第29話 大町発9時50分④
時間もあるので長谷夫妻の夕食にはビーフシチューを作ることにした。あの店と同じ材料は使えないし、同じ味になんて出せない。でも、煮込んだ野菜をすりつぶしてソースにするって言うのは試しにやってみよう。寺内夫妻用には、魚の煮つけと副菜数品を準備した。
シチューを煮込む間に、スーツをクリーニングに出す準備をしておこう。軽くブラシをかけて、ポケットの中身を確認する。誠さんの上着のポケットから数枚のレシートを見つけた。本屋、コンビニ、鉄板焼きのレシート。
誠さんはどんな人なのだろう?それは、今夜、会えばわかるだろう。
そんなことを考えながらレシートを眺めた。本屋は夏子ちゃんのバイト先の本屋で、小説を購入している、紙で読む派なのか。コンビニは、時間帯と内容的に昼ご飯といったところだろうか、これもクリニックの入っているビルのコンビニだ。
そしてもう一枚は、大町グランドホテルに入っている鉄板焼きレストラン。内容的に二人かな、肉が多いから奥様とではなさそうだ。奥さん以外の女性と会うには場所が不用心すぎる、個室はなかったと思うし、人目に付きやすい。接待にでも使ったのか?それならば経費で落とすはずだからこのレシートは取っておいた方が良いだろう。普通ならば、そっと誠さんの机の上にレシートを置いておくのだが、ここは一つ直接渡して反応を見てみよう。そう思って、そのレシートを自分のエプロンのポケットに仕舞った。
恵美さんは午後七時半頃帰宅、昇さんは八時頃に帰宅し、その後、二人で夕食を取った。ビーフシチューはなかなか好評だった。優香さんと誠さんは九時過ぎに帰宅した。全員から明日の書斎の掃除の許可がもらえた。
昇さんは、イケおじとでも言うのだろうか、細身で背が高くお洒落な人だ。話題が豊富で、話も楽しい。ワイン好きで、リビングに大きなワインセラーを置いている。夕食後はワインセラーの前で、あれやこれやとワインのレクチャーをしてくれた。
優香さんは、ハンサムウーマンとでも言うのだろうか、はっきりした物言いだが、どこか愛嬌を感じるタイプで好感が持てる。
そして、誠さんは、ちょっと優柔不断だけど、真面目で優しそうな人と言う印象を受けた。賑やかな長谷夫妻や優香さんの話を楽しそうに聞いている。三人も聞き上手な誠さんに話を聞いて欲しくて仕方がないという感じで、愛されキャラと言った所だろうか。
夏子ちゃんの話を聞いていた時は、正美さんの夫も、優香さんの夫も同一人物だろうと思っていたが、誠さん本人を目の前にした今、少しその考えが揺らいでいる。まずは事実を確認しないと。明日、書斎で何か見つけることができるだろうか。
翌日、誠さんの書斎を掃除していて、鍵のかかった引き出しを見つけた。掃除をしながら鍵を探したが見当たらなかった。自分で持ち歩いているのかもしれない。このタイプの錠ならば鍵がなくても開けることは出来ると思う、しかし、これを勝手に開けてしまったら家政婦として終わりな気がする…今日の所は諦めて何か別の方法を考えよう。
そんなことを考えていたら、家の固定電話が鳴った。今時、固定電話に電話をかけて来るのはセールスぐらいのものだ、だからと言って出ない訳にもいかない。
「はい。」
ディスプレーには県南の市外局番から始まる番号が表示されている。相手が不明の場合は用心のため名乗らないことにしている。
「寺内様のご自宅でよろしいでしょうか?こちら、丸福レディースクリニックの受付ですが、優香さんいらっしゃいますでしょうか?」
丸福レディースクリニック?聞いたことない名前だ。県南のクリニックなんて行くこともないので知らないのも当たり前だ。
「はい、寺内でございます。あいにく優香さんは留守にされていますので、よろしければ、ご用件を承りますよ。」
「そうですか、優香さんがこちらに携帯電話をお忘れになっておりまして、ご連絡が取れるようでしたらその旨お伝えいただきたいのですが。」
「携帯電話ですか、承知しました。連絡を取ってみます。」
優香さんは、今日は午後から長谷病院に勤務のはず。お昼過ぎに長谷病院の代表に電話をして優香さんに取り次いでもらった。
「携帯電話?…本当だ、ない。どうしよう、これから診察だから。」
「では、私が引き取りにいって来ますね。」
