05 おしりふき
『マママスター』が何なのか気になったが、それよりも尿意がせり上がってくるのを感じたので、コウ少年はペンダントをポケットにしまって図書館を出た。
するとほぼ同時に、
……バァァァァァーーーーーーーーンッ!!
ママの部屋からママが飛び出してきていた。
彼女は廊下にへにょっとヒザをつくと、この世の終わりのような表情で、
「ばっ……ばぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅーーーーーーーんっ!? コウちゃぁんっ!? ぼぶばぶっ、ばぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんっ!?!?」
声を限りにママ語で叫んでいた。
ちなみに意訳をすると、「コウちゃん、どこに行っちゃったの!?」である。
あんなに大声を出す母親を目の当たりにするの初めてだったので、コウは気後れしてしまう。
振り向いた彼女と目が合うと、
「あっ!? あっ……ああっ……! んまぁぁぁぁぁっ!? こ、コウちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーんっ!!」
胸に振り回されるように蛇行しながら走ってきて、ばふんと抱きしめられた。
「コウちゃん! コウちゃん! コウちゃんコウちゃんコウちゃんコウちゃん!! コウちゃんぁぁぁぁん!!」
無限の柔らかさを持つ大きな胸で、我が子を包み込む。
谷間からわずかに出ている頭頂部に、チュッチュッとキスの雨を降らせる。
「く、苦しいよ、ママ」
コウが呻くと、「んまあっ、ごめんなさい!」とママは両手で抱き上げてくれた。
ミルクプリンに埋まったコウの顔が、トコロテンのようにニュルンと飛び出す。
「『おひるねんね』からおっきしたら、コウちゃんがいなくなってたものだから、ママ、びっくりしちゃって……! でも何ともなくて、本当によかったわぁ……!」
戸惑いと安堵が入り交じった困り眉と、我が子への想いが溢れてしまったかのような、潤みきった瞳でコウを見つめるママ。
コツンと、やさしくおでこをぶつけてくる。
「……どうして『おひるねんね』の途中でいなくなったりしたの?」
「ちょっと、『しーしー』したくなっちゃって」
その一言で、いつもの穏やかさを取り戻しかけたママの表情は急転、「ヒイッ!?」と凍りつく。
「しっ……『しーしー』っ!? ひとりで『しーしー』だなんて、落っこちちゃったらどうするのっ!?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
屋敷のトイレは、25メートルプールが入りそうな広大な室内にあった。
といっても便器は普通サイズの水洗で、真ん中にぽつんとある。
ママが心配していたような、14歳の少年が落ちるようなものではない。
たとえ落ちたところで、身体の一部が少し濡れるくらいで大事に至ることはない。
その便器の上で、ヒザの後ろに手を入れて持ち上げられたコウ少年。
小さい子が大人にしてもらうような、M字開脚抱っこのポーズで用を足していた。
「はーい、しーしー、しーし。んまぁ、いっぱい出てまちゅねぇ~。しーしー、しーしー」
虹をまといながら放物線を描くそれと、我が子の顔を交互に見つめて嬉しそうなママ。
勢いがなくなると、コウの身体を上下に揺すって雫を払う。
「はーい、ぴっ、ぴっ」
終わったら我が子を床に降ろし、前に回り込む。
しゃがみこんで、純白のシルクのハンカチで股間を拭う。
「はぁーい、前をふき、ふき……。後ろもふき、ふき……」
前と後ろを行ったり来たりして清拭。
この間、コウはなにもしない。
すべてはママに身を任せ、立ったままじっとしている。
拭き終えたら、パンツとズボンまで履かせてもらって、そして最後に、
「んまぁ……♪ 今日もちゃんと『しーしー』できまちたねぇ~。よくできまちたぁ~偉いでちゅよぉ~」
『よくできました』のハグ。
しかし今日はそれだけでは終わらず、きつく抱きしめられた。
「……ママは、コウちゃんの『おしりふき』なの。『おしりふき』がないと、『しーしー』しちゃダメなのよ? だからひとりで『しーしー』せずに、ちゃんとママに言うようにしてね。たとえママが『ねんね』しているときでも、起こしていいんだから。ううん、コウちゃんの『しーしー』のためだったら、たとえ死んでてもママはおっきするからね」
噛んで含めるように、切々と語るママ。
しかしその祈るような想いすらも、コウに届いたかどうか怪しかった。
「わかったよ、ママ。ところでママ、『マママスター』って知ってる?」
息子がスルースキルを身に付けつつあることに、一抹の不安を覚えたものの……。
『マママスター』という単語には反応せざるを得ない。
「ええ、もちろんよ。もしかして、コウちゃん……?」
「ステータスクリスタルで見てみたら、ボクの職業は『マママスター』だって」
するとママは、息子の東大合格を知らされたような、歓喜の悲鳴をあげた。
「んまあっ!? コウちゃんが、『マママスター』だったなんて……! やっぱりコウちゃんは、ママ想いの子ねっ!!」
ママが喜んでくれて、さらにきつく抱きしめてくれるのは嬉しかったが……。
コウはそれよりも、自分の職業のほうが気になっていた。
「マママスターって、どんな職業なの?」
「ここじゃあ何だから、図書館に行きましょうか。たしか『マママスター』のご本も、1冊だけあったはずだから……」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
本棚の高い位置にあった1冊の本を、梯子を使ってママから取ってもらったコウ。
世界中の本が揃っていそうな図書館でも、『マママスター』についての蔵書は1冊のみ。
その内容を要約すると、こんな感じであった。
『マママスター』というのは、ママを使役する職業である。
ママとともに(空想の世界を)冒険し、ママとともに(世間の目と)戦い、ママとともにモンスター(という名の自立支援機関)を倒し、ママとともに生きていく……。
ママとは一心同体、ママが身体の一部になるように、ママを使いこなすことこそがカギとなる。
「……最初の3行だけで、9回も『ママ』という単語が出てきた……」
と、コウが思わずつぶやいてしまうほど、その本はママだらけであった。
『マママスター』入門編。
まずは床や壁を殴って、ママを呼んでみよう。
それができるようになったら、次は食事の要求。
最後は叩き方やリズムで、ママに要求を伝えられるようにしよう!
次のページに至っては、コウは首をかしげてしまう始末。
――なんでママを呼ぶのに、いちいち床や壁を叩く必要があるんだろう……?
ママって、ずっとそばにいるものじゃないの……?
食事っていうのは『ママのおっぱい』のことだよね。
それだって別に叩かなくても、こうやってママのほうを見れば……。
心の中でつぶやきながら、本から顔をあげると……。
当然のように、ママと視線が絡み合う。
この母は、おはようからおやすみまで……。
それどころかおやすみの最中まで、飽きもせず息子を見つめているので、目が合わないことなど起こりえない。
コウが視界の隅に彼女を映していたとしても、『ママ見て光線』がバッシバッシ飛んでくる。
そして目が合うと、「以心伝心できた」とばかりに、彼女はパッと表情を明るくするのだ。
「んまぁ、コウちゃん、おなかがすいてるんでしょう? それじゃ、ママのおっぱい『ちゅーちゅー』しまちょうねぇ~」
コウは母親を、呼ぶ必要すらなかった。
見やるだけで、全てを察してくれる。
それどころかミルクタンクを差し出すように持ち上げ、向こうからいそいそと近づいてきてくれる……。
そう……!
コウ少年は希代の才能を持った、最強の『マママスター』であったのだ……!




