強欲な令嬢達
「我儘を言うフィーネリアが好きなんだ。」
「いっそ清々しいなお前。」
ぐしゃバキィ!と無表情な殿下の手元から、音がする。
思わず視線を向けると、そこにあったはずのクッキーが跡形もなく消え、粉が舞っているところだった。
あれ?クッキーが入ってた箱は?あれ?
対するレイモンド様は、けらけらと声をあげて笑っている。
この空気でよく笑えるものである。
「だって殿下、子供の頃からずっと知ってたじゃないですか。」
「だからって平然と口にする奴があるか主の婚約者だぞ次期王妃だぞ耐え忍べ世界中のロマンス小説に土下座しろ。」
「殿下って素でキレると早口になるよなあ。ていうか……ロマンス小説読むの?」
「母上が無理やり読み聞かせてきただろ忘れたのかお前も一緒だっただろう!」
「ああ…素敵な紳士になるためにとかよくわからない理論と、物理的な力に押さえつけられて聞かされたねぇ…。殿下、意外と真面目に聞いてましたよね。」
「…お前は母上の目を盗んで寝る天才だった。」
あー…、あった、あったあった。
キラキラと光るような美貌と、菫が揺れるような可憐なお声が紡ぐ恋物語は、時に悲しく、時に優しく、そして美しかった。
わたくしにとっては、殿下やレイモンド様、王妃様とご一緒できた良い思い出の一つだ。
今も変わらず輝く、殿下の銀糸と、騎士として常にお傍にいるレイモンド様の燃えるような赤銅色は、あの暖かい景色を呼び起こしてくれる。
懐かしいわね、なんて幼き日の思い出に意識を飛ばしていると、最近、金色の聖女とか呼ばれている少女が勢いよく振り向いた。
「ちょっと待ってつまりはどういうこと…?!ってちょ、フィーネリア様?!」
そうそう、どこかの世界でOLをする“私”が手に取るもプレイしなかった、あのゲーム。ライバルキャラとして主人公の邪魔をしまくる伯爵令嬢がそんな名前だったわーって、わたくしがその悪役令嬢なのよねと頭を抱えたい気分でいると、金色の聖女(笑)エリーゼ嬢が、きゃあ!と悲鳴を上げた。
「フィーネリア様、顔がおかしいですけど大丈夫ですか??!!」
100回張り倒してやろうかこの小娘。
奇跡の美女たるわたくしになんですって?「顔、じゃなくて顔色だろ」とかツッコまないわよ天然キャラにありちなボケ挟んでくるとはさすがヒロイン、っていや今そういうのいらないから!
落ち着け、落ち着け、落ち着け。落ち着け。
わたくしは次期王妃、王太子殿下の婚約者であるフィーネリア・ディ・ラジーアント。これしきで狼狽える女ではない。
わたくしが自分を見失う事があるとすればそれは、
「フィーネリア、顔が真っ赤だよ。」
いや今そういうツッコミも全くもってこれっぽちも求めていないので、嬉しそうな顔をしないでほしいな?!
レイモンド様に指摘され、余計に体温が上がるわたくしを眺めて、殿下は無表情を深めた。
て、え。無表情が深まるってどういうこと。無表情って極めたらそんな顔になるの?
「フィリア?それは不愉快が故の怒りで真っ赤なのだろう?」
そういう、黒い物を白と言え的な圧迫系ツッコミも求めていないのでドス暗いオーラをしまっていただきたい。
ひっ!とエリーザ嬢から漏れた小さな悲鳴は聞こえないふりをして、わたくしはにっこり微笑んだ。
「まぁ、わたくし、なんのことだか。」
「え、フィーネリア様それは無理があるんじゃ。」
「そういうところも好きだよ、フィーネリア。」
「ビキビキボコォ!」
やだ聞き間違いじゃなかったわー☆って怖い怖い怖い怖い殿下の隣にある柱が一部砕けているんだけど!殿下の長い指が損傷部分に添えられているんだけど?!ねぇまさか砕いたなんてあるわけないわよね?!
