家を出る
※※※
「お前は私を怒らすのが好きなのか!」
夫人に叩かれた頬を伯爵にも叩かれる。
夫人よりも強い力で。
せっかく止まったのに、また同じところから血が出る。
「なぜ勝手に婚約破棄を願い出たのだ!」
「私はもうすぐ死にます。婚約破棄を願い出るのは当然ではありませんか」
父は私と彼が婚約破棄をすれば、家同士の繋がりがなくなり、せっかく上流貴族の仲間入りができるチャンスが消え失せることがわかっているのだろう。
妹のアドリアナではイフェイオンと婚約するのが無理だと。
あの二人とは違い、伯爵として同情でもなんでも使える手を使って私が死ぬ前に結婚させるつもりだったのだろう。
でも、私がその前に婚約破棄を願い出たことで計画は駄目になった。
父もまた私の命より権力の方が大事なのだ。
「これはっ……!もうよい!お前がなんと言おうが婚約破棄はさせん!できるものでもない!いいな!お前は黙って公爵家に嫁げばいいのだ!」
話すことはもうない、と意思表示するかのように父は部屋から出て行った。
(そこまでして、公爵家と……)
怒りや悲しみを通り越して呆れてしまう。
このままここにいたら、私は死ぬまで自由になれない。
(逃げよう)
逃げる準備はできているので、後は誰にも気づかれずに出るだけ。
今日を逃したら、きっとチャンスはない。
空が暗くなり、使用人たちが寝静まると、そっと部屋から抜け出し伯爵家を出た。
上手くいった。
そう思ったとき、私の部屋で小さな火が見えた。
誰かが部屋に入ったのだ。
私は全力疾走で駆け出した。
街だと他の人の迷惑になると思い、森の方へと向かった。
息が苦しくても、無我夢中で走り続けた。
結構な時間走った。
さすがにここまで来れば大丈夫かと思い、少し休んでからまた歩こうとその場に座り込むと、何かの音が耳に届いた。
こんな夜遅くに森の中でなんの音だ、と耳を澄ますと葉っぱが風で揺れる音に混じって馬の足音が聞こえた。
一つではなく何個も。
嫌な予感がして、足音が聞こえる方に視線を向けると、火の玉が四つほど浮かんでいた。
それがすぐに松明の火だと気づいた。
伯爵家の騎士が探しにきた。
気づかれないよう木の後ろに隠れて、じっと彼らが通り過ぎるのを待つ。
足音が近づくたびに、心臓の動きが速くなる。
(お願い。気づかないで)
私は必死に祈った。
その思いが通じたのか騎士たちは私に気づかず通り過ぎた。
良かったとホッとして体の力が抜けた。
騎士たちが戻ってくる前に、はやく逃げようと立ち上がると、私が隠れていた木の後ろからにゅっと一人の騎士が現れた。
「きゃっ!」
あたりが暗く、魔物でも出たのかと思い、本気で死ぬ覚悟をした。
だが、すぐに魔物と思ったのは伯爵家の騎士だと気づいた。
「お嬢様。鬼ごっこは楽しかったですか?」
目の前の男は私を馬鹿にするかのようにニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべる。
その笑みを見て気づいた。
私を揶揄うためにわざとさっきは通り過ぎたのだと。
一人だけ残して。
残りの騎士もきっと近くでこの光景を見ているのだろう。
(悪趣味な人たちね)
暗くてどこにいるかはわからないが、視線を感じる。
「勝手にいなくなられては困ります。伯爵様がとても怒っていらっしゃいますよ。はやく帰りましょう」
そう言うと騎士は私の腕を掴む。
振り払おうとするが、あまりにも強く腕を握られているため痛くて顔を顰めてしまう。
仕える主人の娘に対してする態度ではない。
この騎士にとって私はどうでもいい存在。
守るべき存在ではないのだ。
このまま連れて行かれた一生閉じ込められるか無理矢理結婚させられるのかのどちらかだ。
それだけは絶対嫌なのに、抵抗もできなかった。
悔しくて、悲しくて、涙が溢れそうになったそのとき、突然掴まれていた腕が解放された。
突然のことで後ろにずらしていた重心に引きずられるようにして後ろへと倒れた。
何が起きたの、と痛むお尻を我慢しながら騎士の方を見ると倒れていた。
騎士は微動だにしなかった。
見た限り死んだ様子はない。
助かった、このまま逃げようとしたが、残りの三人の騎士が現れて、「そうだった。彼らもいたのだ」と思い出した。
「おい。ジーク」
一人の騎士が倒れている騎士に声をかける。
反応がなく慌てて生死を確認する。
「気絶してるだけだ」
確認した騎士がそう呟くと、残りの二人の騎士は剣を抜き私に向ける。
「お前がやったのか」
騎士たちの目はとても冷たく、今にも斬りかかってきそうなほど怒りに満ちていた。
私は初めて人から面と向かって殺意を向けられた。
違う、と言いたいのに恐怖で口が上手く動かない。
ただ震えることしかできなかった。
「チッ」
騎士は苛立ったように舌打ちする。
「連れていく……ぞ」
私の腕を掴もうとした騎士がいきなり倒れた。
「やっぱり、お前か!」
また仲間が攻撃されたと思った騎士が剣で斬りかかってくる。
死を覚悟し、目を瞑る。
だが、なかなか痛みが襲ってこず恐る恐る目を開けると、斬りかかろうとしていた騎士も倒れた。
何が起きているのか分からなかった。
私と同じように最後の一人の騎士も理解できてない様子だった。
その騎士は剣を抜き、周囲を警戒する。
「いるのはわかっている!出てこい!」
騎士は大きな声で相手を威嚇するように叫ぶが、その姿は恐怖を隠すためにやっているように見えた。
音がするたびに、騎士は体の向きを変えた。
だが、どこにも人の姿は見当たらなかった。
気のせいなのか、とほんのすこし気が緩んだそのとき、騎士の前にフードを深く被った者が現れた。
「きさっ……」
最後まで言い終わる前に騎士は呆気なくやられた。




