子守唄
「今日は三つの視察が入っています。夕刻には商工会議の代表が到着予定です」
執事ダグナスの声が執務室に響く。
「……了解した」
エドワードの返答は淡々としていたが、その目元には疲労の色が滲んでいた。
ここ数週間、ラザフォード家の多忙さは頂点に達していた。父の外交交渉の穴埋めに奔走し、領地経営の監督も疎かにできない。食事すら満足に取れない日々が続いていた。
「最近ユリウス様はよく訪ねて来てくださるのですが……」
ダグナスが資料を差し出しながら呟く。
「エドワード様がいらっしゃらないと聞いて残念そうに帰られます」
「……そうか」
彼は資料に目を落としたまま答えた。脳裏にユリウスの笑顔が浮かび、胸が締め付けられる。最後に会ったのはいつだったか?声を聞くどころか顔を見る暇もない。その寂しさを押し殺すように彼はペンを握った。
***
その日もユリウスは厨房で鍋を振るっていた。
「これで完成!特製滋養強壮スープですよ〜」
香りが部屋中に漂う。その隣にはリュミナとヴォルカが興味津々で覗き込んでいた。
「わぁ……なんていい匂い!」
リュミナの目が輝く。この小さな竜はすっかりユリウスに懐いていた。
「お前本当に料理も天才なのか?」
ヴォルカは腕を組んで唸る。以前は敵意剥き出しだった竜も今ではユリウスの気遣いに感心しきりだった。
「そんなことないですよ〜。ただ美味しいもの好きなだけです」
ユリウスが鍋をかき混ぜながら笑う。使用人たちも恐る恐る近づいてきた。
「ユリウス様……本当にこのようなお手伝いまでしていただけるとは……」
「ありがとうございます!」
次々と礼を述べる使用人たちにユリウスは首を振った。
「お世話になってるのは僕の方ですし!それに美味しいものを食べてほしいじゃないですか」
その飾らない優しさに皆が自然と微笑む。もはやユリウスは客人ではなく家族同然の扱いになっていた。
***
その晩、馬車が激しく転がり込む音がした。
「エドワード様のお帰りだ!」
ダグナスが出迎えると、そこに立っていたのは青ざめた顔の主人だった。足取りもおぼつかない。
「……報告書を置いておく」
掠れた声で言うなり、彼は壁にもたれかかるように歩き出した。
「お食事は如何なさいますか?」
ダグナスの問いにエドワードは力なく首を振る。
「後にする……先に仮眠をとる」
「お待ちください!実はユリウス様が先ほどまで……」
ダグナスの言葉にエドワードの動きが止まる。
「……ユリウスが?」
「はい。エドワード様の体調を気にして滋養強壮スープをお作りになりまして。今もお待ちしていたのですが……」
執事が言いよどむ。ユリウスはつい先ほど急用で帰ってしまったのだ。
「そうか……」
エドワードの目に一瞬の落胆が浮かぶ。しかしすぐに取り繕うように顔を上げた。
「気にするな。食事は後にしよう」
そう言って彼は廊下を歩き去ろうとした。
「こちらがユリウス様特製のスープです」
執事が皿を持って追いかける。
「お召し上がりください。きっと元気が出ますよ」
しかし彼は止まらず部屋へ向かおうとした。
「仮眠……の前に、今少し仕事を片付けなければ……」
その時だった。
「あれ?エドワードさん?」
玄関口から明るい声が響いた。振り返るとそこにはユリウスが立っていた。
「忘れ物を取りに戻ったら……こんなところで会えるなんて!」
ユリウスが嬉しそうに駆け寄ってくる。だがエドワードの様子を見て顔色が変わった。
「めちゃくちゃ疲れてるじゃないですか!」
エドワードは咄嗟に平静を装った。
「問題ない。今から少し休むところだ」
しかしユリウスは素早く彼の腕を掴む。
「ダメです!まずはご飯を食べましょう!」
「いや……」
「ダメですってば!」
ユリウスの強い口調にエドワードは一瞬言葉を失う。
食堂に戻されたエドワードは渋々席についた。ユリウスが温め直したスープが運ばれる。
「どうぞ。味見はしましたから安心してください」
その言葉に思わず小さく笑みが零れる。リュミナがテーブルの隅から顔を出し、「とってもおいしかったよ!」と尻尾を振った。
「……ありがとう」
彼はスプーンを手に取った。一口含んだ瞬間、全身に温もりが広がる。疲れた体が喜んでいるのがわかった。
「うまい……」
思わず呟いた言葉にユリウスが嬉しそうに目を輝かせる。
「良かったです!」
その笑顔を見た瞬間、エドワードの目に熱いものが込み上げてきた。長い孤独と疲労の中で唯一の光を見たような気がした。
「……すまない。見苦しいところを見せた」
慌てて顔を逸らすエドワードにユリウスが慌てる。
「あわわ……!泣かないでください!やっぱり寝た方がいいです!」
ユリウスが立ち上がるなり執事を呼んだ。
「エドワードさんをベッドまで運んでください!」
抵抗する間もなく執事に支えられながら寝室へ向かうことになる。
「大丈夫だ……自分で歩ける」
「ダメです!」
ユリウスの強い意志に押され、結局彼は大人しく従った。
ベッドに横たわったエドワードにユリウスが優しく毛布をかける。
「寝るまでここに居ますから安心してください」
「……ユリウス」
エドワードが珍しく弱い声で彼を呼んだ。
「とても会いたかった」
その言葉にユリウスの頬が赤く染まる。
「えへへ……僕もです」
照れくさそうに笑うユリウスを見つめ、彼は思い切って願いを口にした。
「……歌を歌ってくれないか」
「え?」
「この前庭園で歌っていただろう?」
ユリウスは少し考えた後、ゆっくりと頷いた。エドワードの手を両手で包み込み、静かに息を吸った。
柔らかな旋律が部屋に満ちる。ユリウスの歌声は澄み渡るように美しく、聴く者の心を落ち着かせる不思議な力があった。エドワードは目を閉じてその音色に身を委ねる。
(こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろう……)
徐々に瞼が重くなり意識が遠のいていく。微睡みの中で彼は最後の力を振り絞って囁いた。
「……ありがとう」
次の瞬間、額に柔らかな感触があった。目を開けようとするがもう叶わない。ユリウスの温もりと安らぎの中で彼は深い眠りに落ちていった。
ユリウスはエドワードの規則正しい寝息を確かめると、そっと手を離した。そしてもう一度彼の額に優しい口づけを落とす。
「おやすみなさい。頑張りすぎないでくださいね」
そう囁くと彼は静かに部屋を出ていった。窓から差し込む月明かりが床に銀色の光を描いている。廊下に出たユリウスの耳に使用人たちの話し声が聞こえた。
「お見事でしたね。あのユリウス様なら必ずエドワード様をお休みさせると信じていました」
「まるで本当のご家族のようです」
ユリウスははにかんで首を振った。
「そんな……僕はただ……」
照れるユリウスの背中に温かな風が通り抜けていく。彼は廊下の窓から見える月を見上げた。
(次は元気な顔が見れますように)
そう願いながら彼は静かな屋敷の夜を後にした。廊下の灯火が揺れ、ラザフォード家に新しい夜明けの予感を灯しているようだった。




