愛の連続小説「おもてさん」第二部・第八話 アイス・ブレイク
【1】
聴衆参加型シンポジウム分科会「アンドレイ・タルコフスキーの映画に見る現代社会主義国家における倫理の問題」の開始時刻になった。
既に教室内の机は脇に寄せてあり、聴衆は車座に並べられた椅子に居心地悪そうに座っていた。
「聴衆と対座した講師が、一方的に教えを垂れる」と言う形式ではなかったのだ。
向かい合って円陣を組むなんて、幼稚園・小学校の「椅子とりゲーム」以来だったから、聴衆のほとんどが戸惑うのも無理はない。
後で知ったが、余裕ありげに椅子に座っていた数名は、この分科会の基調講演者にしてX大学助教授である銀田一好助の「愛弟子」、または「銀田一ファンの一般市民」だったのだ。こういう形の運営に慣れていたのである。
やがて、背広ネクタイ姿の二人の男が現れた。
「大学の研究者だ」と、久満子にはすぐ分かった。クラブで見慣れていたからである。
「師匠と弟子の関係じゃない。先輩後輩でもない。気のおけない同僚同士と言った所だ」と、久満子は推理した。
大学と言うのは人間関係においては意外と古い体質があって、下っ端研究者の指導教授に対する力関係は、まるで江戸時代の「徒弟と親方」みたいなのだ。
「徒弟と親方」が二人連れでクラブに来たとする。
「徒弟」は、クラブのソファに座っている時ですら気を抜かず、「親方」の一挙手一投足も見逃すまいとピンと緊張している。他の客では見られない一種独特な風景だ。
会社の上司と言い、接待相手と言っても、要は利害で結び付いているに過ぎない。
政治家や文化人は人気商売だ。意外と腰は低いものである。
学問の道、真理へと続く道とは、かくも険しいものかと、毎度の事だが久満子は思う。
四年制大学の学生など、大学人から見れば長期滞在の観光客に過ぎなかったのである。
だから、二人の大学人が和気あいあいとした関係である場合も、逆に分かりやすい。
【2】
教室前方の椅子二つには「講師席」と鉛筆書きされた紙片がセロテープで止めてあった。
入って来た二人は、その前に立った。片方が口を開いた。
「みなさま、ようこそお越しくださいました。本学助教授の銀田一好助と申します。
この分科会が知的生産性の高いものとなり、なおかつ、みなさまのお役に立つものとなるよう願っております。見ての通りの若輩者ながら、そのお手伝いをさせて頂きたく存じます。
こちらにおりますのは、我が尊敬する同僚、法学部の吉田隆先生です。ご専門は近代思想史および国際政治学。
今日のテーマを論じるに当たり、私が最も苦手とする部分をカバーしてくださいます。
吉田先生のお話を伺うのは、私も楽しみです。
私からの基調講演は、できるだけ短く切り上げ、後はみなさま、自由にご発言と言う事にしたいと思います。
それでは、吉田先生。ひと言ご挨拶を。」
銀田一は言葉を区切って、ゆっくりと話したが、気持ちが高ぶっているのは伝わって来る。
聴衆参加型シンポジウムと言う初めての試みに緊張しているのだろう。
久満子の経験上、こういう時は良い話を聞ける。
銀田一に吉田と呼ばれた研究者は、小柄で丸顔だがサッパリとした服装で、感じのいい笑みを絶やさなかった。
久満子は、その名を知っていた。最近、マスコミ上で良く耳にする名前だったのである。
吉田は口を開いた。
「みなさん、こんにちは。吉田と申します。ただ今、敬愛する銀田一先生から過分なお言葉をちょうだいして、身の縮む思いです。
私の場合、近代思想史と申しましても、主な関心はアダム・スミスとカール・マルクスとマックス・ウェーバーにあり、それで手一杯と言ったありさまで、政治学の方も第三世界の民族解放運動を主な研究対象として参りました。
元々は地味な分野だったのですが、ここ数年、たまたまベトナム戦争、中国プロレタリア文化大革命と言った大きな地殻変動が、私の研究領域周辺で連続して起きましたもので、こうやって他学部の方や一般市民の方の前で、お話させて頂く機会が増えました。
今日も浅学非才を顧みず、この通り、やって参りました。こちらの方こそ、よろしくお願いします。」
なるほど、場慣れしている。
二人の男は椅子に腰をおろし、ひと呼吸おいて銀田一が口を開いた。
「みなさん、余り肩ひじを張らず、リラックスして進めましょう。
ついては自己紹介もかねて、ちょっとしたゲームをやりましょう。
私は『好きな物の重箱重ね』と呼んでいます。
お題は「好きな映画」、「好きな映画俳優」または「好きな映画監督」です。
お名乗りは本名でもニックネームでも、どちらでも構いません。
ゲームと言っても、勝ち負けを争うものじゃありませんから、誰かが言葉に詰まったら、みなさんで助け舟を出して上げてくださいね。
それでは試しに、吉田先生と私とで、やってみましょう。」
銀田一は吉田の方に首を向けて言った。
「私は黒澤明が好きな銀田一です。」
吉田は事情を心得ているらしく、すぐ返して来た。
「私は、黒澤明が好きな銀田一さんの隣りに座っている、オードリー・ヘップバーンが好きな熊さんです。」
銀田一が、重ねて返した。
「私は、黒澤明が好きな銀田一さんの隣りに座っている、オードリー・ヘップバーンが好きな熊さんの隣りに座っている、『七人の侍』が好きなジミーです。」
「ああ、なるほど」と居合わせた一同が了解した。
確かに他愛ないが、遠慮と人見知りの氷を融かして、全員が全員と親しくなるには手頃なゲームだ。
このチャンスを見逃す久満子じゃなかった。
「私は(中略)の隣りに座っている、『僕の村は戦場だった』が好きな表久満子です。」
狙い通り、銀田一は「おや?」と言う視線を久満子に投げてきた。一瞬の事だったが。
「今はまだそれで十分だ」と、銀田一の視線を受け止めつつ思った久満子であった。