夜を待つ
前作「夜を歩く」に登場した、榊鷹士くんの夜です。
今回は彼の夜を描きます。
夜が来るのを待っていた。
あのときにもう一度会えるのかなって。
両親が離婚した日、そして年の離れた兄ちゃんが父さんについていった日。
気持ちの整理はついていたし、兄ちゃんにも会えないわけじゃない。家族だったものは、名前が変わってしまったのかもしれないけど、やっぱりどこか繋がっていると信じたいし、信じている。藤原院鷹士なんて仰々しい名前から、榊鷹士になってもやっぱり俺はあの人達の一部でありたい。実感が欲しかった。
寒さが迫ってくる、秋と夏の間の夜を待っていた。同じときが繰り返されるわけじゃないけど、リアルに思い出せることが嬉しくてじっと夜を待った。
そんな夜に出会えた日は、ただ泣く。子供っぽいのかもしれないけど、子供でもいいだろって自分に言い聞かせる。
みんな今でも仲はいいけど、取り残された気持ちが終わらない。大人が納得出来てしまう生き物なら、俺も早く大人になりたいと願った。でも、寂しさが先立って立ち止まったまま。だから夜を待って、あの日を繰り返す。俺だけが取り残された時間から、歩き出すために。
玄関に人の気配がした。
母さんが帰ってきた。
俺を養うために働いてくれている。父さんからは相当額の養育費が支払われているのは知っていた。母さんは俺の将来の貯金だと、私があなたを育てるのよ、とほとんど手をつけていない。高校を卒業したら母さんの為にも働きたいと言っているのだけど、兄さんをはじめみんな「やりたいこと目指しなよ」という。そんなもの……ない、よ。そういうことにしないと、いつまでもあの夜から歩き出せない。
「母さん、おかえ……っぷ」
「ああ! 鷹士いいい! 激マイラブ私の息子おおおお!」
きつく、とてもきつく抱きしめられた。
化粧かなにかの優しい香りに混じって、消毒薬っぽい病院の匂いがする。母さんはナース長をしていて、勤務が不規則だった。一緒に居る時間は短いけど、その分家に居るときはずっとくっついている。反抗期なんて、二分も持たなかった。「うるせえババア!」なんて言って見せたら、母さんは少女のように号泣し、反抗期が嬉しいことと、寂しいことを大声で語り続けた。そんなの、俺から抱きしめるしかないじゃないか。
「学校は大丈夫だった? 先生に理不尽なこと言われなかった? 同級生にいじめとかされなかった? すぐ言うのよ。母さんのコネクションと父さんの財力でそいつら社会的に、物理的に抹殺するから! 少年法真っ青の地獄をみせてあげるから! 二度と人として生まれたいなんて思わなくさせるから!」
母さんは本気だ。あと、父さんも。
「大丈夫だよ。みんな優しいし、楽しく過ごしてる。そんなことより晩ご飯食べよう。今日はかき玉汁とオムライスとサラダ」
「うっ……」
「いや、いつも作ってるじゃない。それくらいで泣かないでよ」
「そ、そうね。ご飯がしょっぱくなっちゃうわね。待ってね、いまあいつに自慢するから」
母さんは父さんにメールを打つ。
秒で返信がくる。
「なんて?」
「よく味わえよって。そうとう悔しがっているわね!」
大人げない両親の子でいるのは楽しくはあるけど、ふいに自分を見失いそうになる。確かな自分を持って生きていることが眩しすぎて、あの夜に立ちすくむ「ぼく」はまだどこへもいけない。
団らんは終わり、明かりを消した自室でじっと自分の時間を過ごす。
両親にはたくさんの謝罪を受けたし、話し合う機会も多くもらえた。可能な限り、子供の俺でもわかるように説明をもらった。大人の事情なんて一言も言わなかった。だからこそかもしれない。俺は我が儘なのだろう。あるいはあの日の幼いの痛みこそを、守りたいのかもしれない。今の自分はどうでもよくて、あの日の、自分と、兄さんと、母さんと、父さんのみんなの痛みを、今の俺は手放したくないのかもしれない。
そんなの、どうにもならないじゃないか。答えなんてないし、解決策もない。なにをしたら、記憶の夜にいる「ぼく」を笑顔にできるのか。
携帯端末が鳴った。
早乙女鈴
あいつ、あれからちょいちょいかけてくるんだよな。
「榊君、僕だけど」
「おうなによ」
「うんとね、夜が迫ってくるんだ。でも僕にはそれを受けとめ切れなくて、どうしたらいいかわからなくて電話したんだ」
相変わらず言っていることがポエミイというか、リリカルに過ぎてわかりにくい。でも、なぜかわかるような気もする。多分俺が今感じてることにどこか近い。
考えて話すのは言葉が違う気がして、いつもと違う音で話した。
「受けとめなきゃいけないのか」
「……そっか。でも、じゃあどうして今僕がそう感じたのかな。だからこそ、僕が受けとめるべきだって思うんだけと」
「ふむ。明日じゃだめなのか。明後日、明明後日でも、夜はくるぞ」
「今宵がいいんだ。満月で、僕の影ができてる。すごく綺麗で、暖かくて、涙が出そうなんだよ」
カーテンを開くと、眩しいくらいの銀月が眼に刺さった。
この夜は、いけないな。酔ってしまう。
「ああ、本当に綺麗な夜だな」
「榊君も見てるの? ふふふ、嬉しいなあ。ああ、こんな夜に溶けてしまいたいよ」
「俺はごめんだ」
「え、どうして」
「臆病なんだよ」
満月なんて、一番心が剥き出しになって、「ぼく」がひどく泣く。
「そっか……ごめんね、榊君。怖い夜に呼んじゃって」
「いいさ、綺麗な月は好きだ。また、呼んでくれ」
「あは! うん! ありがとうね!」
「こちらこそ。気をつけて帰れよ」
「ばいばい!」
夜に早く戻りたいと言わんばかりに、通話が切れた。
「夜が迫ってくる……」
言葉にしてみた。
幼さが、無理解が、寂しさが、記憶が、時間が襲ってくる。胸が締め付けられて、涙がこみあげる。
窓枠の奥に続く、月光に灼けた夜空を、滲む視界で見あげた。
早乙女の茫洋とした、でもどこかなつっこい表情を思い出す。
あいつも同じ夜に居る。
御守りのようにカーテンを開けたまま、ベッドに潜り込んだ。
「ぼく」は、泣かなかった。
感傷のままに書いた作品です。
見えるものより、見えないものを中心に描くようにしてみました。
この表現が面白いと感じてもらえたのなら、幸いです。