無視したい現実が多すぎて固まるわたくしとエリーザ嬢を置いて、レイモンド様は声を上げて笑った。
「殿下がこれ以上ないくらい動揺しておられる」
「俺の騎士でなければ今頃その胎が立つ顔は地面だぞ」
「あなたの騎士でなければ遠慮なく連れ去りましたよ」
ね。て、やだこっちを見ても知らない知らないやめて。
レイモンド様は、少し吊りがちな目元と意志の強さを表すようなキリッとした眉が印象的な、とても魅力的な男性だ。殿下が蠱惑的な美しさを持つ王だとすれば、レイモンド様はまさしく、王を護る燃え盛る剣。
それも、ごうごうと燃える炎ではなく、静かに、高温で燃え続けるような深い炎。
表情豊かな力強い美しさに、人は惹かれて止まない。
だから隣でエリーザ嬢が頬を染めても仕方がないし、わたくしの体温が上昇するのも止むを得ないと思うのだけれど、この場の体感温度はぐんぐん下がっていく。暑いのに寒い。誰か助けて、と願いが聞こえたわけではあるまいが、レイモンド様は再び殿下に視線を戻した。
「そう怒らないでくださいよ。もとはと言えば、殿下が言えと仰ったんでしょう。”藪をつついたら蛇が出た”って騒ぐのは滑稽ですよ?」
うん、願いはまったくちっとも聞こえていなかったらしい!冷気を漂わせる魔王に氷を投げつけやがったこの騎士!
殿下はブリザードを振りまきながら、フン、と鼻で笑った。
「そこの君がレイに”フィリアをどう思うか”と面倒な事を聞くから、俺は”未来の王妃を敬愛している”と言ってみろと。蛇をくびり殺したつもりだったんだがな?」
表現が怖い。ついでに目も怖い。
もしも視線で人が殺されるという怪事件が起きたとしたら、犯人は間違いなく殿下だろう、と馬鹿な事を真面目に考えてしまうくらいに怖い。
即刻この場を立ち去りたいが、自分がこの話の中心にいる事はわかっているのでそれもできない。
誰かお願いだから何でもいいからこの空気を破壊してくれ。
「わっ、私はっ殿下に夜会のお礼のクッキーを渡したいって言っているだけなのに、フィーネリア様が、通してくださらないから、その、どう思いますか?って聞いただけです!まさかレイが”秘かに慕うご令嬢”がフィーネリア様だなんて思わなかったんです!」
わたくしが悪かった即刻黙って。
「フィーネリア様こそ!」
「…なによ」
黙れと願い虚しく、エリーザ嬢はわたくしをキッと睨んでくる。場を和まそうとか間に入ろうとか、そういう事じゃなくて自分の主張を通してくる、この状況でそのメンタルは称賛に値するではなかろうか。
空気を読まないのか読めないのか知らないが、いずれにせよ、国母になろうというわたくしにもある意味では必要な才能かもしれない。
「どうして気付かなかったんですか?レイの苦しみも、孤独も、傍にいたのに!」
とは言え、両手を握りしめた悲痛な面持ちの彼女の、”こういうところ”がわたくしは好きになれないのだけれど。
「貴女、自分は善人だと思っているし、か弱くて賢くはないとも思っている。そして、正しい事は立ち向かってでも声を上げなければならない、と本気で信じているのね。」
「…どういう意味ですか」
「立派だと褒めて差し上げているのよ。気になさらないで。」
ただ、それが人を傷付ける時がある事を、強者にならざるを得ない女の気持ちを、考えたことがないだけだ。
別に罪があるわけじゃない。彼女は本気でレイモンド様のお気持ちを考え、胸を痛めているのだろう。
誰もに共感し情をかける聖女様は、誰もに愛される。
だから彼女の周りは人が絶えない。それは正真正銘、優しさと言う名の美徳だ。
わたくしが気に食わないだけだから、気にすることはなくってよ。
「いや、気にするよね」
脳内に滑り込むような声に驚いて顔を上げると、レイモンド様が眉間に皺を寄せていた。
「あのねえ、そりゃあ子供の頃からのずっと長い時間を、好きな子とその婚約者と過ごすっていうのはもう新たな扉を開けそうになるくらいしんどいけどね。孤独だったことなんてないし、苦しみさえ愛おしい。俺がしているのはそういう恋で、俺はそういう友人兼主を持てて、そこそこ幸せだ。」
「”かわいそう”の箱に俺をいれないで」とエリーザ嬢の額に”こつん”と拳を当て、レイモンド様はわたくしにいつものように、やさしく微笑んだ。
ただ一つ、少し下がった眉だけがいつもと違っていて、胸がぎゅう、と音を立てる。
「知らなかったでしょう?知られないようにしてた。」
