幕間 フォラール村との別れ
空は明るい青に染めら、太陽が地平線から輝く姿を現していた。
だが、太陽は未だ高く空の頂に昇ってはいない。
早朝な為、薄暗い影がちらほらと残っていた。広大な大草原も大きな影が残っているが、時間が経てば太陽が高く昇ると同時に残った影も徐々に消えていくだろう。
早朝の優しい春風は少しだけ肌寒さはあるが、春の暖かい気候の御蔭で心地良く感じる。
フォラール大草原も、春風に吹かれてさらさらと草と草が擦れる音が静かに鳴り響く。
フォラール村の門が開いていた。
其処には子供も含めた村人全員が朝から集まっていた。
元冒険者の門番タンタや同じく門番のカヌン、そして村の狩人ロノタックも一緒に居た。
皆が村の門に集まる理由はたった1つだ。
今日、〝恵みの使い〟と村の皆がそう呼ぶ岩石の魔獣の門出の見送りの日だ。
今日は別れの日だ。
早朝にも関わらず、わざわざ村人全員で見送りに来てくれたのだ。
「行ってしまうんだな」
元冒険者タンタが少し寂しさの混じった笑顔を浮かべ、〝恵みの使い〟に話し掛ける。タンタだけでなく、他の皆も同じ表情を浮かべていた。
「やだー! いっちゃやだー!」
「いっしょにいようよー!」
「ずっといてよー!」
村の子供達は〝恵みの使い〟を相当気に入った様で、岩石の身体にへばり付く様に群がり、行かないでと言わんばかりに目に涙を浮かべていた。
「こーらっ! 駄目でしょ。〝恵みの使い〟様に迷惑掛けちゃ」
「そうよ。〝恵みの使い〟様を困らせちゃいけないでしょ」
「ほら! 放して上げなさい」
母親達が岩石の魔獣にへばり付く子供達を、次々と引き剥がしていく。引き剥がされる子供達は、涙を流しながら嫌だ嫌だと抵抗をする。たった1日だけの滞在で、ここまで懐いてくれるとは思いにも寄らなかった。
岩石の魔獣は、自分を受け入れてくれた嬉しい気持ちと、別れる寂しい気持ちが内心に浮かび上がり交差する。
(たった1日だけど、僕にとってこんなにも思い入れのある場所になるなんてな)
母親達に抱えられながら連れてかれ、此方に手を伸ばしながら涙を浮かべる子供達を眺めながらしみじみと思う。
最初の出会いは誰も彼もが驚愕の表情を浮かべ、悲鳴を上げる者、不安の表情を浮かべる者が殆どだった。
しかし、ほんの数時間も掛からず村の皆とは打ち解けあった。
特に子供達がそうだ。物珍しさに集まり、大きな岩の身体を攀じ登り群らがっても来た。皆善い子達だ。
ただ、皆が岩石の魔獣に対して〝恵みの使い〟様と崇められるのは、流石にむず痒く恥ずかしい。
(僕、魔獣なんだけどなぁ…)
そんな自分の事を考えている中で、ロノタックが話し掛けてきた。
「子供達は随分懐いちまったな。…無理も無いか、たった1日だけだが、遊び相手になってくれたからな。何より、恵みだけじゃなく俺達の手伝いをして貰ったからな。命も護ってくれたしな。感謝で一杯だ」
ポフォナ森林の出来事も思い出しながら、ロノタックは感謝を告げた。
正直、感謝すべきは此方の方だと思っている。
人に害を成す魔獣の類であるにも関わらず、受け入れてくれた事がとても嬉しかった。一緒の食事を誘ってくれたり、ポフォナ森林の狩りに同行させてもくれた。葡萄酒だって丸ごと樽1つ譲って飲ませてくれた。
(僕だって、感謝で一杯だよ。本当にありがとう)
岩石の魔獣は、心の中で感謝を送った。伝わっているかは分からないが。
たった一日の出来事。
この世界で最初に出会った3人の男。
元冒険者のタンタ、目を開けた時に一番近くに居た剣を扱う堅実そうな人だった。
村の狩人ロノタック、結構表情豊かな印象もあり、普段から気さくな性格だが、とてもしっかりとしている人でもあった。
槍を持つ村の門番カヌン、何となくだが少し臆病な面があるが、それは決して悪い事ではない。門番としての役目をしっかりこなし、いざとなれば彼は勇敢に戦う戦士だろう。
村の人達の最初に見た驚愕の顔は、今でも憶えている。それを必死で説得してくれた3人の慌て振りも、今となってはもう笑ってしまう様な良い思い出になっていた。
村の子供達は無謀かつ勇敢というよりも好奇心で近寄って来て、岩の身体を攀じ登り、群がる。そんな光景を見た母親達は驚愕と心配の気持ちが交差していたのも、今なら笑い話になるだろう。
