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トラ猫の水槽食堂シリーズ

夜の底、トラ猫の水槽食堂 ──眠れない夜にだけ開く、小さな癒やしの店

作者: さこ丸
掲載日:2025/12/05

 世界がすっかり寝静まった、午前二時。

 ふと目が覚めてしまって、もう二度と眠れないような気がする夜。あるいは、今日という一日の疲れが泥のように体にまとわりついて、涙も出ないほど心が乾いてしまった夜。


 そんな夜にだけ、その店は路地裏の突き当たりにひっそりと現れるのです。


 看板には、ただ一言。『水槽』とだけ書かれています。

 ドアを開けると、カランコロンと氷がグラスに当たるような、涼やかな音がしました。


「にゃあ(いらっしゃい)」


 カウンターの奥から出迎えてくれたのは、エプロンをつけた一匹の大きなトラ猫でした。

 二本足で器用に立ち、ふかふかの毛並みは焼きたてのパンのような茶色。まん丸な瞳は、琥珀色に輝いています。


 店内には、他にお客さんはいません。ここは、一度に一人しか入れないお店なのです。

 私は重たい足を引きずって、革張りのスツールに腰を下ろしました。


 ふと顔を上げると、私は息を呑みました。

 この店の壁は、すべてが一つの巨大な水槽になっていたのです。

 天井から床まで、ゆらゆらと揺れる青い水。照明は落とされており、水槽の青白い光だけが、優しく店内を照らしています。

 コポポ、コポポ……と、エアレーションの泡の音が、子守唄のように響いています。


「……綺麗ですね」

 私が呟くと、トラ猫のマスターは「ニャア(どうも)」と短く鳴いて、おしぼりを出してくれました。温かくて、微かにヒノキの香りがします。


 水槽の中を、無数の魚たちが泳いでいました。

 けれど、普通の魚ではありません。

 ガラス細工のように透き通っていて、一匹一匹が、ぼんやりと違う色に発光しているのです。


『ここの魚はね、お客さんのココロだよ』


 頭の中に、不思議とマスターの声が響いてきました。

 

「私の、心……?」


 私は水槽を見つめました。

 私の目の前を泳いでいるのは、深い藍色あいいろの魚たちばかりでした。

 海の底のような、深く、寂しい青色。

 それは群れをなして、水槽の底の方を、力なく漂っています。


『青い魚は、寂しさ。灰色の魚は、疲れだね』


 マスターはそう言って、コト、と私の前にカップを置きました。

 見てみると、水槽の隅には、ギザギザした灰色の魚も泳いでいます。


「……私、こんなに寂しくて、疲れていたんですね」


 自分でも気づかないふりをしていた感情が、色と形を持って目の前を泳いでいる。

 それを見たら、張り詰めていた糸がぷつんと切れて、ため息がこぼれました。


『悪いことじゃないよ。青色は、静かで優しい色だ』


 マスターは、温かいミルクティーのような飲み物を作ってくれました。

 上にふわふわのフォームミルクが乗っていて、ハチミツが星屑のように回しかけられています。


 一口飲むと、じんわりと甘い熱が喉を通り、胃の腑に落ちていきました。

 強張っていた肩の力が、湯気と一緒に溶けていきます。

 私はミルクティーを飲みながら、ぼんやりと魚たちを目で追いました。

 


 寂しさの青い魚。

 疲れの灰色の魚。

 


 最初は「嫌だな」と思いました。こんな暗い色の魚ばかりで。

 でも、マスターは言いました。


『見てごらん。水の中だと、その青色はとても綺麗だろう?』


 言われて、よく見てみます。

 青い魚たちは、水槽の光を受けて、サファイアのようにキラキラと瞬いていました。


 寂しさは、孤独かもしれないけれど、誰かを想う静かな時間でもある。

 疲れは、今日一日を懸命に生き抜いた証拠でもある。


 ゆらゆら。ゆらゆら。

 水の中を漂う自分の感情たちを眺めているうちに、不思議と愛おしく思えてきました。

 

(そっか。私、今はこれでいいんだ)


 そう思って、最後の一口を飲み干した時です。


 ポッ、と。

 水槽の中に、新しい光が生まれました。


 それは、小さな小さな、桜色の魚でした。

 桜色の魚は、青い魚たちの間を縫うように、元気に泳ぎ始めました。

 

『おや。生まれたね』


 マスターが嬉しそうに髭を揺らしました。

 

『それは、安らぎの色だ』


 桜色の魚が通ったあとは、青い魚たちの色が少しだけ淡く、優しい水色に変わっていきます。

 絶望の灰色も、夜明け前の白銀色へ。


 水槽全体が、夜の海から、朝焼けの空のような色へと、ゆっくり変わっていきました。

 

 私はほう、と深く息を吐きました。

 体は重いけれど、それは嫌な重さではありません。

 ふかふかの布団に沈み込むような、心地よい眠気です。


「……マスター。私、もう大丈夫みたいです」


 私が席を立つと、トラ猫のマスターは、大きな肉球のある手で、私の頭をポンポンと一度だけ撫でてくれました。

 

「ニャア(おやすみ)」


 店を出ると、夜風が少しだけ優しく感じられました。

 あの青い魚たちも、今は私の中で静かに眠っているのでしょう。


 家に帰ったら、すぐにベッドに入ろう。

 明日の朝はきっと、桜色の魚が起こしてくれるはずだから。


 瞼を閉じれば、今でもあのお店の色とりどりの光が見える気がします。

 ゆらゆら、コポポ。ゆらゆら、コポポ。


 それでは、おやすみなさい。

 よい夢を。

来週の日曜夜21時、また開店予定です(予約投稿)。気に入って下さった方がいましたら、また来週ぜひご来店下さい。

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