地獄の1丁目
あやめはアリーチェと呼ばれることに抵抗がない。元々がアリーチェ、今回の生の名があやめだったと説明を受け、そんなもんか、と思う。
先程まで並んでいたのは天界の第一門で、天国のイミグレーションだったそうだ。私はリアムに目を閉じるよう言われ、黙って顔をリアムの胸……というよりお腹?に押し当てた。だってリアム、間違いなく縦横デカくなってる!大人のくせに成長期?
「なんなんだ……君の煽りっぷりは……」
リアムはそう言うとグイッと右腕に座らせるように抱き上げ、自分の肩に私の顔を押し付けた。
「ワハッ!余裕ねえなあ」
マシュの声に笑いがにじむ。
「動くなよ。落としたくない。行くぞ!」
私はリアムの首に腕を回し、しがみつく。リアムが跳んだ、気がした。
「目を開けていい」
私がゆっくりと顔をあげたら、そこは、リアムと最後に話した地獄のイミグレーションである冥府の……審判の間だった。
「あ……」
あの時の別れ、苦しい想いが昨日のようにも感じる。でも実際は10年以上前で……あれ?生前の時の流れなんて今更意味あるのかな。
とにかく懐かしく……ようやく帰ってこれたことに安堵して……涙が溢れる。
私は決して泣き虫ではない。泣くと殴られたもの。泣くのは……あの別れの日以来。
「!!!」
リアムが目を見開き、慌てて私の頰を使ってない左手で拭う。
「おい!うちの娘を何度泣かしてやがる!」
斜め前からマシュがリアムにすごむ。マシュ、まだ一緒だったんだ。
「アリーチェは君の娘じゃない。そもそも君、独身だろう?」
「独身でも娘はいるやつはごまんといる。お前、あやめ……アリーチェが欲しくて俺に協力してくれと指導を仰いだの忘れたか?」
「え?」
「アリーチェ、こいつはなあ、お前がうつし世に戻ってから、お前を手に入れられる力が必要だと、必死にそれこそ血の滲むような努力をして、我らの閻魔様もそれはそれは………おっと!」
突然、リアムが私を抱いたまま、左手で中段突きを繰り出した。ゴウッという音とともに、大きな風圧がマシュを襲ったが……マシュはヒラリと交わし、ニヤリと笑った。
「おいおい、あっぶねえなあ」
「消えろ」
「ハイハイ。アリーチェ、仕事はそうだな……明後日からおいで。待ってるぞ!」
「はい!」
マシュはヒラヒラと手を振って部屋を出ていった。
二人、残される。
「……もっと落ち着いた部屋で説明しようかとも思ったけど、この場の方がアリーチェには安心できるかと思って」
ここは嘘のつけない部屋。
私はコクンと頷いた。リアムも頷きかえし、デスクの向こうの椅子に腰掛けた。私を抱いたまま。
「えっと……下ろしてください?重いでしょ?」
「すまない、ここは職員の椅子一つしかないものだから。全く重くないから大丈夫だ」
そういう問題ではない。顔に血が集まるのがわかる。
膝に座るなんて、これまでどの親からもされたことはない。
「どうした?顔が赤い?」
私がモジモジと腰を捻って膝から降りようとすると、リアムはゆるりと笑った。滅多に見せない笑顔。昇格?したためか表情も少し人間くさくなっている。そして、私の腰をグッと力を入れて抱き直した。
「私も……アリーチェを送って辛かった。しばし私の腕の中にいて、安心させてくれ」
リアムも寂しかったってこと?この部屋は嘘をつくと雷撃が落ちるらしいから……そうなんだ。
でも……
「私のほうが、寂しかったもん……」
あちらに戻ると、暴力や理不尽な差別こそなくなったけれど、私はやっぱり一人ぼっちだった。それにひきかえリアムはここで優しい仲間に囲まれた、普段通りの日常だったはず。
「……君をうつし世に送り返すほかなかった。あの時の私には君を保護する権限も力も何もない。そして、ここはヒトの魂にとって通過点、鬼でもないものがここに長く滞在することは、理に反することで、異分子として消滅してしまう恐れがあった」
リアムは広い胸に私の頭を預けさせる。
「アリーチェの魂は見たこともないほど清らかで……でも試練だらけの転生続きで傷だらけだった。何故そんな過酷な運命を負わされるのか……大事なあやめを再び送り返しても、生き延びることができるのか?とても不安だった。しかし、あやめの生を乗り切ることができれば……今度こそ創造神の定めた厳しい輪廻の輪を卒業出来るに違いないと……予想した。きっとアリーチェは聖者になると。聖者であれば規則上、行き先に冥府を選ぶことは可能だ」
リアムが私の髪をゆっくりと梳く。昔のように。
「私はその希望にすがった。そして、君が無事あやめの生を全うし、その時まだここに戻りたいと思ってくれたなら、私には迎えるだけの力が必要だった。なんとか間に合って、天国に自由に出入りできるだけの力を得た」
天使達も怯えていた。どれほどの力と権力を手にしたのだろう?