当然だ、と殿下が小さくつぶやき、レイモンド様は楽しそうに笑った。
ああ懐かしいなあ、と目を細める仕草に、なぜだろう。わたくしは少しだけ泣きそうになる。
「母に連れて行かれたお茶会で初めて会った時、君は本当に嫌な子だった。」
一瞬で涙が引っ込んだ。
この野郎、と気持ちを込めて睨むと、レイモンド様はくすりと笑う。
「びっくりするくらいに可愛くて、とても賢くて、全てを手にできると自信に満ちていて、」
レイモンド様の眼差しは、柔らかく、遠い。
「…何もかもが俺と違っていて」
わたくしを見ているようで、見ていない。わたくしの向こう側に、幼い日のわたくしを、自分を見ている。
そんな遠い目をして、レイモンド様は自嘲するように笑った。
「憎らしかった。」
わたくしは、思わずドレスに隠して、両手を握る。
憎まれていた、ということではない。その、あまりに、
「でも、それ以上に見惚れたんだ。」
愛おしそうな瞳に胸が詰まる。
このひとは誰だろう。
ずっと一緒に育ってきた。殿下のお側にいつもいて、わたくしにも優しかった、楽しくて、強くて、頼れる存在だったのに。
まるで知らない人の顔で、遠い日の幼いわたくしを見る、その、眼差し。
「その当時の俺はね、とにかく泣き虫で将来を心配される困った子供だったんだ。母のドレスに隠れる俺に、フィリア、君は目を合わせて一部も隙がないカーテシーを披露してくれた。まるで、大人に挨拶をするみたいに。」
いったい、どこにこんな色を隠していたのだろう。
零れ落ちそうな愛情と、溢れそうな信愛を語る瞳が、ゆっくりと閉ざされる。
「仕草も、微笑みも、挨拶も全て完璧で、君が自信に相応しい努力をしている事が一目でわかった。」
そして、眩しいものを見るようにして”わたくし”に視線を合わせた。
どう返せばいいのかわからないわたくしに、レイモンド様は肩をすくめ、悪戯めかして笑う。
「お茶会の間中、俺は君を見ていたものだから母が言ったんだ。”父上のように立派な騎士になれば、フィーネリア様と婚約だってできるかもしれない”ってね。」
きゅ、と誰かがわたくしの袖を引いた。
聞くな、と言われているような気もするし、逃げるな、と言われているような気もする。
それを確かめなくてはならない気がするのに、わたくしはレイモンド様のキャラメル色の瞳から目を離せない。
キラキラと揺れながら、真っ直ぐ、真っ直ぐ、わたくしだけを見詰める、焦げるような濃いカラメリゼ。
甘くて、苦くて、とろけるような、割れそうな、
それは、
「俺が先に見つけたんだ。―――俺は君が、」
ぐい、と腕を引っ張られた。
は、と思わず息を吸いこむ自分に、どうやら呼吸を忘れていたらしいことに気がつく。
取られた腕には、見慣れた殿下の細い指が巻き付いている。顔を上げた先の殿下は、無表情を通り越した無表情だ。無表情の向う側。…自分が何を言っているのか、わたくしもよくわからない。
白塗りの壁でももう少し表情がある気がする、と我ながら失礼な事を思わず考えていると、更に腕を引かれる。
足を踏み出すと、ぴん、とドレスが引っ張られたので振り返ると、エリーゼ嬢がわたくしのドレスから手を離したところだった。
いやお前が引っ張っとったんかい、と奇行に首を傾げる間にもぐんぐん腕を引かれる。
「あのっ、殿下っ?!」
呼び掛けても返答がないので、わたくしはコミュニケーションを早々に諦め、足を動かす事に専念する。ドレスもヒールもただでさえ歩き辛いのだ。殿下のコンパスで早歩きをされると、ついて行くのは中々の難易度である。
歩幅もペースも、いつも丁寧に合わせてくれる殿下のらしくない背中を、わたくしは必死に追いかけた。
この背中を、ずっと追い続けている。
ーーーーーー
「さすがに最後までは言わせてもらえなかったか。」
物凄い勢いで婚約者を引っ張っていった殿下に、思わず声を上げて笑うと、ぽかんと二人を見送ったエリーザ嬢が顔を上げた。
「よく我慢してくれたよねぇ。ああ見えて友達思いというか、俺にも甘いんだ。あの人。」
冷静で理性的、と見せかけてその実、我慢や譲歩が嫌いな根っからの俺様王者の顔面が、みるみる強張っていく様はなかなかに愉快だった。
そこまで狼狽えさえたことも、そこまでして我慢させた事も、気分が良い。
「…レイ、意地悪だわ…」
くつくつと笑う俺に、エリーザ嬢は眉間に皺を寄せた。素直な少女である。
「君の正義感は嫌いじゃないけど、俺達の中にあまり入ってきてほしくはないかな?例え君が何を知っていても、だ。」
