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紀元前209年。中国全土を支配した始皇帝は、病床に付していた。体はやせ細っていくばかり。手足は震え、天井に向かってうわごとを吐く始末。戦に明け暮れた若き日の勇ましい面影はもうなかった。
巡遊の途中、始皇帝は虚ろな目で窓の外を眺めていると、東の空に黒霧が立ち込めているのを見た。あれは何か、と同じ馬車に乗る側近に尋ねるが、側近は目を細めるばかりで、何も見えていないようであった。
その晩、始皇帝は使いを出し、黒霧の正体を明かせと命じた。もし見つけられなければ手足を馬に繋げ四つ裂きだ、と。しかし命を受けた使いは、その日から行方を晦ましてしまうのであった。
それから半年ほど経ったある日、始皇帝のもとに竹簡が届いた。そこには使いに出た理宇という男の筆跡で、こう書かれていた。
『神聖にして、偉大なる皇帝陛下、先日お申し付かりました黒霧の件について、ご報告いたします。率直に申し上げますと、あの黒霧は、けっして呪いなどではございませんので、ご安心くださいませ――』
「何を言う、おぬしもあの黒霧をみたであろう。あれは煉獄から舞い上がった煙に違いない。世を恨む者数知れず、ついに亡者どもが復讐に参ったのだ! 朕は!」始皇帝は城内にいる従者には見せられぬほど怯え切った表情で言った。
それを見ていた側近は、内心あきれ、しまいには怒りもこみ上げてきたが、そんなことで引き裂きの刑にでも処されてはごめんだし、本来の目的を見失いたくはなかったため、あくまで慇懃に振舞い、言った。
「陛下、お気を確かに!」
始皇帝は続きを読み始めた。
『どこから話せばよいのやら、わたくしには判断しかねる故、はじめから順を追ってことのあらましをご説明いたします。あれはたしか、陛下から命を受けて一月が経った頃のことでございました――』