ノルフェン大樹海
「国境の異変?」
薬学教師クラリッサ・ローゼの問いかけにユリウスは首を傾げた。木人種族特有の長い耳と優雅な容姿を持つ美女教師は、優しい笑顔のまま机の上で指を組み合わせた。
「ええ、そうなの〜」
クラリッサはゆっくりと頷いた。
「実は前々からその地域のドライアドちゃんたちから相談は受けてたんだけど……」
彼女は細い指を顎に添え、少し困ったように眉を寄せた。
「ここ数日連絡が取れなくて心配なの。ユリウスちゃんはとっても優秀だって噂だし、課外学習として森の様子を見てきてくれない?」
ユリウスの目が輝いた。ノルフェン大樹海といえば貴重な薬草の宝庫として知られる場所だ。
「行きます!」
即答にクラリッサは嬉しそうに微笑んだ。
「あの森は珍しい素材がいっぱい採れるから無駄足にはならないわよ〜」
ただし——と彼女は付け加えた。
「ドラゴンちゃんは連れてっちゃダメよ〜。あの子たちガサツな種族嫌いなの」
***
「ここがノルフェン大樹海……」
翌日、ユリウスはアストライアとヴァルディールの北側国境にある巨大な森林地帯の入口に立っていた。空を覆い尽くすほどの巨木たちが無数に立ち並び、森全体が呼吸しているかのような生命力を感じる。
「わぁ……」
思わず口から漏れた感嘆の声に応えるように、森が微かに震えた気がした。
慎重に一歩踏み入れると、まるで歓迎していないと言わんばかりに木々がざわめき始めた。枝が伸びてきて道を塞ぎ、葉が舞い落ちて視界を遮る。
「やっぱり警戒されてるね」
ユリウスはクラリッサから受け取った緑色の宝石を取り出した。掌に乗せるとひんやりとした感触と共に微かな魔力を感じる。
「ドライアドの許可印だって言ってたけど……」
彼は慎重に宝石を掲げてみた。すると—
「わぁ!」
宝石が柔らかな光を放ち始めると同時に、眼前を塞いでいた木々がゆっくりと左右に分かれていった。まるで見えない手によって整列させられていくかのように。
「すごいや……」
ユリウスは小さな驚きの声を上げながら森の中へと足を進めた。
木々の隙間から差し込む光が斑模様を地面に描き出し、苔むした石やキノコが点在する幻想的な世界が広がっている。鳥のさえずりも聞こえず、ただ風に揺れる葉音だけが響いていた。
「静かすぎる……」
確かに何かがおかしい。通常の森ならもっと生命の気配があるはずだ。虫や小動物の存在感すらない。
ふとユリウスは気づいた。森全体から注がれる無数の視線を感じる。まるで枝の一本一本が彼を観察しているようだ。
「こんにちは〜」
試しに声をかけてみたが返答はない。代わりに地面から突き出た根が蠢き、ユリウスの靴の周りをゆっくりと囲み始めた。
「おっと……」
ユリウスは慌てず立ち止まり、再び宝石を掲げた。すると根は躊躇うように動きを止め、後退していく。
ユリウスは周囲の木々に向かって話しかけた。
「君たちは何を守っているの?」
しばらく沈黙が続いたが、やがて地面から声のような音が響いてきた。それは風のざわめきとも歌声ともつかない奇妙な響きだった。
「……侵入者……危険……」
「違うよ」ユリウスは膝を折って木々を見上げた。
「僕はクラリッサ先生に頼まれて来たんだ。ドライアドたちを探しているんだ」
突然、彼の足元の苔が動き出し、小さな人型の形を成した。身長はユリウスの膝くらいで、全身が緑色の葉っぱで覆われている。
ドライアドの幼生だった。
「ドライアドの子?」
ユリウスが優しく尋ねると、その小さな生き物は恐る恐る近づいてきた。
「……先生……知ってる……」
「教えてくれる?」
ユリウスは優しく微笑みかけた。
「何が起きてるの?」
小さなドライアドは震えながら周囲を見回し、声を潜めた。
その仕草には明らかな恐怖が滲んでいた。
「……来た……悪いものが……森を……飲み込んでいる……」
「悪いもの……飲み込んでる?」
ユリウスの問いに、幼いドライアドは小さく震えながらうなずいた。その体は緑色の光を微かに放ちながらも、まるで枯れかけた葉のように弱々しく見えた。
「ドライアドさんたちはどうしてるの?」
「隠れてる……」
幼生は地面に触れると、葉っぱの指が土に図形を描き始めた。
