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母の教え

ダミアンが学院に戻ったのは、事件からちょうど二週間後だった。部屋に積み上がる書簡と報告書の山に辟易しながらも、一つ一つに目を通さねばならない。襲撃事件の収拾は思った以上に複雑だった。キメラの集団を撃退したというユリウス・クラウディールの功績は瞬く間に王国の貴族たちの耳に入った。中には早速「あの若者を我が家の婿に」などと縁談を持ち掛ける者まで現れる始末。ダミアンは眉間に深い皺を寄せながら、それらの報告を受けた。


「……まったく。厄介な」


呟きながらも、ダミアンの胸の奥には奇妙な疼きがあった。ユリウスの笑顔が思い浮かぶ。彼は人間で、ヴァルデールの貴族だ。アストライア王国第三王子である自分とは本来交わるべきではない相手のはずだ。それなのに——


授業が始まり、ダミアンも講義に出るようになったが、なぜかユリウスの姿を自然と探してしまう。昼休み、食堂でも図書館でも、彼の鮮やかな金髪と青い瞳を見つけることができなかった。そのことに妙な苛立ちと寂しさを感じた。


翌日の午後、休憩時間に入った時だった。廊下の向こうから、ふわりと流れてくる柔らかな旋律がダミアンの耳に届いた。続いて聞こえてくるのは、澄み切った歌声。


(これは……)


その歌声はどこか懐かしさを覚えるものだった。ダミアンの足は自然と音のする方に向かっていた。音楽室の前に立ち、そっと扉を開ける。


ピタリ——演奏と歌声が同時に止まった。


中には二人がいた。グランドピアノの前に座っているのは人間の少年・セナ。そして彼の隣に立っているのが——


「あ、ダミアン!どうしたんですか?」


ユリウスがにこやかに振り返った。彼の純粋な瞳が自分を捉えると、ダミアンの鼓動が微かに早くなる。一方でセナはといえば、突然のアストライア第三王子の出現に完全に固まっていた。


「あ……あわわ!ダ、ダミアン様!」


椅子に座ったまま頭を下げるセナの声は明らかに震えている。ダミアンは一瞬眉をひそめたが、すぐにユリウスに視線を戻す。


「お前こそ……何をしているのだ?」


問いかけると、ユリウスは少し驚いた顔をしながらもすぐに微笑んだ。


「僕ですか? 今はセナの課題のお手伝いをしていたところです」


「課題……?」


「あ……はい!じ、実は選択科目で音楽を選んだんですけど、作曲の課題が出てしまって……」


セナが途切れ途切れに説明を始めた。俯きながら必死に言葉を探す彼の様子に、ダミアンは微かにため息をついた。


「それで、なぜユリウスを?」


「ユリウスは……歌がとても上手なんです!それで……課題の歌詞を考えてくれるって約束してくれて……」


セナは消え入りそうな声で答える。ユリウスがにこやかに続けた。


「僕の方も条件を出しましたよ。彼に影魔術のことを教えてもらうことになってるんです」


なるほど、お互いの専門分野を活かした協力関係か。ダミアンは理解しつつも、なぜか心の奥に小さな引っかかりを感じた。


「ダミアンは……どうしてここに?」とユリウスが尋ねた。


「歌声が聞こえたからな。つい……」


言い終わらないうちに、ユリウスの顔がぱっと輝いた。


「本当ですか?セナ!ダミアンが好評だって言ってくれましたよ!」


「ええええ⁈ ほ、本当ですかダミアン様……」


セナの声がさらに上ずった。ダミアンは一瞬言葉に詰まったが、すぐに平静を装った。


「……悪くはない」


その一言でセナは真っ赤になりながらも、少しだけ嬉しそうに俯いた。ユリウスは満足そうにうんうんと頷いている。ダミアンは彼らを眺めながら、そのまま部屋の隅にあった椅子に腰を下ろした。


やがて、セナが再びピアノを弾き始め、それに合わせてユリウスが歌い出した。優しい旋律と澄んだ歌声が部屋いっぱいに広がる。それはダミアンがこれまで耳にしたことのない純粋な美しさを持っていた。思わず目を閉じると——


(……なんだか)


不思議と心が安らぐ。このところの激務で張り詰めていた神経がゆっくりと解けていくようだった。いつの間にか、彼は静かに眠りに落ちていた。


———


夢の中には母の姿があった。美しい笑顔を浮かべる母。優しく頭を撫でてくれながら、彼女は言った。


「いい?ダミアン。貴方には必ず来るわ。貴方の心を捉えて離さない、特別な人が——」


彼女の目は真剣そのものだった。


「だからね、もし見つけたら……ためらわずに掴みなさい!ガツガツ行くのよ!お母さんだってお父さんにそうしたんだから!」


そう叫んだ母がダミアンの肩を掴み、がくがくと揺さぶる——


「ダミアン……ダミアン!」


はっと目を覚ました。目の前にはユリウスの心配そうな顔があった。


「……どうした」


「ああ、良かった!大丈夫ですか?随分ぐっすり眠っていましたから……」


窓の外はもう暗くなっていた。ダミアンは自分の額に触れ、まだ少し熱っぽいのに気づく。


「……そうか。俺は寝ていたのか」


「お疲れ様です。今回の件で色々任せてしまってすみませんでした」とユリウスが申し訳なさそうに言う。


「気にするな。元々巻き込んだのは我々だ」


ダミアンが立ち上がると、部屋にはユリウスしかいなかった。


「あの男は?」


「とっくに部屋に戻りましたよ。僕が『王子が起きたら知らせるから先に帰っていい』って言って」


なるほど。ダミアンは窓際に寄りかかった。


「お前も早く戻ればよかったではないか。なぜ待っていた?」


ユリウスは少し考えるように天井を見つめた。


「うーん……」


その仕草があまりにも純粋で無邪気で——


「なんか、ダミアンの寝顔が可愛かったから」


「なっ……⁈」


ダミアンの顔が一瞬で朱に染まった。ユリウスはきょとんとした顔で首をかしげる。


「冗談です」


その笑顔が悪意の欠片もなく無防備すぎる。ダミアンの中で何かがぷちんと切れた。


「おい」


突然、彼はユリウスの腕を掴んで引き寄せた。息がかかるほどの距離まで顔を近づけた。


「え?」


ユリウスが驚いて目を見開いた。ダミアンの瞳は真剣そのものだ。彼の頭の中で、母の声が蘇る。


『もし見つけたら……ガツガツ行くのよ!』


(今だ……!)


しかし——


ユリウスの青い瞳が不思議そうに見つめ返している。彼の呼吸が肌に触れる。その純粋無垢な表情に——


(できない……)


ダミアンは唇を噛み締め、ふっと力を抜いた。顔を背けながら言う。


「……なんでもない」


「ええっ⁈ なんなんですかぁ!」


ユリウスが不満げに声を上げる。ダミアンは無言で彼を解放し、扉に向かって歩き出した。


「あ!ダミアン!」


振り返るとユリウスが手を振っている。


「また明日!」


ダミアンは返事をしなかった。ただ無言で右手を軽く上げただけだった。それでも十分に伝わったようで、ユリウスは満面の笑みを浮かべた。


廊下を歩きながら、ダミアンの胸の奥には確かな鼓動が響いていた。頬はまだ熱い。彼は拳を握りしめながら呟いた。


「……厄介なのはこの俺か」


その夜、ダミアンは久しぶりに夢を見なかった。ただ目を閉じても浮かんでくるのは——あの無邪気な金髪の少年の笑顔だけだった。

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