虚の告解【改訂版】
告解とは、「キリスト教の幾つかの教派において、罪の赦しを得るのに必要な儀礼や、告白といった行為をいう」(Wikipedia「告解」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/告解)
注)いじめを彷彿とさせる描写があります。
注)後半、やや食事中に読むと気分を悪くされる描写があります。
「文章が下手」とか「嫌な気分になった」とか、この作品から何か得られたものがあるなら、それをぶつける感じで感想をもらえると次の作品が書けます。
いつからか。
僕は彼女が、好きになっていた。
図書室のいつもの窓際の席で、つまらなさそうに墓地を眺めるその横顔が。
授業で教師に当てられた時に答える、淀み無い芯の通ったその声が。
彼女の仕草が、存在が、頭から離れなくなっていった。
ーー「それが『好き』っていう事だよ」
幼馴染は相談を持ちかけた僕に、寂しげな笑顔で答えた。
「好き」を気付いてからは、僕は更に彼女に夢中になっていった。その内に、彼女もそういう風に思ってくれている可能性に気付いた。授業の合間や昼休み、下校の時間にも彼女は僕の事を見つめていたからだ。澄み切った視線を向けられる度、僕は彼女の思いを感じた。
最初は否定されるのが怖くて踏み出せなかった告白も、彼女と僕の気持ちを通じ合わせるのに必要な儀式だと考えると、どうしてもやるべきだと信じられた。
この前の最終回だったドラマの主人公は、最後にヒロインに告白をし、結婚というハッピーエンドを迎えていた。「あなたが私を嫌いだったらどうしようと思った」。そう、さめざめと泣いたヒロインと同じ様な悲しみを、彼女に味わわせたくない。
先日、僕は一通の手紙を書いて、彼女の下駄箱に入れた。これが、僕と彼女のハッピーエンドへの第一歩であった。
手紙の時間までまだ後30分近くはあったが、待ちきれずに何度も駅前の大きな時計を確認してしまう。
スーツの男性、ランドセルを背負った子ども達……誰も彼もが目的の方に足を運ぶ中、僕だけが宙に浮いたような足取りだと思った。きっとドラマの主人公もこんな焦りを抱いていたかも知れない。
足下で何かを啄む土鳩でさえも、目的があるというのに、僕だけは周りから置いていかれたままだった。
「木下君」
思わず「あっ」と漏れそうだった声を口に押し留めた。振り返ると、そこには彼女がいた。
彼女は制服のまま、凛とした一本の水仙の様に佇んでいた。
先程とは反対の意味でちらと見た腕時計は、まだ約束の時間ではないと律儀に答えた。
「ふ、藤本さん、あの」
「私の話を聞いてからでも遅くないと思う」
本当に来てくれたんだという驚きと、彼女を見れた喜び、彼女に声をかけられた幸せで僕は心がいっぱいになった。
もしかするとこれは、彼女から、僕に気持ちを伝えてくれると言う意味なのかも知れない。
僕は大きく頷いて彼女の次の言葉を待った。
「誰だって、裏切られたくないでしょ」
やや投げやりにそれだけ告げると、彼女は踵を返して歩き始めた。
「ま、待って!?」
反射的に伸ばした手は空を切って、そのまま戻ってきた。
だが、少し考えれば彼女の真意は分かった。この人がごった返す駅前の空間は、彼女の告白には相応しく無いからだろう。本当は今すぐにでも彼女に気持ちを伝えて安心させたかったが、彼女がそう言うからには仕方が無いと自分を納得させ、それでも手くらいは繋ぎたかったなと残念に思った。
はしゃぐ心臓の音を抑えつつ、地面を踏みしめる感覚を一歩一歩感じていた。無言で彼女の後ろを歩くだけなのに、どうしても心が踊ってしまって仕方がない。これは、先程まで彼女を感じられなかった心の反動かも知れない。
公園だ。既に傾いた西日は、無人の遊具の群をおざなりに照らしていた。
彼女は一番手近なベンチの端に腰掛け、こちらに視線をよこした。
僕が座ろうとしたその時ーー僕の頭に「付き合ってもいない男が密着しちゃダメ!」という幼馴染の言葉が閃き、寸前で彼女と少し間を開けて腰掛ける事が出来た。女性はこうした細やかな気遣いに惹かれるのだろう。これで、また一つ。僕は彼女とのハッピーエンドへの道のりを進んだのだ。
「話が話だから、場所を変えたかったの」
構わないよね? と彼女の目は問いかけており、僕は小さく頷いた。