にこ、と笑うとエリーザ嬢は大きな目を見開く。子供のようなあどけない表情は、まあ、可愛くないこともない。
「”秘かに慕うご令嬢がフィーネリア様だなんて思わなかった”だっけ?君、俺の事も殿下の事も、”知っている”ように話すね。何をどこまで知っているのか、どうやって知ったのか、聞いても教えてくれないんだろうねえ。」
あ、とか、えっと、とか狼狽えるこの少女は、俺や殿下が”孤独である”と思う”何か”を知っているのだ。それを悪用する気はないようだから俺も殿下を放ってはいるが、夜会の日に呟いた”ゲーム”という単語が気にならないわけではない。
「一応聞いておこうかな?君、何がしたいの。さっきもフィーネリア様のドレスを引っ張ってなかった?」
寄る辺の無い子供のような顔で、仕草で、エリーザ嬢はフィリアのドレスを引いていた。
まるであの日の自分の様で少しだけ煩わしくて、恥ずかしくて、あの日を思い出して同じくらいにあの子が愛おしい。
胸を締め付ける慣れ親しんだ痛みに、そっと自分の胸元を撫でた。
「私のことは、話せません。きっと信じてもらえない。…それに、私の知るお二人と、今ここにいるお二人は違うから、意味もないです。私は…」
か細い声に顔を上げると、じわ、とエリーザ嬢の飴玉のような瞳が揺れた。
今、目の前にいる少女は、もしかしたら本当にあの日の俺と同じなのかもしれない。
不安で、心細くて、何をしたらいいのか、何をしてはいけないのか、自分が何のために在るのかがわからない。
「私は、本当にお二人が好きだったから。お二人が苦しまないように、フィーネリア様にはもっとお優しい方になってほしかった。第一、差別なんてやっぱりおかしいわ。私は、大好きなこの世界をもっと平和で、美しいものにしたい。」
「君もなかなかに強欲だねぇ。」
それでも、そう語る瞳はまっすぐで美しい。
純粋で、真っ白で、物語の主人公のような清廉さは、確かに聖女と呼ばれるに相応しい。
宰相のご子息やら上級魔術師殿がすっかりこの少女に骨抜きらしいが、わからなくはない。この少女がつくるキラキラとした世界を見てみたいと、その一部になりたいと、俺も思ったのかもしれない。
例えば、フィリアと出会わなければ、
例えば、フィリアと殿下がうまくいかなくて、この気持ちを割り切れなければ、
例えば殿下を、フィリアを、恨む気持ちが残っていれば、
君に救いを求めたのかもしれない。
「--君の事は嫌いではないけど…なんというか、君は優しさに包んで他人を否定する子だね。」
ま、”かもしれない”はしょせんは幻なので。と、ちっとも心動かされない俺は情が薄いのかもしれない。
主は、二本しか腕がないくせに平然と大勢を救い上げようとする人だから、俺はそれくらいでいいと思っている。
主の手から零れ落ちるものが無いよう、自分の大事なものを抱えたまま走れるように。
そんな俺を、あの人を、この少女は知っているのかもしれない。
あの時、俺の話をあの子に聞かせたくて、聞かせたくなくて、自分自身の耳も塞いでしまいたかったのだろうか。
自分で自分の気持ちを掴めないようなこの子供を、それこそ”かわいそうだ”と思う。
「自分だって人を傷つけているかもしれない、ってこと。たまには考えてみた方がいい。俺みたいに、傷を負わせる事をどうとも思わないんなら余計なお世話だけど。」
だからどうか、君も幸せになって。なんて、勝手に願う程度には俺は君が嫌いではないよ。
「とりあえず、王族に手作りのお菓子を差し入れるのがマズイってのはフィーネリア様の仰る通りだからやめておきなね。」
「…はい」
意外と頭の固いエリーザ嬢にもようやく通じたことに、ほっとする。素直にお返事をする良い子に微笑みかけ、俺は愛すべき痛みへと足を向けた。
影の護衛がついているとはいえ、お二人だけで放置すると母に叱られてしまう。
なんだかんだ言っても、この世界を回しているのは欲深きも麗しき女性達なのだ。
ーーーーーーーーーー
「何を考えていた」
「え」
城内の渡り廊下から、庭園まで来たところで殿下は足を止めた。
わたくしの手を握ったまま、殿下は顔を見せてくださらない。声がよく聞こえなくて問いかけると、殿下はゆっくりと振り返った。
「ひ」
「レイに見詰められ、熱心に見つめ返していたな?何を、考えて、いたんだ?」
ぜんっかいの笑顔!!!!!!!目が!目が笑ってないやつ!!!!
