沼地の調査
濃霧が肌にまとわりつくように漂う。ぬかるんだ地面から立ち上る腐敗臭が鼻を刺し、視界は5メートル先も覚束ない。アストライア王国とヴァルデール王国合同の野外実習――"瘴気帯生態系調査"は、そんな不気味な環境下で行われていた。
「ふむ……この苔の発光パターン、魔力干渉によるものですよね。色の変化が周期的で興味深いです」
ユリウスは腰まで届く長い丈の外套を引き寄せ、苔むした岩に屈み込んでいた。細い指が慎重に光る胞子をつまみ上げる。傍らには抜き身の剣。戦闘用ではなく、植物サンプル採取用に研ぎ澄まされた短剣だ。
「おいユリウス。またそんなモン触ってやがるのか。毒があるかもしれねぇぞ」
ザナヴァスが腕組みし、巨大な鉈のような剣を地面に突き立てた。黒狼の毛並みが霧に濡れて艶を増している。
「魔力測定はどうした?俺たちの担当区画はこの辺りだろ」
「ちゃんとやってますよ~」ユリウスは振り返らずにほわほわと笑う。「ほら、僕の周りだけ霧が薄くなってるでしょ?微量の風魔法で拡散させてるんです。魔力干渉のデータも採取しつつ……」
「……」ザナヴァスの耳がぴくりと動いた。「お前、いつの間にそんな器用なことを。魔法制御が霧に阻害されてるってのに」
「慣れですよ~」ユリウスは採取した苔を瓶に収めると、ふと顔を上げた。視線の先は、霧の向こうでちらちらと揺れる赤い魔力光。「……先輩、あれって監視塔の警告灯ですか?」
「なっ!?」ザナヴァスが霧の中を見透かすように目を細める。「いや……違う!あっちの方向はB班の担当区画だ!」
その直後―――
「きゃあああっ!!」
「助けてーっ!!」
甲高い悲鳴が霧を貫いた。複数の生徒が沼地を逃げ惑う足音。湿った土が跳ねる音に混じり、ヌメヌメとした触手が地面を這う不快な音が響く。
「触手だ!魔物の……だ!」
生徒の一人が、泥まみれの顔で駆け込んできた。腰に巻いた赤いリボンがA班の証だ。「他のみんなが……沼に引きずり込まれて……!」
「場所を教えろ!」ザナヴァスが牙を剥く。「この霧じゃ迂闊に動けん!正確な位置を!」
「あっちです!あっちの……大きなカシの木の近く!」生徒が震える指で霧の奥を指す。
ユリウスは既に立ち上がっていた。鞘に戻していた剣の柄に手をかけ、その目は鋭く研ぎ澄まされている。
「複数種族の遺伝子を組み合わせたキメラですね。触手ごとに魔力核が分散していて、通常の魔力探知じゃ捉えにくい。恐らく……人工的に造られたものだ」
「なんだと?」ザナヴァスの眉間に深い皺が寄る。「こんな実習エリアにそんな危険物が……」
「先輩」ユリウスの声は普段のほわほわした響きとは違い、鋼のように硬い。「僕が魔力制御で先輩の身体強化と剣への魔力付与を行います。同時に、剣技で直接触手を斬り伏せる。傷ついた生徒の治癒も同時に行います」
「お前……!」ザナヴァスの喉が鳴る。霧の中でさえ、ユリウスの瞳の奥に宿る計算高い光が見えるようだった。魔法の制御が困難な環境下で、複数の能力を完璧にコントロールしようというのか。「……無理はするなよ」
「大丈夫です。先輩が力を貸してくれるなら」ユリウスの口元が僅かに緩む。「信頼していますから」
「……っ!」
ザナヴァスは一瞬言葉に詰まり、ふいと顔を逸らす。尻尾がわずかに揺れている。「……余計なこと言うな。行くぞ!」