簡単ではなかったはず……
「聖者となったアリーチェならば、どこで羽を休めることもできる。それこそ天国の最上階の白檀の森で精霊達と過ごすことも可能だった。だから私は……不安だったよ。こんな殺風景なところを再び選んでくれるのか」
ここ以外、行きたいところなんてないのに!
「私は自分の居場所を場所で選ぶんじゃない。私はリアム……そしてマシュやリラやみんながいるから、ここに来たかったの」
「アリーチェ……」
「リアム、やっぱり好きです。お願い!ここに置いて?そして私を鬼にして?」
私はリアムの目を真っ直ぐに見て言い募った。
「……規則上はここを選べても……魂では留まれぬ。ここに住めるのは鬼とその家族だけ。しかし、流石に聖者となったアリーチェは鬼にはなれない」
「そんな……」
「でも……私の家族にならなれる。どうする?」
私の家族?リアムが私なんかの本物の家族になってくれるの?
バチーーーン!!!
突如、リアムの頭に天井から稲光が落ちた。私の目の前だ!
「きゃあ!だ、だ、大丈夫⁉︎」
リアムが頭をブルブルと振り、左手で頭を押さえた。
「はは、神がお怒りだ?私があまりに不甲斐ないから……」
「リアム?」
彼の言葉のどこに嘘があったのだろう。不安に思っていると、膝から下ろされ、一人で椅子に座らされた。突き放された動きに見えて、静かに絶望が押し寄せる。
するとリアムが私の前で跪いた。
「え?」
私は驚き眼を見張る。
「アリーチェ、愛している。妻になってほしい」
……人の世でいうプロポーズなの?これは夢?この誰より優しく、私を救ってくれた、大好きで立派な鬼が?地獄って夢を見るの?
「私を?でもあの……さっきの電撃は?」
「……アリーチェは最初から素直に心を開いてくれているのに、私が臆病で、試すようなことばかり言っているから、神にカツを入れられた」
「……」
「ほら、光らないだろ?」
私が天井の様子を窺っていると、リアムは大きな両手で私のほおを包み、視線を自分に向けさせた。
「あの時、君の辛い記憶を全て消して、うつし世に戻そうと思った」
リアムの長い睫毛が伏せられる。
「しかし記憶を覗くと、君の頭の中は酷い体験を覆うように、ここで生き生きと楽しそうに働く姿や、私を密やかに愛してくれている気持ちに溢れていて……嬉しくて……消せなかった」
リアム……
「君のこと、可愛い庇護対象と思っていた。しかし、あの瞬間から恋に変わった。自覚した瞬間手離した。君のいない日々はまさしく地獄だった」
「リアムが……こんな私を好きでいてくれるなんて……信じられない」
「だからここを選んだ」
本気、なんだ……。
「返事は?」
この私が結婚?いいの?この目の前の憧れの人と?
ああ……でも夢でもいい。大好きなんだもの。生まれてから今まで、私のたった一人の鬼。
「結婚……したい……です。愛してる、もの」
「ああ……よかった」
リアムは膝をついてちょうど、腰掛けている私と高さが釣り合った。そっと腰に手を添えられ、リアムが私に顔を寄せる。
急に恐怖が押し寄せ、両手を前に突き出しリアムを止める。
「アリーチェ?」
「キスしたら……また戻っちゃう……」
私の頰にまた涙が流れる。
「ああ、泣いては駄目と言ったのに……私が泣かせたのか。ごめん。あの時はキスでうつし世に戻したんじゃない。戻るタイミングだったから、慌てて……キスをした。君との思い出が欲しかった」
素早い動作でグッと頭の後ろを押さえられ、くちびるを合わせられる。
「んんん……」
壮絶な色気を放つ鬼が、私と瞳を合わせる。
「ほら、戻らない」
チュッチュとついばむようなキスをされる。そして鬼の大きな口はゆっくりと私の戸惑いを食べ尽くす。
「……は……リアム……」
「ね?そもそも、もう君を手放すわけがない」
リアムは軽々と私を抱き上げ扉に向かう。
「……どこへ?」
リアムにしがみつき、息も絶え絶えに私が囁くと、
「私達の部屋へ。早く君の魂を安定させなければ」
そうか、私はまだ亡者状態だ。怖い。
「どうすればいいの?」
私の頭は一気に冷えて、リアムの瞳を覗き込み、すがる。
「ただ、私に愛されていればいい」
私の唇に上からキスを落とす。唇が離れても、すぐそこにあるリアムの表情は……今まで感じたことがないほど……男で……
艶やかな声で耳元で囁く。
「君は私のものだ。君が望み、私が欲した。鬼はヒトの何倍も執着心がある。覚悟して?」
◇◇◇
私の食堂でのお仕事は……予定より10日も過ぎてのスタートになった。