悪夢
「これもう介護じゃん」
「えー、炎樹にやってもらうと気持ちいいんだもん。いつもありがとうね」
「……老いぼれ」
熱気がお風呂場の中で充満する。
ぼくはいつも通り、炎樹に体を洗ってもらっていました。
ヒノキの匂いが香る、風情のあるお風呂。正面にある鏡は湯気で曇っているため、ぼくがぼやけて映る。
髪を洗い終わったのでしょう。ぼくの頭がシャワーで流されます。
相変わらず、炎樹の手つきは良いんですよねぇー。
「どっちが姉なんだか」
炎樹がため息と共に嘆く。
炎樹とぼくは2歳離れています。
なのに身長は妹の炎樹の方が、ぼくよりも20センチ以上デカいんですよね。
中学生にして身長160センチ。ぼくなんて135センチしかないって言うのに。
お胸もまぁとにかく育っていまして。ぼくと比べれば月とすっぽんくらいの差があります。
なんというか、カボチャって言うんですかね。出るところは出ているスタイルの良さです。
最近だと、よく炎樹の方がお姉ちゃんみたいって揶揄われることが多いんですよねぇー。
なのでぼくは、ふざけて炎樹を上目遣いで見る。
「次は身体洗って、お姉ちゃん」
「はいはい」
まんざらでもなさそうな顔で軽く流すように言った炎樹は、ぼくの身体をボディソープで洗ってくれる。
ちなみにぼくが身体を洗うと、固くなるんですよね。皮膚が。
すぐ真っ赤になりますし。何なら滲みますからね。
そんなに力を込めていないのに。
ちなみに髪も同様です。
ガリガリやってたら炎樹に、「髪が傷つくでしょ!」って叫ばれまして。
炎樹が小学校中学年あたりから、毎日髪を洗ってもらうようになりました。
なんだかんだ暴言を吐きますけど、炎樹の手つきはかなり優しい。
やっぱり炎樹はツンデレですね!
* * *
ぼくはぬくいお風呂から出る。
これまた炎樹に髪をドライヤーで乾かしてもらう。
それから居間に戻ったぼくは、冷蔵庫からキンキンに冷えた牛乳を取り出していた。
早く大きくなってと願いを込め、火照った体の腰に手を当て、一気に喉へ流し込む。
これで少しは身長が伸びればいいんですけどね。ほんと、身長だけでいいので。
「歳考えろよ」
タオルを首から提げ、下着姿でうろつく炎樹が半眼で言ってくる。
お風呂の時は優しめなのに、出たらすぐ悪口を吐いてくるんですから。
ぼくはちょっと得意げな顔で、炎樹を指さした。
「諦めたらそこで成長は止まるんだよ、炎樹」
「人を指さすな。もう育ち終わってんだろ」
炎樹がぼくの胸に目線を合わせてくる。
「大器晩成、これからです」
「もう10年近く育ってないのに?」
「別に欲しいのは胸ではなく、身長なので。炎樹くらい大きかったら、むしろ自分で捥いでます」
「大差なくね?」
どうでもいいと、炎樹は下着姿のまま座布団に座り、早々にスマホを手に取った。
居間のカーテンは常に全開していて、シャッターなんてものもない。
いくら家を囲うように塀があったとして、外からは丸見え。ぼくとしては服を着てほしいところです。
* * *
飲み終えた牛乳瓶を洗い場へ置きに行った直後のことでした。
ブルブルとぼくのスマホが振動し、テーブルを鳴らす。
手に取って開いてみると、チャットアプリのライムからメッセージが届いていました。
相手はいつも通り、秋野先輩。
今日も怪異を撮りに行く活動のようですね。
少し寝る気分でいたぼくはひとつあくびを溢してから、了解ですと返事を送る。
「行ってくるよ」
「アッソ」
興味なさそうにスマホを弄りながらも、返事はしてくれる炎樹。
見えないだろうけれど、ぼくはクスリと笑みを浮かべていた。
それから速攻でぼくは自分の部屋へと戻り、動きやすい恰好へと着替える。
額縁にかけられている刀を手に取って、ゴムで後ろ髪をひとつに纏める。
念のために両親にも出かけることを告げ、ぼくは外靴に履き替え飛び出した。
* * *
……
…………
………………
蹂躙。
その言葉が生易しいほどの虐殺が、ぼくの行く末に広がっていた。
女子供問わず、多くの人が鋭い刃物で斬り刻まれる。
悲観するように泣き叫び、現実を受け止めきれず悲鳴を上げ、僅かな希望を持って助けを懇願する人々。
誰でもなく、見覚えのない人々を、殺戮者は狂気的な笑顔で首を跳ね飛ばす。
鮮血は空色を染め上げるかの如く噴き出す。
斬られた端から、ばたりという倒れる音共に、人の体は糸が切れた人形のように地に伏しる。
水溜りのように広がる血だまりの数は百を超え、緑豊かな草原が一面深紅に彩られていく。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
ぼくは胸から込み上がる、「止めてください! こんなのが何になるんですか!」という言葉を叫ぼうとする。
言葉は出なかった。
言霊は外へと飛び出さなかった。
いや、もしかしたら出ていたのかもしれない。
だって血の匂いがしないから。生きている触感もないから。血の匂いがしたときの、キュッと引き締まる味覚もない。
そう、まるでビデオです。聴覚と視覚にだけ訴える映像。
今から起こったことではなく、過去に起こった出来事なのかもしれません。
そうと認識した瞬間、ぼくはどうでもよくなってきました。
言葉を放つわけもなく、ただ茫然と視界に広がる光景を見るだけのロボットです。
頭が空っぽになっていく。
日常、現実とはかけ離れた光景に。普通の人生ではまず見ない景色に。
視界がぼやけて行きました。
暁の浮かぶ赤空にピシッと亀裂が走り、ガラスの割れる音共に世界が崩壊する。
同時にぼくの意識はぐにゃりと渦巻くように歪んでいく。
もうこの地獄を視なくていいと、安堵で心底心が楽になる。
夢に落ちるような朗らかで夢見心地の気分になってくる。
ドサッと、すべてが終わった後に、ぼくも崩れ落ちた。
みんなと一緒に崩れ落ちた。
――カンッ!