右手でわたくしの左手を拘束したまま、殿下は片方の手でわたくしの頬を撫でる。
うっとりとするような優しい手つきと、優しい声と、恐ろしい笑顔で。
「フィリア?」
すい、と近づいてくる殿下の仕草は品があるのになぜだろう。暗殺者にナイフを突きつけられているような気分になるのは。
「っ」
そのまま体を近づけられ、つい後ずさりすると、背が壁にぶつかった。
殿下は、好都合だとばかりに距離をつめ、そっと身を屈ませる。淡く香るコロンに身体が痺れ、喘ぐように名前を呼んだ。
「っ、ゆーりす、でんか」
ふ、と笑いを落とすような吐息に思わず身をすくめる。
すると、「ちゅ」とこっぱずかしい音を、髪飾りに立てられた。
「~~~~!」
青い薔薇を模した、宝石の髪飾りにキスをされたんだ、と気付き歯を食いしばる。
この色気陰険大魔王め…!!!!!!
ギリ、と顔を上げると、この世で一番美しいペリドットが、ゆっくりと細められた。
勿論、優しいそれではない。
手の上で踊ってはやらぬと、わたくしが自分を取り戻すに十分な瞳。
自信満々に、玉座から見下ろすように、得意げで、卑猥で、わたくしが掌にあることを確信している、
「レイモンド様と殿下は正反対だと、考えておりました」
恋情なんて可愛らしいものが砂粒一つ分も見つけられないような色。
くだらない、と思わず笑いが零れてしまう。
いくらが強欲なわたくしだって、”それ”だけは決して望まぬと、それがわたくしの矜持だったはず。思い上がるなと、間抜けな自分にうんざりする。
殿下も、だからどうしたと、いつものように笑い飛ばすのだろうと思ったのに。
――――――殿下は笑わなかった。
「レイがいいのか」
ぎゅう、と強い力で腕を握られた。
「は、」
「残念だったな。俺は君以外を妻にする気はない。」
腕を、痛いくらいに握られる。
季節が移るように、色が、変わる。
そんな、まるで、
ねえ、
その色は、
「嫉妬しているみたい」
ぽろ、と口から零れた言葉は、あまりに殿下に、わたくし達に不似合いだ。でもこれ以上にしっくりくる言葉がなくて、信じられない思いで、震える右手を、殿下の頬に伸ばす。
ぴく、と殿下の肩が小さく揺れた。
肌がぞわりと、震える。
触れた白い頬はぞっとするほど冷たくて、ねぇ、まるで、緊張しているみたい、だなんて、そんな、ああ
「うそ」
貴方はいつかあのか細い手を取るのだと、ずっと覚悟を
「ふざけんなよ。」
びく、と今度はわたくしの肩が跳ねる番だった。
表情すらめったに崩さない殿下が「ふざけんな」?
眉間には深い皺が刻まれ、頬はうっすらと紅潮して、そんな、一度も見たことがない顔を、させているの?
わたくしが?
