第一話 日常に訪れる異常
晴天に浮かぶ夕日が、少年の白く滑らかな肌へ橙の光を投射し、その白髪をオレンジに染め上げる。少女の様に可憐に整った顔を上げると、その眩しさに生気の抜けた目を細める。この少年、白花一華にとっては、修学旅行を明日に控えた高二の初夏の、憂鬱な帰路だった。この憂鬱さは、彼の人生にはいつも就いて回っていたものだった。
ポケットの振動が彼を家で待つ者からのメッセージを知らせるので、スマートフォンを取り出し確認する。
『晩ご飯は一華の好きなカレーだから、今日は早く帰ってきてね』
「早く…か」
自宅へ向かう足取りは重さを増す。高校生になってからというもの、公園やその他適当な場所で時間を潰すことが多くなった。この年頃であれば部活動や交友で時間を消費するのが一般的だろうが、人付き合いが苦手であることを自負し、恋人はおろか友人もおらず、部活動にも加入していない一華にとってはそれも不可能である。
この様に時間を潰すのは、専ら両親のことが苦手であるためだ。両親が今、自分に愛情を注いでくれているのはわかっているし、彼自身も両親を嫌っているわけではない。ただ、その距離感がどうにも微妙なのだ。
今日も時間を潰して帰りたいところだったが、先述の通り明日は修学旅行であるため準備をする必要がある。それに母も早く帰ってくるのを待望しているので、それも気遣った方がいいだろうとも考えた。
頭を空にしてしばらく歩き、自宅に辿り着く。家に入ると、母親の出迎えがあった。
「おかえり一華!今日の学校はどうだった?友達は―」
「あぁ、うん、いつも通りだよ。僕は明日の修学旅行の準備をするから部屋に上がるよ」
「…うん」
適当な返事で遮ってしまう。友達などいないし、今更作り方など分からない。修学旅行の班だって余り物として押し付けられた。それは母にとっても分かっているはずであるのにわざわざ尋ねるのは、淡い期待を込めてのことだろうか。
修学旅行の支度もさっさと済ませて自室で時間を潰していると、母の呼び声がした。
「ご飯できたから降りて来て〜」
「うん」
再度適当に返事をしてリビングに向かう。リビングまで行くといつのまにか父も帰宅しており、3人で食卓に着く。
「明日は沖縄に修学旅行ね一華!お土産話いっぱい待ってるからね…!」
「修学旅行か懐かしいなぁ…!父さんが母さんと付き合い始めたのもその時だったなぁ」
「…うん。」
会話が続かない。沈黙が訪れる。それは両親との間の奇妙な溝を嫌というほど思い知らせてくる。互いにどこかよそよそしく、所謂地獄みたいな空気というやつだ。家族間でこうなることが異様である。
結局、その後は特に大した会話もせず歯磨きや風呂など一通り済ませて床に就いた。自室のベッドに臥せながら、色々と考える。
(…明日は修学旅行だけど何が変わるわけでも楽しみなわけでもない)
(誰かと何をするでもなく、いつものように一人で過ごし、その後にはまたいつものような灰色の糞ったれな日常に戻るだけだ。)
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飛行機雲がたなびく初夏の太平洋上空。一華は窓の外に無限に広がる蒼から機内へと目を向ける。6月12日、皆にとっては待ちに待った沖縄修学旅行の日であり、一華にとっては何の変哲もない灰色の一部である。
「ウェ〜イお前何読んでんだよww」
「あっちょっ…」
「うっわエッロwww」
クラスで最も阿呆である山田が、不運にもその前の席に座っている牛田君に絡んでいる。牛田の読んでいたライトノベルを取り上げてその挿絵の性的であることを揶揄しているようだ。
「か、返して…」
「あ?お前は黙れよ」
「ちょっと市原くん、牛田君泣いちゃうよ~笑」
「うっわやばくねこれ〜笑笑」
懇願する牛田を叩き落とすように不良の市原や取り巻きの男女も加わる。一華の通う県立東雲高校は頭が良い方の高校ではあるが、一部このような生徒も存在する。
一華の座っている席は窓際であり、山田たちが座っているのはそこから通路を挟んで中央の3席並んでいる区画である。
周囲の乗客に白い目で見られていることにも気づかない。これを諌めるのは教師の役目だろうが、眠っておりそれもできない。
見ていてあまり気持ちがいいものでない上に騒がしい。何か言ってやろうかとも考えていたが、隣の女が先だった。
「ねぇアンタ達、うるさい上に見苦しいわよ。他の乗客の迷惑にもなってるし、制服でどこの高校かも分かるんだから少しは自覚しなさい」
「あ?やんのかテメー」
「沖縄に到着したらいくらでも相手してあげるわ」
「チッ…」
牛田に絡んでいた連中は不満そうに何やら小声で漏らすが、それ以上言い返すことはない。不良相手にも一切臆さない彼女の名前は十六夜紫苑。このクラスの学級委員長である。成績優秀で容姿端麗、正義感も強く曲がったことは見過ごさないため気の弱い生徒たちから支持されている一方、上述のような素行の悪い連中には嫌われている。
加えて空手部で全国大会出場経験のある実力者であり、以前教室で同様のことがあったときは殴りかかってくる不良たちをほとんど一瞬で倒してしまい、彼らがクラスで浮く原因にもなったことも嫌われる要因になっている。
そんな彼女であるが、爪弾き者の一華の隣の席になっているのは、彼女にそれほど仲の良い友人がいないことを暗に示していた。人望が全くないというわけではないが、それぞれの友人にはほかに隣に座りたい人がおり、成り行きでこの席に決まったというわけだ。
ここまで率直に物申せる人間は稀である。一華はそのことについて感心の意を表した。
「すごいね十六夜さん。迷いなくあそこまで言える人ってなかなかいないよ」
「あなたも何か言おうとしてたでしょ。私の方が先だっただけ」
「いや、僕は何と言おうか迷ってたから…」
「でも、ほとんどの人は見て見ぬ振りだから何か言おうとするだけ立派よ」
「そうかな…ありがとう」
謙遜とフォローを繰り返した後、再び窓の外へ目を向けると明らかな異常に気がついた。
黒い煙が視界を横切るように伸びている。
それがエンジンから噴き出していると理解するのに時間はかからなかった。
他の乗客もそれに気付き始めたようで、たちまち機内の各所で声が上がり始める。
焦燥、あるいは憤りが機内に充満する。
『当機は二基のエンジンを備えております!現在トラブルにより一方が停止しておりますが、もう一基が無事であれば飛行できますので落ち着いてください!』
なだめるようにアナウンスが喋るものの、その声からは機長の緊張が伝わってくる。
と、今度は爆発音とともにもう一方のエンジンから煙が噴き上がり、翼が途中から折れた。
それを目撃した乗客達は、怒鳴る者、泣き喚く者、あるいは諦める者など様々だが、殆どが絶望的な状況である事を察しているだろう。
兎も角、少しでも助かる可能性に賭けねばならない為、救命胴衣を着用して海への墜落に備える。
「え、嘘…墜落するの…?私達ここで死ぬの…?」
流石の紫苑の口からも弱音が漏れる。一華はそれを否定したいが、このような状況では何を言っても強がりにしかならないだろう。一華自身も、結局最後までうまくいかなかった両親との関係を思い、自分は親不孝者だったな、などと考える。
いや、毛布などはないが…彼女を抱き締めれば、自分の体をクッション代わりにして、彼女に加わる衝撃を少しでも緩和できるだろうか?
そう考えると体はすぐに動いた。
そして、目前に迫る死として、海面がぐんぐんと近づき…
全ては暗転した。