彼女は少しほっとした様子だった。だが、その先が早く聞きたくて仕方がなかった。
「それで、お返事は……」
僕は気が逸ってしまい、つい身を乗り出して尋ねてしまった。
返事を急かすのは度量のある態度では無いかも知れないが、手紙に書いた『付き合う為に僕の気持ちを聞いて』の返事位は先に欲しがっても仕方がないだろう。
「保留させて欲しい。ああ、別に一日も二日も掛かる訳じゃない。さっき言った通り、少し長いが話を聞いて欲しい、それだけだ」
彼女の底光りするような目に射竦められ、僕は二の句が継げなかった。
それを肯定と受け取ったのか、彼女はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。それはまるで小雨の日の雨樋から伝う水滴のように、しとしとと地面に吸い込まれていく様だった。
「私は、君が思うような人ではないんだ」
ーーーーー
私は、人を大切にできない。
それは他人はもとより、自分さえも。
私は、「大切にする」という言葉の意味を忘れてしまったのだろうか。今ではそれさえも、分からない。
きっかけは何だったのか。
だが、私は私としての道を歩むのに、少々生真面目で優しく純心で、脆かった。私は自分が故障したのではと疑っている。
朝食では、祖母が母の悪いところを論った。母は私の悪いところを論った。弟はそれに便乗した。
『人の嫌がることはしてはいけない』
肯定。論理的正当性を認める。人の嫌がる事である、論う連鎖は私で断ち切ろう。
『大人の言うことは聞かなければならない』
肯定。論理的正当性を認める。大人に養われる子どもの反論は認めるに能わない。
学校に行くには『安全のために』トモダチと待ち合わせなければならなかった。
肯定。論理的正当性を認める。不審者と出会った場合は私一人を囮として他を救える。
待ち時間は30分。
学校まで徒歩で10分。
トモダチとは何も話さない。ただ一人で歩いた。そしてしばしば遅刻した。
『きまりは守らなくてはいけない』ので、トモダチと一緒に遅刻するのが、どうしようもなく嫌だった事があった。
トモダチときまり、どちらを優先して良いか、分からなくなったのだ。
親は言った。『一番私を大切にしている』『大人の言うことは聞かなければならない』と。
肯定。論理的正当性を確認。論理的矛盾は解決されない事こそが正当である理念を獲得。
「あなたのためを思って」という、親のやさしい心を、裏切りたくなかった。否定すれば、また矛盾が一つ増えるから。
学校の廊下に、笑い声が木霊する。
「死ね」。
「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」……、皆、楽しそうだった。
私は、本当に死んで欲しいのかの確認を取る事が必要だと判断した。
手摺りに両手と片足を掛けて確認したのが悪かったのか、それを見たい、面白いと思う人々が私に聞こえるように、囁いていった。
私の生を肯定する者はいない。
私はこう思った。
『皆が笑っていられれば、大団円じゃないか』
私一人で皆が幸せになる。
それこそ『民主主義的な多数決』、もとい最大幸福なのではと信じた。
椅子の上の画鋲を見た時、何故か分からないが衝動的に指を刺してしまった。ぷつりと開いた穴から、皆と同じ赤い血が盛り上がるのを見て、どこかで安心していた。
一番億劫に思えたのが、部活動だった。
私は運動が苦手だ。
失敗すると、指導者に叩き飛ばされた。その平等な体罰に、多くの子どもは耐えられるはずもなく……私に収束した。
物は奪われ、壊され、私が意に削ぐわないことをするだけで泣き叫んで……私が責められた。悪い事をした自覚の無い私は反省の仕方も分からず、イライラをぶつける手頃な道具でしか無かった。これこそが、『民主主義的な多数決』の縮図だと、私は信じて止まなかった。体育館の床は、ひどく苦くて塩辛かった。
家に帰ると、弟に理由もなく叩かれる。眼鏡が吹っ飛んで、伸ばした手には靴裏の模様が刻まれた。
『全ての人の罪は私が原因』『罪の責任を取るのに罰は甘んじて受ける必要がある』
肯定。論理的矛盾は見受けられない。罪は、どんな形であれ、償われるべきだからだ。『弟は唯一の肉親だから大切にしなければならない』ので、弟が「私のために」と言う事も尤もだろう。
