームミルクが乗っていて、ハチミツが星屑のように回しかけられています。
一口飲むと、じんわりと甘い熱が喉を通り、胃の腑に落ちていきました。
強張っていた肩の力が、湯気と一緒に溶けていきます。
私はミルクティーを飲みながら、ぼんやりと魚たちを目で追いました。
寂しさの青い魚。
疲れの灰色の魚。
最初は「嫌だな」と思いました。こんな暗い色の魚ばかりで。
でも、マスターは言いました。
『見てごらん。水の中だと、その青色はとても綺麗だろう?』
言われて、よく見てみます。
青い魚たちは、水槽の光を受けて、サファイアのようにキラキラと瞬いていました。
寂しさは、孤独かもしれないけれど、誰かを想う静かな時間でもある。
疲れは、今日一日を懸命に生き抜いた証拠でもある。
ゆらゆら。ゆらゆら。
水の中を漂う自分の感情たちを眺めているうちに、不思議と愛おしく思えてきました。
(そっか。私、今はこれでいいんだ)
そう思って、最後の一口を飲み干した時です。
ポッ、と。
水槽の中に、新しい光が生まれました。
それは、小さな小さな、桜色の魚でした。
桜色の魚は、青い魚たちの間を縫うように、元気に泳ぎ始めました。
『おや。生まれたね』
マスターが嬉しそうに髭を揺らしました。
『それは、安らぎの色だ』
桜色の魚が通ったあとは、青い魚たちの色が少しだけ淡く、優しい水色に変わっていきます。
絶望の灰色も、夜明け前の白銀色へ。
水槽全体が、夜の海から、朝焼けの空のような色へと、ゆっくり変わっていきました。
私はほう、と深く息を吐きました。
体は重いけれど、それは嫌な重さではありません。
ふかふかの布団に沈み込むような、心地よい眠気です。
「……マスター。私、もう大丈夫みたいです」
私が席を立つと、トラ猫のマスターは、大きな肉球のある手で、私の頭をポンポンと一度だけ撫でてくれました。
「ニャア(おやすみ)」
店を出ると、夜風が少しだけ優しく感じられました。
あの青い魚たちも、今は私の中で静かに眠っているのでしょう。
家に帰ったら、すぐにベッドに入ろう。
明日の朝はきっと、桜色の魚が起こしてくれるはずだから。
瞼を閉じれば、今でもあのお店の色とりどりの光が見える気がします。
ゆらゆら、コポポ。ゆらゆら、コポポ。
それでは、おやすみなさい。
よい夢を。
来週の日曜夜21時、また開店予定です(予約投稿)。気に入って下さった方がいましたら、また来週ぜひご来店下さい。