「森の中心……古い神殿の地下……でも……」
言葉が途切れ、代わりに指先から黒い粘液のようなものが滲み出してきた。それは地面に落ちると煙を立てながら消えていく。
「黒い……もの……森を……腐らせてる……」
幼生の声がかすれた。
「根が……食べられてる……」
ユリウスはすぐに理解した。森全体が「感染」しているのだ。
「案内してくれる?」
ユリウスが手を差し伸べると、幼生は一瞬迷ったものの、勇気を振り絞るようにその手に乗った。緑の葉が彼の手のひらで脈打ち始める。
「気をつけて……」幼生が警告した。
***
ドライアドの幼生に導かれて森の奥へ進むユリウス。苔むした道を辿ると、突如として開けた空間に到達した。
そこには——
「これは……」
朽ちかけた古い石造りの神殿が佇んでいた。かつては荘厳だったであろう柱は植物に浸食され、壁には蔦が絡みついている。日光が屋根の隙間から差し込み、内部を神秘的に照らしていた。
「ここの地下に隠れてるの」
幼生がユリウスの肩から飛び降り、トコトコと神殿の中央へ歩み寄った。床に屈むと、両手を地面に押し付け、小声で呪文を唱え始める。
「ドゥラン・テリス・フィリ・ラノン……」
言葉とともに地面が青く輝き始め、やがて隠されていた階段が浮かび上がった。螺旋状に下へと続く暗い通路だ。
「わぁ……」
ユリウスは思わず感嘆の声を上げた。秘められた古代遺跡への入り口を前に胸が高鳴る。幼生が先導するままに、ユリウスは慎重に地下へと足を踏み入れた。
***
地下空間は想像以上に広大だった。天井には水晶のような結晶が煌めき、壁面には未知の文字が刻まれている。そして最も奥まった一角には——
「ドライアドたち……」
そこには数十体のドライアドが集まっていた。若い者から年長者まで、皆緑の衣装を纏い、静かに佇んでいる。中でもひときわ大きなドライアドがユリウスに向かって一歩踏み出した。
「祝福されし愛子よ」
その声は風が梢を揺らすように柔らかくも澄んでいた。
「こちらへ」
ドライアドたちの間に道が開かれ、ユリウスは戸惑いながらもその中心へと歩みを進めた。緊張感が漂う中、長老と思われるドライアドが重々しく語り始めた。
「あまり時間がありませんので手短に話します」
その表情には焦りが見え隠れしていた。
「今この森は『樹海の大禍』とも呼ばれる悪蛇ヨルヴァースの復活により危機に瀕しています」
「ヨルヴァース……」
ユリウスは思わず繰り返した。学院の図書室で読んだ古い魔物の記録を思い出す。確か数百年前に英雄によって封印されたと伝わる魔物だ。
「今は『樹海の守狼』……フェンリルのヴァルガルム様によって押さえ込まれていますが……」
長老の言葉が途切れる。周囲のドライアドたちも俯いたり枝を震わせたりと不安げだ。
「徐々に森を蝕んでいます」
長老の言葉には深い苦しみが滲んでいた。
「日に日にヴァルガルム様のお力が弱まるのを感じます」
ユリウスの心臓が早鐘を打つ。伝説級の存在さえ追い詰められているのか。
「どうか、ヴァルガルム様と共にこの森を救ってください」
長老が深く頭を垂れる。周囲のドライアドたちも次々に同じように敬意を示した。
ユリウスは一瞬考え込んだ。自分が何をできるのか。しかし目の前の生命の危機を前に躊躇する理由はなかった。
「わかりました」
ユリウスは決意を固めたように顔を上げた。
「どこまで出来るかわかりませんが……やれるだけやってみます」
その言葉にドライアドたちの顔に希望の光が宿った。
「感謝します……」
長老はそう言うと自らの髪の一房をそっと摘み取った。それは普通の髪ではなく、緑色に輝く美しい枝だった。
「この枝がヴァルガルム様の元へと導きます」
枝を受け取ったユリウスの手の中で、それはかすかに脈打ち始めた。
「どうかよろしくお願いします……」
ドライアドたちの願いを胸に、ユリウスは新たな決意を抱いて神殿を後にした。枝の導きに従い、彼は森の核心部へと足を向けた。そこに待ち受けるのは英雄の血を受け継ぐ者すら苦戦した存在。しかし彼の目には迷いはなく、むしろ未知への挑戦への期待すら浮かんでいた。