そんな日常の中で、私は、いくつかの感情を忘れてしまったのだと思う。思う、というのは、失ったものの形さえも忘れてしまったからだ。
楽しいとは。悲しいとは。どんな時に怒るのか。
心が弾んで歌い出したくなる感覚や、心が傷つけられて血を流す感覚も、わからなくなった。
いつも本に出てくる人々の事が、まるで分からなかった。それでも、本に出てくる人々から何かの感情を得られないかと、彼等の心理描写を読み耽っていた。
肉体的な刺激は分かりやすく、殴られれば痛いことが有り難かった。皆と一緒に殴られる事で、私が最低限、一人の人間と扱われていると信じることができたからだ。
ただ、それも長続きはしなかった。
ある程度痛みに慣れてしまうと、体は、次の生きている証明を求め始めた。
好き嫌いを忘れ、表情を忘れ、人生は正午も迎えていない。大人になってからの方がいじめは多いと言う。こんな子供騙しな世界ですら苦しむ私は、社会不適合者と揶揄されるに違いない。社会に必要ないのならば、社会で生きる権利は得られるのだろうか。就職する前、出荷間近になって、首を刎ねられる家畜になりはしないだろうか。
いま、ベランダから飛び降りれば、私はこれ以上苦しまずに済むし、人々に不快な思いをさせずにも済む。それは非常に合理的な判断と思い家族に相談すると、私は母にぶたれた。
私の葬儀に金がかかる上に、私は金を稼いでいない。今現在は借金をしながら生きているのだから、返済義務を踏み倒してはいけない。それに、『そんな大した事じゃ無いのに苦しむのはおかしい』そうだ。
私は、自分が苦しんでいる姿が滑稽に思えて笑った。そして、自分を殴った。痛みがあるのが楽しくてまた笑った。
本の、古びた紙の文字を撫でる。「彼女は、ケタケタと笑った。ーーもう、壊れてしまった様だ」。私は壊れているのだと知れば、何かが軽くなった。
私は、私を覗き込んだ。そこにはもう中身が無くて、空っぽになっていた。
私には、もう何も無かった。
一人前の人間が、木の虚の様に空虚な私を好いても、幸せになる事はないだろう。既に、一緒に笑い合い、怒り合う心はどこかに落としてしまった。
私はもう、人を大切にすることも、共感することも、ましてや愛することなんて……無いのだから。
ただ生きているだけの肉人形には、構うだけで時間を浪費してしまうに違いない。
ーーーーー
「だから、君が私を好くのは自由だが、私にはその価値は無いんだ。これでもまだ、私と付き合おうと思うかい?」
僕は、すぐに返事ができなかった。彼女の言いたかった事を頭に入れるのには、少々時間が掛かった。
頭上ではざわざわと、黒々とした葉が擦れ合い耳障りな音を立てていた。公園の薄暗い街灯の下で、彼女の表情は翳って見えた。
正直、僕には彼女が言っている意味が全く分からなかった。付き合う事に、彼女の過去や思いは必要ない。僕達はそんなものなんて吹き飛ばして、幸せな結末を迎えるんだ。
僕は少しの間、彼女の意図を考えていたが、結局よく分からなかった。盛り上がった気持ちが落ち着いた分、慎重に事を進める余裕が出来たのが良かった。
やや間を置いて、僕はすっかり重くなった口を開いた。
「藤本さんが、とても可哀想な目に遭ってきたことは分かりました。でも、でも! そんなのは関係ない」
彼女が何かを言ってしまう前に、僕は言った。
「……ぼ、僕は、あなたのことが好きなんです」
やっと、このシーンを迎えられた。だが彼女は、すぐには何も言わなかった。
僕はすぐに居た堪れなくなって、自分の気持ちの告白を続けた。
「その誰にも流されないところとか、物静かに本を読む姿に惹かれたんです。それに、今の藤本さんを見ていて、本当に感情が無いだなんて思えない。掃除だって当番じゃ無いのに付き合ってくれるし、物事を正しく判断してくれるし、言うべきことは言ってくれるし、とても頼りになります」
「……」
「それに、たまに髪が跳ねていたり、ちょっと天然みたいなところがあって、とても可愛い」
恐らく、辛い思い出を引っ張り出して心が傷ついている彼女を慮ろうと、頭を軽く撫でようと手を伸ばした。
彼女は頭に僕の手が触れるとビクッと大きく震えた後、無抵抗で僕の手を受け入れた。やはり、彼女ならば僕を受け入れてくれる。
「すみません。やはり、貴方とは付き合えません」
ややあって、彼女はきっぱりとそう答えた。