特殊技能で畑の農作物を実らせた光景を見た村の人全員は、歓喜という驚愕の表情は鮮明に覚えている。
最初に葡萄畑で大量に葡萄を実らせた光景は、奇跡と言って良い感動が皆の心の中から溢れたのも分かる。御蔭で彼方此方の畑を行ったり来たり忙しなく走り回ったが、友好的に頼られるのは素直に嬉しかった。
子供達の遊び相手になって上げた事で、母親達を含む村の婦人達とも友好な関係を築く事が出来た。
普段は其々の仕事で構って上げられなかったんだろう。それがとても助かったのだろう。
そして恵みを与えてくれたお礼に食事に誘ってくれた。野菜の素材の旨味が溶け込んだ野菜スープはとても美味しかった。
タンタとロノタックと一緒にポフォナ森林に兎狩りへと出掛けた一時も、良い思い出だった。2人を鷲掴みする様に抱えてフォラール大草原を疾風の如く駆け抜けると共に、2人の絶叫が大草原に響き渡った。
よほど怖かったのだろうと、今も反省してる。
今度機会があるなら、走る速度に気を付けなければ。
初めて最初に見た兎の魔獣、サーカスムフェイス・ラビットのあの憎たらしい顔は絶対に忘れられなかった。憎たらしい顔に似合った口の悪さも頭の悪い会話内容も、忘れたくても忘れられない。最後は逃げ回る兎達を、一方的に追い掛け回したもんだ。
扁桃の樹を見付け、特殊技能でまた大豊作現象を起こし、扁桃の堅果を沢山拾い集めたもんだ。
帰ろうとした時に不意に現れたヘンテコ狼のイナクティブ・ウルフ。
最初に見た時はやる気の無いお間抜け顔をしていたが、襲い掛かってきた時の豹変ぶりは驚愕したものだった。いきなりあんな凶悪な顔に豹変すれば誰でも驚くだろう。…ただ此奴も馬鹿だった事にも驚いた。最初から最後までお肉の事しか言ってなかったのもある意味印象的であった。
一番嬉しい思い出は夜の食事会だ。
野菜スープにサーカスムフェイス・ラビットの燻製肉、そして扁桃の堅果と酒樽丸ごとの葡萄酒を頂いた事だ。あの幸せな一時は決して忘れたくない大切な思い出だ。
たった1日だけの出来事。
たった1日だけで、とても濃くも深い出来事に、思い出深い1日を皆から貰った。
皆に幸せを分け与え、皆から幸せを分け与えてくれた。
この幸せは、人でも人外でも関係無い。
お互いを助け合う事、それが何よりの幸せを共有する事が出来る方法なのだ。
たとえ最初は拒絶され、恐怖の存在とし避けられても、この思いは決して失いたくない。どんなに世間から害のある危険な魔獣と言われようとも、この世界の善き人達を助け、この恵みの力で幸せを分け与えよう。
その為に世界を旅し、この足で様々な場所へ歩もう。
フォラール村の人達の願いを叶える約束を、心の中に秘めて。
たった1日の濃くも深い幸せな出来事を思い返しながら、岩石の魔獣はタンタに向けてゆっくりと手を伸ばした。少し手を空けながらジッと待つ。
「今度は、別れの挨拶か…」
タンタは手を伸ばしてきた理由を直ぐに理解した。
初めて出会って最初にタンタが交わした挨拶の握手だ。
今度は岩石の魔獣から握手を求めた。
初めて友好を求めてくれた人に対する礼儀を込めて、大きくゴツゴツとした岩の手を差し出した。
タンタは〝恵みの使い〟の大きい岩の人差し指を掴み、岩石の魔獣は親指を動かしタンタの小さな手を握り潰さない様に優しく摘む。
ゆっくり、ゆっくりと互いは手を上下に振り、別れの挨拶を交わした。
「元気でな」
「ンンンン」(皆さんも)
タンタの別れの言葉に岩石の魔獣も野太く鼻の掛かった、そして少しだけ優しい高音が混じった声で別れを告げた。
「無事を祈ってるよ」
「ンンンンンン」(大丈夫。無理はしないよ)
カヌンは旅路の無事を祈りに、岩石の魔獣は感謝の意を声で発した。
「また此処に来てくれよ。何時でも歓迎するぜ」
「ンンンンン」(うん。また来るよ)
ロノタックからまた来て欲しい事に、岩石の魔獣は穏やかな顔を縦に振り優しい声を発した。
そして摘んでいたタンタの手を離し、ゆっくりと村の皆に大きな壁の様な岩の背を向ける。
大きな背中に生えている、とてもとても小さな草原は春風に吹かれ揺れていた。
岩石の魔獣の視界に映るのは、未だ大きな影が残る美しいフォラール大草原。その大草原を境界線の様に太い線で引き分けるような、雑草すら生えていない大地の肌が剝き出しなっている一本道が遥か先まで伸びていた。
