第31話 大町発9時50分⑥
昨晩の鉄板焼きは楽しかった。結局ジョシュア君のおごりだったし。
さすがに、誠さんが先週の水曜日にあの店で誰と食事をしていたのかは分からなかったけど、中島さんの言葉には引っかかった。大学病院に務めている正美さんの妹さんってどんな人なんだろう…
それと、ジョシュア君に言われたことも確かだ…時々、この子は人生何周目だろうと思うことを言うことがある。
「誠さんって人がどんな人か知りませんが、本当にひどい奴なら関わらない方がいいですよ。遅かれ早かれ周りも気づいて離れていくでしょう。でも、花沢さんが思うように、優しい人で、何か事情があるんだったら、誰かに話したいって思ってるんじゃないかな。引き出しの鍵を勝手に開けるなんて犯罪まがいの事をしなくても、花沢さんならば聞き出せるんじゃない。」
兎に角、昨日はみんなと会えてよかった。一人だったら思い詰めてしまってたかもしれない。私は刑事じゃないのだ、家政婦なのだ。
朝食後、出勤の支度をしている誠さんに声を掛けた。
「誠さん、これがジャケットのポケットに入ってましたよ。」
そう言って、鉄板焼きのレシートを渡した。
「え、これですか…」
「接待ですか?だったら経費に付けなきゃ、経営者なんだから。」
「ああ、そうです。有難うございます。」
「偶然だけど、昨日、私もこのお店に行ったんです、お友達と。高いけど素敵なお店ですよね。やっぱり、夜は、お友達同士っていうよりカップルが多かったな。」
受け取ったレシートを誠さんは再びジャケットのポケットに押し込んだ。
「花沢さん、こないだは話を聞いてくれて有難う。」
誠さんを玄関先で見送った後、隣で一緒に見送っていた優香さんが話しかけてきた。
「昨日、誠さんに検査結果のこと話したの。誠さん、心配かけちゃってごめんね、一緒に頑張ろうって言ってくれたの。何だか、片方の肩の荷が下りた感じ。両親への説明が残ってるけど、これは私たちの問題だから、とやかくは言わせないつもり。」
「そうですか、それは良かったですね。」
優香さんは嬉しそうに出勤して行った。
今日も書斎の掃除の許可をもらったので、掃除をした。
誠さんの机の引き出しは鍵が掛ったままだった。
夕食の後、誠さんが冷蔵庫にビールを取りに来た。
「言ってくれればいいのに、お持ちしますよ。」
「少しは動かないと、家だと美味しい物食べて据え膳上げ膳でしょう。」
「お仕事でお疲れなんですから、良いんですよ。誠さんはビール派ですか?」
「ええ、僕はビールですね。ワインも美味しいんですけどね。」
「私もビール、夏でも冬でも。よかったらビールに合いそうなもの用意しましょうか。」
「いいんですか!」
ダイニングからワインを飲みながら談笑する優香さん、昇さん、恵美さんの笑い声が聞こえた。
「誠さん、何してるの?ここからが面白いんだから。」
「優香さんは当然ですけど、昇さんも恵美さんも誠さんのことが大好きなんですね。誠さんに話を聞いて欲しくて仕方ないんでしょうね。」
「そうだと嬉しいです。本当に良くしていただいて…」
「私の前の夫も聞き上手な人で、いつも私が喋ってばかりだったの。もう二十年以上前になるけど、心不全で突然…もっと彼の話を聞いてあげればよかったって、彼にも話したいこと、愚痴をこぼしたいことがあったんじゃないかなって…ごめんなさいね、こんな話して。でも、今の夫はお喋りで、お喋りで、口にガムテープ貼ってやろうかと思うこともあるくらいなの。」
「誠さん!」
今度は恵美さんが呼ぶ声がした。
「ほら、皆さんお待ちかねですよ。」
そう言って、彼を席に戻るよう促した。
土曜日の朝、誠さんから声を掛けられた。
「昨晩の焼き厚揚げ美味しかったです。」
「気に入っていただけて嬉しいわ。」
「花沢さん、今日の午後と日曜日はお休みですよね?僕、来週後半から学会で海外に行くので、月曜からクリニックに泊まり込みで仕事を前倒しで終わらせなくてはならなくて、もしかすると、花沢さんに会うのは今日が最後になるかもしれません。いろいろと有難うございました。」
「あら、そうなんですか。本当に短い間でしたけど、誠さんといろいろお話ができて楽しかったです、お世話になりました。お体に気を付けて行ってきて下さい、ご無理なさらないようにね。」
誠さんは木曜の夜の便で発つと聞いていたので、それまでは時間があると考えていた。迂闊だった。これじゃあもう彼から話を聞くことも出来なそうだ。
ジョシュア君、話は聞き出せなさそうです。
夏子ちゃん、明ちゃん、ごめんなさい。
「それと、僕の留守中は好きな時に書斎の掃除お願いします。」
「はい、承知しました。」
書斎の掃除は昨日したので、来週することにした。
洗濯と掃除をして、リクエストされたビーフシチューを作り置きし、お昼過ぎにはこの家を出た。
月曜の昼前に誠さんの書斎に入ると、PCモニターの脇に銀色の小さな鍵が置かれていることに気が付いた。
もしかしてこれって…
そう思い鍵に手を伸ばしかけたが、思いとどまった。私は家政婦なのだ、勝手に机の引き出しを開けるなんてことはしてはいけない。
土曜日に誠さんは出張の準備やなんやで急いでいて、ここに鍵を置き忘れてしまったのだろう。
火曜日の夜、誠さんから電話があった。
「花沢さん、本当に申し訳ないのですが、僕のパスポートを明日クリニックまで届け出もらえないでしょうか?鍵のかかった引き出しに入っています。鍵は机の上にあります。」
予想外の依頼だ。
「はい、勿論です。何時頃がいいですか?」
「そうですね、夕方五時過ぎにおねがいできますか?もしかすると、少し待ってもらうことになるかもしれないので、どこか喫茶店で待ち合わせしませんか。」
喫茶店?パスポートを渡すだけなのに?
「ええ、いいですよ。五時ですね。」
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