「えっ、で、でも……」
何故、どうしてという思いが次々と湧き出しては口をついて出そうになるが、明確な言葉になる前に消えてしまう。
「私は、貴方の差し出すものを返せない。はっきり言って、貴方の感情が負担だ。貴方のように、他人を大切にすることが出来る人は、もっと他の人を探した方がいい。こうは言っては何だけど、深谷さんみたいな女子と付き合った方がいい」
深谷さんは、僕の幼馴染だ。藤本さんに告白する僕にあれこれと口を出してきた口煩い女子だ。
何故藤本さんは深谷さんの名前を出したのだろう。僕が深谷さんと付き合っている様に見えたから? 冗談じゃない。
「ぼ、僕は……藤本さんがいいんだ」
「知っている」
勇気を振り絞った二度目の告白も、すげなく断られた。
どうして……と膝から崩れ落ちそうになり、はずみでポケットから落ちたハンカチは、地面に出会う前に彼女に拾われた。
「君が私のことを好いているのは、アブラゼミより鬱陶しいからよく分かる。無意識だとは思うが、常に私の半径3mにいないと落ち着かず、私を見ると笑顔になり、視線を彷徨わせれば私に行き着き、下校時もギリギリまで私の後を追う。私はその気持ちを踏みにじりたくは無いし、貴方を傷つけるのも本位では無いが、ここははっきりと言うべきだと知っている」
彼女が僕のことを見てくれていて嬉しい反面、僕の気持ちは第三者から見ると分かりやすかったのかと少し恥ずかしくなった。
彼女は覚悟を決めて、こう言った。
「その行為はストーカーで、気持ちが悪いからやめてほしい」
「あ、え……」
「そんな人とは付き合えない。せめて、自分がやられて嫌な事はしないで欲しい」
呆気に取られていた後に、彼女の言葉が耳から沁みていくと、次第に胸がちりちりと痛み出した。
僕がやっていた事は、彼女にとっての嫌がらせだったらしい。もし、彼女が僕を好きじゃなかったら。こっそり家まで後を付けられたら。ずっと見つめられたら。席替えで隣になる様にクラス中に頼み込んだら。ちょっと嫌だなと思うかも知れない。
でも、それを分かっていたのならどうして言ってくれなかったんだ。嫌ならば嫌って言えばいいだろう。僕の勘違いをそのまま通して、僕をここまで傷付けて弄んだのは、目の前の彼女だ。
幸せを抜かれた風船がもう一度膨らんだのは怒りの為であったが、それが破裂する事は無かった。
なぜなら、彼女の目が、拒絶ではなく憐憫を浮かべていたからだ。彼女は本当に、僕のためを思って僕にこう言っていた。
「ーー私一人の犠牲で、皆が幸せになる」。そう言った彼女は『笑顔』だった。彼女はずるかった。僕の怒りも、悲しみも、恋さえも、受け取ってはくれない。分かち合おうともしてくれない。
僕の言葉じゃ、彼女に響かない。
人のためにしか生きられないと語った彼女が、少し分かった気がした。僕の淡い恋心は彼女に止めを刺された上で、息の根まで止められた様だった。
彼女は僕の手にそのハンカチを握らせた。
「あ、ありがとう」
「次からは気をつけて」
彼女は荷物をまとめ始めた。
もう帰ると言わんばかりである。
僕の中はさまざまな感情でいっぱいだった。
ぐるぐる回っては落ちて、また浮かんでは消えていく、シャボン玉の様だ。
それでも何かを言わないと、と口を開いた。
「僕は、こ、こ……告白して良かったのかな」
そんな中言葉になったのは、こんな下らない問いだった。
「私は……これで、貴方にとって良かったと思う」
既にベンチを立っていた彼女に再び伸ばした手は、何も掴むことができなかった。最後まで、彼女には僕の手は届かなかった。
彼女のいなくなったベンチで少し自分の姿を思い直すと、惨め過ぎて笑えてしまった。
前を向いて生きていく事しか彼女は許してくれなかったから、僕は僕自身の愚かさを直視しなければならなくなったのだ。
僕の手に残されたのは、少し湿った一枚のハンカチだけだった。
●
ちゃんと断れて良かった。
少し昔話が長くなってしまった事に加え、昔話が哀れさを誘っている様に聞こえた事は次回以降の反省点にしたい。
男性で、意味の分からない行動をする人物と話をするのは正直怖かった。特に、直接接触された時は体が硬直してしまった。
「どけよ、歩行者危ないぞ!」
間一髪で道を譲った。物思いに耽っていた為に、歩道を走ってきた自転車にぶつかりそうになったのだ。
