幽霊船
その夜は月さえ逃げた。霧が船縁を舐めるように這い上がり、海は墨汁のごとき暗さに沈んでいた。
「提督……雲一つありませんが……」
見張りの鵜獣人が首をかしげる。確かに星空は綺麗だ。だが海だけが異様な濃霧に包まれている。
ゴーン……
遠くから鐘の音が響く。三度、四度……
「おい待て!あれは『霧の鐘』だ!」
甲板が凍り付いた瞬間――
ドドドドン!
霧の奥から数十隻の艦影が迫る。黒い帆には裂けた髑髏旗。舳先には錆びた海神像。
甲板には腐乱した手足を引きずる骸骨兵。彼らの足元で青白い鬼火が燃えている。
「全員武器を取れッ!これは海嘯ではない!」
カイオス王子が震える声で命令する。だが船員の多くは腰を抜かし、武器を取り落とす。
「若様!我々が盾となります!」
サメ獣人ガラドンが斧を振り回し、迫る骸骨兵を両断する。血糊を噴き散らしながら転がる頭蓋骨。
「下がれ船員ども!邪魔だ!」
イルカ獣人ネレウスは水面を蹴り上げるように跳躍し、空中で双剣を旋回させる。彼の周りには水流の壁が形成されており、霊弾を弾き飛ばす。
だが敵は減らない。無限に湧き続けるかのようだ。
「くっ……『奔流』!」
カイオスの杖から青白い水流が迸る。一列の骸骨兵が押し流されるが、すぐに新たな屍兵が補充される。
「もっと強く……もっと……!」
王子の額に汗が伝う。詠唱が続かない。魔力が追いつかない。
ドボンッ!
一人の船員が衝角に殴り飛ばされ、海に落ちていく――
「どうかお気を付けて」
軽い声が宙に響く。船員の背中に差し伸べられた青白い手。次の瞬間、男はユリウスの腕の中で海面に浮いていた。
骸骨兵がユリウスに殺到する。
「おい坊や!下がれ!」
ガラドンの警告も虚しく――
パリンッ!
敵の霊弾がユリウスを貫いた……はずだった。
「……あれ?」
ユリウスの姿はそこにはない。弾丸が突然Uターンし、撃った骸骨兵の胸板を穿った。
「な……何をした……?」カイオスの声が裏返る。
ユリウスは微笑みながら手をかざす。掌の上で複雑な青い魔法陣が高速回転している。
それはまるで宇宙の星々が凝縮されたような密度だった。
「ちょっと座標を入れ替えただけですよ」
彼が指を鳴らすと――
**ザザァンッ!!**
船全体が蒼い光の球体に包まれた。触れただけで霊体は蒸発し、骸骨は灰となって崩れる。
さらに天空から流星雨のごとき光条が降り注ぐ。幽霊船の主帆柱が次々と砕け散る。
「これは〈星辰落下〉って呼んでます。あ、天体の配置は調整済みですよ?」
海面が青く輝き、嵐は一瞬で凪いだ。船員たちが呆然と呟く。
「……生きてる……」「夢みてぇだ……」
ガラドンが巨腕を震わせる。「……あの坊主……ただ者じゃねぇ……」
ネレウスは双剣の滴を払った。「少なくとも……我々百人分の働きはした」
カイオスが甲板に膝をつく。拳を砂利につける。
「……俺は……何もできなかった……」
「王子殿下」ユリウスが屈み込む。
「恐れを恥じる事はありません。今日のうちに出来なかった事に気づけたのですから、次は何が出来るかを考えましょう」
青い月明かりが二人を照らす。海霧は晴れていくが、新たな試練が待ち受けていることは明らかだった。




