海魔タラッサ
クラーケンの死骸がゆっくりと沈んでいく。遺跡の中央で突如、巨大な水柱が立ち上った。それはまるで龍の咆哮のように海を揺らし、岩壁が左右に裂け始める。
「あれは……!」
ネレウスが驚愕の声を上げた。割れた岩肌の向こうに現れたのは、巨大な階段だった。貝殻と珊瑚で形作られた螺旋階段が、深淵へと誘うように伸びている。
「行くぞ」
カイオスが静かに言った。恐怖はあったが、もはや震えはなかった。仲間の支えが背中を押してくれている。
階段を降りると、そこは別世界だった。
海底神殿タラッサ宮――青白い光が水中を漂い、珊瑚の柱が天井まで伸びている。壁面には古代文字が刻まれ、流れ落ちる水流が絵画のように壁を彩る。無重力の水の中を漂うように進む幻想的な空間に、全員が息を呑んだ。
「なんて美しい……」
ユリウスがため息混じりに呟いた。まさしく神聖な遺跡だ。
中央の祭壇には、一本の槍が静かに横たわっていた。
トライデント――柄から穂先まで全てが青白い魔力で輝いている。カイオスの手が震えた。
「あれが……嵐の神器……」
***
カイオスが祭壇に一歩踏み出した瞬間、神殿全体が大きく揺れた。天井から滝のような水流が落下し、床から巨大な影が浮かび上がる。
「なっ!?」
ガラドンが盾を構えたが、間に合わなかった。
水面が弾け、半透明の巨大クラゲのような生物が現れる。数百本もの触手が蛇のように蠢き、体表は青紫の光で脈打っている。目らしき部分はなく、代わりに無数の口が開閉していた。
「人間どもよ……その神器は災厄を呼ぶ……」
脳裏に直接響く声。深淵の海魔タラッサは嘲笑うように触手を揺らした。
「海の底に沈めておくべきなのだ……永遠に……!」
***
「うっ……ぐわっ!」
ネレウスが突然膝をつく。双剣を握る手が震えている。
「火……村が……!?」
彼の目に映るのは、故郷の漁村が炎に包まれる幻影。人々が叫び、家々が燃え落ちていく。本物の光景ではないと理性が告げても、心は動揺する。
***
「くそっ……何だこれは……!」
ガラドンの目の前には仲間の血塗れの顔。自分が剣を振り下ろしたその瞬間が何度も繰り返される。無数の亡霊が彼を責め立てる。
***
「だめだ……!もう……俺には……!」
カイオスは膝から崩れ落ちた。王冠が床に転がる。彼の眼前に広がるのは玉座の間。誰もが冷たい目で王子を見ている。「お前は王の器じゃない」という嘲笑が耳をつんざく。
***
ユリウスは触手に絡め取られた。
「っ……!?魔力が……!」
触手が体内に侵入し、魔力を吸い取り始める。視界が暗くなる中、彼の頭に流れ込んできたのは自分の過去の映像。クラウディール家の地下室で独り魔術書を読む幼い自分。そして……
『お前は危険すぎる』
冷たい父の声が脳裏を貫く。
「幻覚か……!」
意識が遠のきそうになるが、歯を食いしばる。
***
「惑わされてはいけません!」
ユリウスの叫びが水中を貫いた。魔力を結集させ、自らを包む防御結界を展開する。彼の足元に七色の魔法陣が広がり、触手が弾き返された。
「皆さん!これは精神干渉です!実体は無い!」
「ユリ……ウス……?」
カイオスがかすかな声を漏らした。ユリウスは結界を維持しながら必死に呼びかける。
「殿下!立ち上がってください!このままじゃ……!」
***
「俺が……王子として……?」
カイオスの指先が祭壇に触れた。その瞬間、トライデントが眩い光を放つ。神器が応えるように脈動し、海の魔力が彼の体に流れ込む。
「殿下……!」
ユリウスは力を振り絞り、触手を焼き切った。全身に傷を負いながらもカイオスの傍に駆け寄る。
「あの神器が……呼んでいる」
ユリウスの目が鋭くなった。「殿下、あの神器を!それこそが海を鎮める鍵です!」