ぶつかって、もしあのおじさんに賠償金が発生したら申し訳が無かった。
しかし、あのままぶつかっていたらどの様な事故に発展したのだろうか。ふとそんな事に興味を持った自分を嗜める。それは、社会にそぐわない発想だ。
私には、好き嫌いは無い。
悲しさや嬉しさ等で心が動く事は無い。映画を見て泣く事も、理不尽を強いられて怒る事は無い。ただただ時間を取られて煩わしい。私の胸は空っぽで、もうそこには何も無いからだ。
しかし、『嬉しい事があったら喜ばなければならない』らしい。その都度で、必要とされる感情がある。私は、沢山の本から、周りの人間から、その都度の感情を学習した。
あのおじさんとぶつかった時は怒りを感じるべきであったが、同時に恐れても良いので何も応答しなくても良いと判断したのだ。これが正解かどうかは、分からない。
だから、私が優しく見えるのは、私が与えてもらいたかった事を相手に為しているだけで、相手への思いやりや優しさは一分たりとも含まれていない。いつ牙を向かれるか分からない獣に、餌付けをしているだけだった。
私は、目に映るもの全てが怖かった。
訳の分からないものに囲まれ、命を脅かされるのは、誰だって怖い。
ふと目をやると、小型犬を散歩しているご婦人が見えた。
あの犬もきっとこの足で首を踏めば死ぬだろうし、ご婦人も首をへし折れば死ぬだろう。それは、その気があれば私も簡単に殺されるという事を意味している。
瞼を閉じると、今でも知らない男性が包丁を振りかざしている姿が焼き付いていた。私が小さな頃の記憶だが、今でも鮮やかに思い描ける。
もしあれに刺されていたら、死ぬまでにどれだけの痛みを感じていたのだろうか。
焼肉屋では、窓を覗くと肉の切れ端が網の上でジュウジュウと音を立てて焼けていた。
背ローズや、タンやらレバーやらと呼んでいるが、あれは、死体から引っ張り出して腐る前の背筋や舌、肝臓といった屍肉である。
目に入る動物がすべて、あの赤身と臓器と骨で出来ている。その点だけで、彼等が自分と同様だと安心できる気がする。
先程の犬だって、毛を剃って皮を剥けば筋繊維と骨が見えるに違いないからだ。
「君の気持ちは分かるよ」と言ったのは誰だったか。そうして口だけで同じ文言を唱えるよりも、中身を取り出して眺める方が、余程確かな証拠となるに違いない。
確かめてみたい、と思う。だが、想像を行動に移してしまう程、私は馬鹿でも空想家でも無い。
現実と想像との壁はよく認識しているし、定められた規範を守っていれば生存を許されるのだから、敢えて危険を冒すのは愚策だ。
それに、解剖は授業だけで十分満足している。
きっと、私は狂っているのだろう。多くの本を読んだ経験から、そう自己評価を下している。私の中身を見れば、少なくとも、クラスメイトからはそう判断されるに違いない。
もし、彼と付き合っていたら、それがいつ暴露されるか分からなかった。
私はいつでも社会の異物だった。体内と同じように社会には免疫機能があって、その異物を排除しようとするのだろう。
違うものは悪いものとして追い出される。それは、大衆という同じレッテルを貼られた細胞を守るためだ。
免疫機能は異物を炙り出す。例えば、『空気を読む』といった方法で、大衆と異物とを区別する。
私は、目に見えないそれが無性に怖かった。
もうすぐ家に着く。
母は仕事で疲れており、これ以降の家事は全て私の仕事であった。
『本日の楽しかったこと』は、木下君とのお喋りと言っておけば、家族は納得するだろうか。
笑顔の練習をしながらイメージトレーニングをしている内に表札が見えてきた。
今日は弟に殴られて、痛いという反応を見せるべきか悩む。日によって、痛い思いをしている姿を見せた方が早く終わる事もあるからだ。弟は私を殴る間、時間を浪費してしまうので、いつも申し訳なく思うのだ。
一瞬、誰かに後ろ髪を引かれた様に体が動かなくなった。だが、私はそれを無視して無理やり足を前に運んで、家の扉の前に立った。ギギギ……と古い木製のドアが軋む音が、ひどく耳に障った。
滑って粘着く空気の中、私は口を開く。
「ただいま」
一般受けはしない事を重々承知しておりますが、あなたの執筆活動の糧として頂けたら幸せです。
元の自作の方に、元の文のですが、陳腐な解説があるので、どうしても気になった人はどうぞ。