「本当に!花沢さん、ありがとう。…それで、丸福レディースクリニックの事だけどうちの両親には言わないで欲しいの。お願いします。」
「はい、承知しました。」
そう言って電話を切った。
県南は少し遠いが高速道路を使えば二時間ちょっとで帰って来られる、そのくらいならば昼休みと買い物の時間で賄える。あえて、外出することを恵美さんに伝えなくてもいいだろう。そして、直ぐに丸福レディースクリニックに向かった。優香さんから丸福レディースクリニックに私が引き取りに行くことを伝えてもらっていたため、携帯電話は直ぐに渡してもらうことが出来た。
まだ午後の診察が始まる前にもかかわらず待合室には人がちらほら。不妊治療も行っているクリニックで、クリニックの掲示板には、不妊治療を経て出産した方の喜びの声などが多く掲載されていた。
その足で、長谷病院に向かい、受付で事情を説明して優香さんの診察室に向かった。
「ああ、花沢さん本当に本当にありがとう。携帯忘れるなんて、私うっかりしてたな。」
昨日と変わらない凛々しくも愛嬌のある笑顔、しかし、ちょっと疲れている様にも見えた。
「お疲れなのかもしれないですね、ご無理なさらないように。では、私はこれで…あ、優香さん、お夕食に何か食べたいものあります?」
「えーと、あっさりしたお鍋とかがいいかな。昨日の煮魚も本当に美味しかった。」
「あっさりしたお鍋ですね。承知しました。」
そう言って、診察室を出た。
牛かつ と たらちりの材料を買い、急いで家に戻った。
夕飯の下準備をしながら、ふとある考えが過った。
優香さんは不妊治療をしているのではないか?自分の両親に知られたくないということは、もしかして原因は誠さんにあるのでは?今朝、クリニックで携帯電話を忘れるくらいショックなことがあったのだろうか?誠さんの検査結果が良くなかったのかもしれない。誠さんは、今日は朝から自分のクリニックで勤務しているから、その検査結果はまだ知らないはずだ。優香さんはどんなふうに誠さんにその結果を伝えればいいのか悩んでいるのかもしれない。
六時過ぎに優香さんが帰宅した。予想よりも早い帰宅だった。
「少し書斎で仕事するので、夕食は誠さんが帰ってきたら一緒に取ります。」
そう言って書斎に向かった。しかし、三十分もしない内にキッチンにやって来た。
「花沢さんはお子さんいるんですか?」
「ええ、娘が一人、あと七歳になる孫が一人いますよ。」
「そんなに大きなお孫さんがいるように見えないですね。」
そんな他愛ない話をした。何だか、彼女の目が腫れているように見えた。
「優香さん、何かあったんですか?」
そう言ってお茶を差し出すと、そのお茶を一口飲んで
「実は、今朝、誠さんと私の不妊症の検査結果を聞きに行ったんです。まだ、結婚して半年ですけど、年齢のことも考えて早めにと思って…それで、私は問題なかったんですけど、誠さんの方の検査結果が良くなくて、全くダメってことではないそうなのですが、自然妊娠は望まない方がいいって、人工授精を進められたんです。彼に何て説明すればいいのか、それに、治療が始まれば、両親に隠し通せるか自信がなくて。」
「…まあ、そうだったの。」
こぼれそうな涙を指で拭い
「…なんか、花沢さんに話したら、ちょっと気が楽になりました。こんなこと言ったら失礼だけど、花沢さんは臨時の家政婦さんだから、こういう話をしても重荷にならないかなって思って。」
「ええ、二週間でいなくなりますから、話したい話があれば、いつでもどうぞ。」
「花沢さんって面白い。何だかお腹すいちゃった、先にお鍋食べちゃおうかな。もし、夕食まだなら、花沢さんも一緒に食べましょう。」
「いいんですか?じゃあ、遠慮なく。」
その後、優香さんは白ワインを飲みながら、誠さんとの出会いを嬉しそうに話してくれた。
探偵を始めた頃に先輩に良く言われたのが、調査の鉄則として、関係者への感情移入は禁物、収集する情報にバイアスがはいるから。でも、やっぱり、優香さんと正美さんの旦那さんが別人であることを願わずにはいられなくなった。
誠さんの書斎の鍵のかかった引き出しを開けても、せいぜいキャバクラの名刺が見つかるくらいで、正美さんに繋がるものが出てこないことを願った。
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