そして重い岩石の脚を動かし、歩き始める。
1歩1歩の脚を動かす速度はゆっくりだ。だが、岩石の魔獣の1歩の幅は大きく、人の歩く速さを軽く凌駕する歩む速さだった。
ズシリ、ズシリ、と大地を踏み歩く重い足の音が少し響く。
大きな岩の身体が少しずつ、少しずつと小さくなり始め、フォラール村から遠ざかり続ける。
岩石の魔獣は小粒の石の様に小さくなり、やがてはその姿を視認する事が出来なくなった。
恵みの奇跡を齎した岩石の魔獣は、フォラール村から新たな旅路へと歩み、この広い世界の何処かへと去り行くのだった。
「……行っちまったな」
ロノタックは珍しく、寂しそうに口にする。
「あぁ…。行っちまったな」
タンタも寂しく呟く様に口にする。
〝恵みの使い〟が地平線の彼方に消えていった後、村の皆は今日の仕事に掛かろうと村の中へと戻って行く。
その足取りは決して重くはなく、普段と変わらない足取りであった。
ただ、表情は微かだが、寂しさが混じっていた。
「本当に不思議な出会いだったな」
カヌンは最初の出会いを思い出しながら語る。
「たとえ魔獣でも、あんなに不思議なのが居るなんて思いもしなかったよ」
「あぁ、本当に不思議な出会いだったな」
「そうだな。一番不思議なのは、まるで俺達と同じ様な人間みたいな雰囲気があったしなぁ」
3人はそれぞれ〝恵みの使い〟の行動や人間味のある仕草を思い出しながら話す。
そこに一緒に歩いていた村人達の1人が声を掛けてきた。
「そんなに人間っぽかったのか?」
「如何もそんな感じがするんだ。特にあの目を見てるとな」
訪い掛けた村人に答えた内容に、別の村人から疑問が投げ掛けられた。
「目? 目が如何かしたのか?」
「もし魔獣であったとしても、あんなにも穏やかな目をしていたんだ。まるで優しい人間の目としか思えない位にな」
〝恵みの使い〟の大きく透き通る様な青空の色の輝く瞳からは、好奇心、喜び、少し子供の様な無邪気さ、人の心を和ませ安心させてくれる様な穏やかさ、そして何よりも、とても、とても優しい瞳をしていた。
村の皆はその瞳を思い出しながら納得しつつも、それでも〝恵みの使い〟の不思議さは完全に理解する事は出来なかった。
そもそも、あれは魔獣なのかと疑問が浮かび上がる者も居た。
存在自体が謎に包まれていた。
「……もしかしたら、彼奴は〝精霊獣〟だったのかもしれないな」
タンタの発言に皆は一斉にタンタの方へと振り向いた。
「精霊獣!? …まさか、あの?」
カヌンは驚愕と納得の入り混じった声をタンタに投げ掛けた。
「俺も冒険者家業をしてた頃は、そういった情報は耳にする事は少しだがあったさ。知能の高さや高位の魔法を使う事は知識として知っている位だが」
「なるほどな、知能の高さに魔法の点を合わせりゃ納得するな。〝恵みの使い〟様が精霊獣かぁ。俺達ゃあとんでもない存在と出会ったんだろうな」
タンタとロノタックの言葉を聞いていた村人達は、驚愕を含んだ納得の表情を浮かべた。
あの恵みの奇跡は精霊獣ならではの力か、と皆は納得した。
だが、何故人前には滅多に姿を現そうとしない精霊獣が皆の前に現れたのか疑問を浮かべる者も居た。
そんな不確かな事実を村の皆が話し合っている中、1人の村人が驚きの声を上げた。
「おい! あれ見ろ!」
「何だ? いったい如何し………!」
村の皆が一斉に立ち止まり、声を上げた村人の指を指す方向を見て、新たな驚愕でその目を見開いた。
「これって、扁桃の樹? 何でこんな所に!?」
「昨日まで無い筈の樹が何で?」
ある3人は直ぐに理解した。
誰の仕業かを。
「まさか、最後にこんな贈り物をくれるとはな」
タンタの言葉に、皆はハッと気付き理解した。
「もう、ホントに…。どれだけ感謝しても仕切れないぜ。〝恵みの使い〟様よ!」
ある朝、フォラール村の広大な畑の敷地の奥に、昨日までは無かった樹が1本生えていました。その樹は人の平均身長の2倍以上の高さをし、枝には無数の木の葉を付け、更には扁桃の実を其々の枝に付いていた。
そして、その扁桃の樹を感謝の贈り物として植えた者がいました。
フォラール村では、その不思議な魔獣を称えこう呼んだ。
――――〝恵みの使い〟様、と。