「俺が君に執着していることは知っていただろ…!」
「た、多少は気に入っていただけていると自負しておりましたわ…!でも、"あの子"はやっぱり来たし、それで、だって、わたくし光魔法を遣えるし、その、貴方の手で転がされているのが面白いと、いつか、」
わたくしは貴方にとって手放しがたい有益なおもちゃにしかなれなくて、心なんてすぐに離れて、だから、”その時が”きたら悪役らしく去ってやるって、それで、だから
「君が好きだ」
ぐさりと、心臓を刺されたような衝撃だった。
「面白い?はっ、生温い。」
鋭い眼差しが、わたくしを刺し殺す。
「俺の言葉で、視線で、気位の高い君が泣きそうになる瞬間は、心底たまらない。いいか、誰にも見せない、俺だけのフィリアだ。俺だけの、唯一だ。俺より先に見つけた?知るかよ。俺だって、もっと早く知りたかったと後悔したさ!だから、本当に俺の手の中にいるのか何度だって確かめずにいられない、それくらい、俺だって、九つからお前が、お前だけが好きだ!」
なんて、愚かしいのだろう。
わたくしはずっと、このひとに想われていたのに。
”悪戯”はこのひとの、痛いぐらいの感情の上にあったのに。
「…嫌ね、あの子の言った通りだわ…」
ふ、と泣きそうになりながら、殿下の頬に添えた右手を顎まで滑らせる。人差し指で唇の端に触れた。
「貴方やレイモンド様のお側にいるわたくしが気が付かなくちゃいけなかったのに」
「レイはいい、一生気付かせるつもりはなかった。」
ぷ、と思わず笑うと「本気だ」と殿下はわたくしの額に、こつりと額をぶつけた。
「謝らなくてよ、わたくし。だって貴方達、わたくしに言ってくださるおつもりはなかったのでしょう。」
言わずにわかってもらおうだなんて怠慢だわ、額をゆるく押す。
唇が触れそうな距離に貴方がいる。泣きたくなるくらいに、すぐ傍に。
「わたくし、ずっと自分の欲しか見ていなかったのね。貴方の傍にいたいと、そればかり。」
ねえ、と声が震える。己の愚かさが情けなくて、でも歓喜におかしくなりそうで、そうよ間抜けで我儘な強欲女だと罵られても構わない、
だけど貴方にだけは愛されたい。
「――強欲な、悪役にしかなれないような女でも選んでくださいますか。」
声が震えないように、必死で背筋を伸ばす。
貴方の目に映るわたくしが、わたくしであるように。
殿下は、くすりと笑った。
「知らないのか。選ぶ、という言葉は他に選択肢があって成立する言葉だぞ。」
風が草木を揺らすような、泣くのではないかと錯覚するくらいの優しい声がわたくしを撫でる。
「いつだって君だけなのに選びようがない。」
ぽろ、と零れそうになる涙を、唇を噛んで誤魔化した。
殿下の新緑は嬉しそうにほころんでいるから、きっと無駄な努力だけれど。
悔しいのに嬉しくて、やっぱり悔しい。
「フィリア、君の唯一は誰だ」
ほとんど唇がくっつきそうな距離で、貴方はわたくしの答えをせがむ。
わたくしが自分を見失う事があるとすればそれは、いつだって貴方の事なのに、それでも貴方はわたくしの言葉を強請るのね。
頭がしびれるような興奮と幸せに、堪え切れずにわたくしは微笑む。
その瞬間の、あたたかにとける貴方の瞳を、わたくしはきっと生涯忘れない。
そして生涯、手放さない。
わたくしはそっと手を伸ばした。
指先がすぐにそれに触れた。
冷たい感触の髪飾りをはずし、二人の間にそっと持ち上げる。
訝し気に眉を上げる殿下の前で、透ける青い薔薇に口づけた。
小さく呪文を唱えると、風が吹くように魔力が髪を揺らし、光が灯る。すぐに身体から石へと魔力が流れ始めた。それに合わせて、宝石でできた薔薇はゆっくりと、青から鮮やかな緑へと色を変え始める。
夜が明けるように青が緑へとグラデーションを描いたところで、呪文を結んだ。
ふう、と小さく息を吐き、殿下に視線を戻す。
驚いたように目を大きくする顔も、初めて見る。世界中に自慢したいような、大事に仕舞い込みたいような気持ちで、わたくしはありえない色彩の宝石の薔薇を、殿下の胸ポケットに差し込んだ。
「悪戯をする悪い子には教えてあげられないわ。」
わたくしが追いかけ続けるように、貴方もわたくしを追いかけ続けるべきだ。
愛される自信を手に入れた女は強いってこと、骨の髄まで教えて差し上げるわ。
呆気にとられたように目を見開く愛おしいペリドットに気を良くしたわたくしは、唇を近付けた。
背伸びをして、形の良い耳にそっと囁く。
「緑の薔薇を楽しみにしておりますわ。」
欲深い事の何が悪い。
欲がない人間がいるならば、ぜひともお会いしたい。
自分の欲しい物くらい、口にできずにどうする。そんなつまらない人生など捨てておしまいなさい。皆々様の幸せな人生を、王妃になるわたくしが保証して差し上げるわ。
わたくしは強欲の悪役令嬢。みっともなくしがみついてでも、舞台は譲らない。
もう、何も諦めない。