同時に、ぼくの視界に恐るべくものが映った。
冷水が一気に全身を駆け巡った気分だった。
触感は無かった。無かったんです。視覚と聴覚しか本当になかったのです。
だから分からなかったし、気づかなかったんです。
ずっと斬っている人が映らなかったので、分からなかったんです。
――まさか、ぼくの手に血塗れの刀が握られていたのを。
………………
…………
……
「はっ!」
ぼくは上半身を起き上がらせて、その場を見渡します。
――暗い。
けれど鼻を嗅ぐわす、ちょっとしけった臭いがぼくを現実に引き戻してきます。
段々意識がはっきりとしてきます。
それからぼくは、秋野先輩の車に乗っている途中、眠気に苛まれて気絶していたのを思い出してきました。
ということは、ここは秋野先輩の車の中でしょうか?
窓の外を見れば、車が走っているのが見て取れます。
「随分うなされてたみたいだけど、だいじょぶ?」
運転席から秋野先輩の声が聞こえてきました。
その言葉でぼくは完全に現実へと引き戻されました。
濡れた服が肌に貼り付いて、少々気持ち悪い気分です。
せっかくシャワーを浴びてきたのに、帰ったらもう一度入りなおしですね。
ぼくは何回か深呼吸をします。
それから目を閉じて瞑想。ゆったりとした呼吸を意識して、バクバクと鳴る心臓を静かにさせます。
最後に、十分気分が治まったと感じたタイミングで、ぼくは目を開けました。
「……大丈夫です。替えの服とか持っていたりは」
「その年になってぇ? ちょっとその辺に停めるね」
からかい交じりの口調で、秋野先輩が車を運転し、手頃なパーキングエリアに停めてくださいました。
こうなったのもあの夢が原因……。
少し恨みがましい思い半分でぼくは自分の服を半分ほど捲ったところで、ふと思ってしまいました。
どのような夢だったんでしょう?
悪夢だった、というのは覚えているんです。けれど、その後の、何がどう悪夢だったのかを思い出せないのです。
夢だから記憶にないのはそうなんですが。それでも夢を見たのなら、夢を見たという実感はあるはずなんです。
悪夢であればなおさらに。
しかしその片鱗さえ思い出せない。
秋野先輩はバックドアから着替えを取り出してくれました。
裏から直で渡してくれましたので、ぼくは元々着ていた服で汗を拭い、ささっと着替え終わります。
着替え終わった後、ぼくを襲うのはダボダボな感触。
秋野先輩とぼくとでは、文字通り高校生と小学生ほどの差がありますから。サイズが合わないのも仕方ないですね。
着ていた服を畳んで、後部座席の隅に纏めていたぼくに、秋野先輩は言います。
「もう少し服を大事にしようよ」
「炎樹にも言われますね。しかし、もう既に遅いのですからいいじゃないですか」
「何そのやっちゃったからにはさらに酷くしようかな、みたいな」
「毒を食らわば皿まで、ですね」
「使い方はあっているんけど意味が違う」
秋野先輩はついでに、ちょっと変な臭いの漂う消臭剤を取り出してから、車に戻りました。
消臭剤を掛けると、少々臭っていた汗特有の酸っぱいにおいが途端に……まぁマシになったと思います。
秋野先輩は再度エンジンを掛けて車を走らせます。
ちなみに料金はぼくが払いました。
ぼくは秋野先輩に聞きます。
「それで、今回の怪異はなんでしょう?」
「満月の日だからね。だから今回は心霊でいこうと思う!」
「心霊と怪異は違うって力説していませんでしたっけ?」
「たまたま目についたんだし、いいんじゃない?」
これまた適当ですね。
いちおうぼくたちの学校には、オカルト部も存在しているんです。
こちらは心霊・妖怪・超常現象といった分野を研究なされているそうです。
要は何が言いたいかといいますと、心霊に関しては新聞部ではなく、こちらのオカルト部の分野なんですよね。
勝手に取材して記事にしたら怒られると思いますよ?
ただでさえ二部は対立しているというのに。
まぁでも、
「ぼくは秋野先輩についていきますよ」
「おっ、流石あたしの助手! 良いノリ!」
「怒られるのは秋野先輩だけですので」
「えっ……いや、少しくらい庇ってよ!」
「いざとなれば庇いますよ。例えば超常現象を使ってきたとき、とかなら」
「それ庇ってくれないフラグじゃん!」
秋野先輩は少しプンスカした様子で、車のギアを上げます。
どうやら後のことなんて気にせず、かっ飛ばしたい気分のようですね。
大丈夫ですよ。きちんと庇います。
ぼくはこの何でもない新聞部が大好きなんですから。
* * *
「私と只野さんの恋路を邪魔するなんて許さないわぁぁぁ!!」
という訳で場所は変わってぼくです。
現在依頼人の部屋に居ます。
そしてレーザーポインターの如く、真っ赤に充血した眼を血走らせた悪霊と思しき者と相対しています。
部屋全体を覆い隠すほどの巨体からは、不思議と凄まじい威圧まで感じてしまうほどです。
そう、こうなったのは数時間前のことです……。
次は24時に投稿できたらいいなぁ。